(6)

 今、美奈はこの女性が自分に用があって来た、と述べたのだろうか。

 改めて藍染早紀、という女性に目をやる。長い黒髪、身なりの良い服装、整った顔立ち、だが記憶にはまったくない。自分になんの用があるというのだろうか。

「……俺に、なんです?」

「え?」

 口を半開きにする藍染早紀なる女性。

「どこかでお会いしましたっけ?」

「あ、あなたって……?」

「ああ、俺が桜庭綜士ですけど」

「嘘⁉」

 またしても絶叫する早紀、依織がお茶を詰まらせたようで、派手にむせた。



 今、なんと言ったのだろうか。俺が桜庭綜士、男の顔をまじまじと見つめるが火傷の跡などどこにもない。あの時、詩乃や喜美子と一緒に会った時はすさまじいまでの傷が刻印さていたことを確かに記憶している。

 騙されてる……?

 しかし、そんな嘘をつく理由などないはず。

「どうしかしました?」

「い、や……その」

「お姉さん、綜士兄さんになにか用事があるんじゃ?」と伸治。

「ええっと……」

 取りあえずこの男を桜庭綜士と信じることにした。


「なんでしょうか?」

「わ、私……」

 瑞樹には近づくな、それだけを言いにきたのだが、食事の場で話すことではない。ましてここには小学生もいるのだ。

「い、以前からあなたに会いたいと思っておりまして……」

「ハァ……」

 どう考えても、敵にする挨拶ではない。リサという少女が眉をひそめた。


「綜士お兄ちゃん、この人知ってるの?」

「いや、初対面ですよね?」

「えっと……以前、お会いしたことがあるんですが……」

 口元を押える綜士、記憶を探っているのだろうか。

「ひょっとして……」

 息を呑む。察知したのだろうか。

「奏穂幼稚園で一緒のクラスだったとか?」

「え……? ち、違います私は」

「うん……?」

「みず……」

「……水?」

「ああ、どうぞ」

 美奈がコップに水を注いでくれた。


「ありがとう……この魚おいしいですね」

 苦しすぎるごまかし方だった。

「ええ、冷凍品ですけど、いいのが手に入って。最近は魚もすごく高いですし」

「そうですよねー」

 家でも澤村さんがよくそのことを愚痴っていた。


「おい、話が脱線してるぞ」

 リサがイラついたように述べる。

 まずいことになった。せめて児童たちがいないところで話したい。自分の無計画振りを呪いたい気分だった。

「……やっぱりそうなんですね」

 依織がギラリとした目線とともにドスの効いた声を出した。

「な、なに……?」

「早紀さん、お兄ちゃんをろうらくするために来たんでしょう」


 綜士は今の言葉の意味が呑み込めないでいた。

 篭絡……。

 依織はそう言った。どういうことだろうか。

 そうか……!

 この女性はおそらく、日之崎通商の従業員の子女なのだろう。親を復職できるように請願に来たのだと推測した。

「藍染さん、ご両親が日之崎通商の人間だったとかですか? それなら心配、要りませんよ」

「はい?」

「僕は関わってませんが元社員は全員再雇用するって方針ですので、お父様かお母様か知りませんが、日之崎通商はちゃんとやってくれると思います」

「……ハァ?」

 語尾が高かった気がしたが、とりあえず納得はしてくれたと思う。



 この男はいきなりなにをわけのわからないことを言いだすのだろう、と早紀は思った。

 

