(2)
「あそこだよ……」
わずかに足が震える。およそ二十か月振りの帰還となる我が家の外観はまったくといっていいほど変わってない。
「うわあ……素敵なお家」
依織が感嘆の声を漏らした。美奈たちも、言葉を失っている。
「ここが綜士の……」
芽衣子が、家の敷地を見渡した。
「リサとは前に一度来たことがあるけど」
「え? そうだったのリサちゃん?」
「……」
リサは黙っている。
「リサちゃん……?」
「まだ出会ったばかりのころにね」
リサが微かに頷いて肯定の意を示した。
「ちょっと待ってて」
外問扉にぶら下がったままの売却物件の札を力任せにはぎ取りたくなったが、自重して静かに外すとチェーンを鍵で外した。敷地内に入る、
「……」
庭を確認する。シンボルツリーのオリーブは手入れがなされないまま伸び放題になっていた。車庫はシャッターが閉められたままになっていた。中には大型ワゴン車とセダン車があるはずで、後で確認する必要がある。
「さあ、みんなどうぞ」
全員でアプローチを通り、玄関まで来た。
財布から鍵を出す。
「……ちょっと離れてて、中、かなり空気が澱んでいると思うから」
「うん」
芽衣子たちが後ろにさがる。
「ハァ……」
息を吸い込んでから、差し込んだ鍵を回した。
「よし……」
ドアを開く。
「……⁉」
ただ、驚いた。
なにも……なにも変わっていない……。
「お兄ちゃん?」
依織の言葉も耳に入らないまま、家に入る。靴をそろえることも忘れて、床に足をつけた。
帰って……来たんだ……。
懐かしいだなんて言葉ですら言い表せない。意識を圧倒的な感傷の海に沈ませる。
靴入れには父の革靴、母のハイヒール、弟の子ども靴がそのままになっていた。
毎朝ここを出て学校に行った。毎日ここに帰ってきた。この家が綜士の生活の起点であった。帰りを待ってくれている家族がいた。家族の帰りをいつも待っていた。
だけどもう……。
今はもう誰もいない。帰りを待つ人も、帰ってくる人も。
「ただいま……」
静かに、念じるようにその言葉を唱えた。
「あ……」
みんなを待たせていることをようやく思い出した。慌てて、玄関を出る。
「さあ、どうぞ中へ」
「……うん」
全員、静寂とした様子だった。綜士の精神状態を心配しているのだろう。問題ないと、顔で伝達した。
「おじゃましまーす」
一番乗りは依織だった。
「入るよ、兄ちゃん」続いて瞬。
「お邪魔します……」伸治が続く。
「お兄ちゃん、お邪魔します」と美奈。
興味深そうにあちこちに目を走らせる子供たち。
「綜士、お邪魔するね」
芽衣子がみんなの靴を丁寧にそろえる。玄関の外で突っ立ったままのリサが目に入った。
「リサ、どうしたんだ?」
「……入っていいの?」
「……? いいよ、どうぞ」
リサも靴を脱いで、家に入った。
「どれどれ」
今日から、電気と水道は使えるようにしてもらってある。壁のスイッチを押すと問題なく点灯した。
全員で、ダイニングまで移動すると、
「ああ……」
大きなため息が出た。テーブルに置きっぱなしの新聞にタブレット、伊織用の補助いすもそのままになっている。あの日の朝の残影が、そのままの形を留めていた。
「すごーい、きれいなダイニング」依織がキョロキョロ首を回した。
テーブルの上に指を走らせる。やはりというか、かなりのほこりが張りついていた。
「やっぱり空気がにごってるな……よし!」
腕まくりした。
「それじゃ、みんなお願いしていいかな」
「うん」
「どうぞ」
「任せて綜士」
「まずは一階のすべての部屋の窓を開けて空気を入れ替えて、二階は俺がやるから」
「はーい」
ゴミ袋と掃除機、箒、ちりとり、モップ、雑巾、バケツを出して、大掃除を開始した。
二階に上がると、
「……」
自分の部屋のドアを回した。
「……やっぱり」
ここもなにも変わっていない。壁際にかかった中学校の制服、受験でつかった参考書の束、まるで時が止まったまま綜士の帰りを待っていたかのようだった。
感傷に浸るのは後にして、とりあえず窓を全開にした。
一階に戻ると、いよいよ懸案の冷蔵庫の前に立った。
「綜士これ……」
リサが緊張した表情で後ろから声をかけた。
「ああ、わかってる……」
長らく放置された冷蔵庫、中は……想像するのさえ怖い。換気扇を回して、窓を開く。机の上のバッグから消臭スプレーを取り出した。
リサにマスクを付けるように言った。
「離れていろ……」
「あ、ああ……」
不発弾を処理する工作兵の心地で冷蔵庫を開く。
「うわあ……」
ラップに包まれていたと思しき料理が謎の物体に変質していた。牛乳パックをの恐る恐る取り出して、流しの排水口に捨てると、カラフルに変色した中身をみてげんなりした。
「リサ、ここはきつい……。俺に任せてみんなを手伝ってくれ」
「オレはそんなやわじゃない」
意地になったのか、リサが冷蔵庫のものを片っ端から取り出して、生ごみとも言えない謎の有機物となった肉や野菜をゴミ袋につめていく。
「すまん、ありがとう」
電源の入らないままの冷蔵庫、中を徹底的に除菌してから念入りに拭いて、開いたまま当分は放置することにした。
大車輪で掃除を進める綜士たち、芽衣子の手慣れた合理的かつ迅速な指示で正午を回る頃にはほとんどが終わった。
「みんな、疲れたでしょ。そっちのリビングで休んでてお昼用意するから」
「うん」
「綜士、ここのキッチンは……」
「ああ、まだガスは通ってないんだ。なにか出前取るから」
「そっか、わかった」
料理をするのは無理だろう。
「確かここに……」
近所のデリバリー店をまとめたファイルを取り出した。
「ピザでも頼むか……」
時節柄経済的とは言い難いが、みんなの労に報いるにはこの程度どうということはない。適当に注文すると、ソファに身を沈めた。
「ふう……」
「お疲れー、綜士」
「俺のセリフだよ。みんな今日はありがとう」
一日で大体の掃除が終わるとは思わなかった。
「二階はどうするの?」瞬が尋ねた。
「ああ、そっちはいいよ」
「あー、お兄ちゃん、自分の部屋を見られたくないんだー」意地悪依織。
「ほう……それじゃ、行こうか依織ちゃん、俺の部屋に」
「キャー」
ふざけながらリサの背中に回り込む依織。
「そっちは……ご両親の部屋とかもあるんだしね……」
芽衣子が静かな声で述べる。
「あ……ごめん、お兄ちゃん……」
「そんなんじゃないって」
さっき見てきたが、寝室、書斎ともにきれいなままだった。普段から几帳面な両親だったので、改めて手入れをする必要もない。
「テレビつけていい?」伸治が大型の液晶を興味深そうに観察している。
「どうぞ、つくかな?」
リモコンを操作すると問題なく電源は入った。
「あ……」
視界に白い靄がかかった。記憶のフラッシュバック、朝、ここで天気を見てから学校に行くのが常だった。夜は母が古い洋画を見ていた。伊織がぐずると、アニメを流して落ち着かせた。そんな、遠い日の記憶。
「兄ちゃん?」瞬の声。
「あ……ああ! ちゃんと映ったみたいだね」
「すごいねこれ、