 ひょっとして……。


 心を病んでいる可能性がある。それで、この聖霊館という家で療養中なのかもしれない。それならば、あの時の奇行もだいたい説明がつく。

「……わかりました、ありがとうございます」

 とりあえず話をすり合わせることにした。

「それじゃあ、話はついたってことでいいかな?」と芽衣子。

「は、はい」

 話すべきことは、まだ何も話していない。

「ハァ……藍染さん、食べ方きれいですね……」

 美奈が早紀の魚の骨を見て、述べる。

「そう? 普通だと思うけど」

 昔から当たり前のようにやってきた。

「私こういうの苦手で……」

「骨ごといっちゃえばいいだろ」

「瞬、前にそれで小骨が喉に刺さって、難儀しただろ」

 食卓に笑いが起きる。


 夕食も終えて、団らんするだけとなった。時計に目をやる。さすがにこれ以上の長居はできない。

「あの、私そろそろ……」席を立つ。

 廊下まで移動した。芽衣子と綜士、リサが同道する。

「駅まで、お見送りしますので」

「いえ、家の使用人に電話して車寄こすように言いますので」

「わかりました」

「へー、すごいんですね藍染さん」

「え?」

 リサが、探るような視線を送ってきた。


「いや、使用人だなんて、結構なお家のようで」

 しまった。一般的な感覚からは、ずれているだろう。

「リサ」

 芽衣子が叱るような声を出した。

「藍染さん、ほんとは、親が綜士の家の会社の社員だったって話は、嘘なんじゃないですか?」

 はっきり言ってくれる。かくなるうえは、

「ええ……」

 もはや擬態は不要である。


「そうなんですか?」

「桜庭綜士……くん、ちょっといいですか」

「はい?」

 綜士を連れて敷地の外に出た。


「桜庭くん、今日私はあなたに伝えることがあってここにきたの」

「な、なんですか?」

「私は……嶺公院高校の生徒で」

「え?」綜士の目元が固まった。

「あなたの……よく知る人間の親友なの」

「……誰なんです……?」

「いい……? 一度しか言わないからよく聞いて……」

「……」

「み、み、瑞樹に……!」

「瑞樹……」

 綜士の目が見開いた。


「瑞樹……に……!」

 もう近づくなと、言わねばならない。だが、

「藍染さーん、これお土産にどうぞー」

 本日、友誼を結んだ少年少女四人が外に出てきてしまった。

「……ッ! 瑞樹は、今でもあなたのことを大切な友達だと思っているわ!」

 甲高い声で叫んだ。


 綜士は、口と瞳孔が開きっぱなしのまま佇立している。そのわきを依織たちがすり抜けてやってきた。

「藍染さん……この私とここまで張り合ったことを評価してこちらを進呈します」

依織がなにかの紙袋を差し出した。饅頭のようだ。


「ありがとう、依織ちゃん……みんなも」

「ですが、お兄ちゃんはあげません」

「はい……」

「また遊びに来てください」

美奈が丁寧に頭を下げると瞬、伸治も続いた。門の向こうで車が停車する音が聞こえた。家の方で呼んでもらった車が来たのだろう。

「え、ええ、それじゃあ……さようなら」

芽衣子たちにも一礼すると、車に乗り込んだ。

「ハァ……」


 瑞樹に近づくなとは言えなかったが、もうあなたは「ただの友達」に格下げになったという趣旨のことは伝えることができた。今日のところはそれだけでもよしとしよう。

 ミラーに子どもたちが手を振って見送ってくれる様子が見えた。早紀も振り返り、最後の手振りで最後の挨拶を送る。

 ずいぶん予定外のことをしてしまったが、

 楽しかったな……。

 というのが素直な感想であった。こんな子供のように奔放に遊んだのは生まれて初めてかもしれない。窮屈な家の中では味わえない新鮮な感覚。なんとなくあの聖霊館という家の子どもたちがうらやましくなった。



 早紀が去った聖霊館の敷地で、綜士は物思いにふけっていた。

 瑞樹が……。

 どうやらあの藍染早紀という女性は瑞樹の同級生であり、友人であるらしい。

「……」

 以前、瑞樹が聖霊館まで赴いた時、自分の精神の未熟さからひどい言い様をして追い払ったことを思い出す。あんな仕打ちを受けても、まだ瑞樹は自分を友人だと思っている、そういう意味のことを早紀は伝えたかったのだろう。


 想像はできないこともない。学校でも綜士のことで負い目を感じており、授業やクラブにも集中できていないのかもしれない。そんな彼女を心配して早紀は綜士に一言物申しに来た、そう考えるのが自然だろう。

 胸の奥に固いものが詰まったような重さを感じる。綜士とて瑞樹個人に怨恨を抱いているわけではないのだ。

 だけど……。

 瑞樹に会いに行くことはできない。まして昔のように親友としての関係に戻るなど。瑞樹と関われば必然的に詩乃の情報も入ってきてしまう。そうなれば自分は正気ではいられなくなる、と思っていた。


「……」

 今となってはそんな想いも稀薄になってきたように感じる。

「綜士?」

 芽衣子の声が耳をかすめた。

「ああ……あの人さ……」

 リサも近づいてくる。


「俺の昔の……知り合いの友人だったみたい」

「……そう」

 芽衣子はだいたいの事情を察ししたのだろう。リサは黙してこちらを見ている。

「まあ……いい人だよ、みんなも懐いたみたいだし」

「そうね」

 しかし瑞樹の友人というなら、詩乃や隆臣とも顔見知りだろう。あまり接触はしないほうがいいかもしれない。


 依織たちが戻ってきた。

「お兄ちゃん……」

 依織が綜士の前で仁王立ちして見上げてくる。

「な、なに?」

「藍染早紀さんとは……仲良くしてあげて」

 それだけ言うとそそくさと本館に入ってしまった。瞬たちが笑いをかみ殺している。

 ため息をついて、夜空を見上げる。オリオン座の三ツ星が、澱んだ大気のはるか上空から光を放っていた。学校の課題のために、いつもの三人で元柳の裏山の展望台で星座観察した小学生の頃の記憶が、記憶の湖の底から顔を見せる。

 俺たちは……。

 今でも、途切れない糸でつながっているのかもしれない。


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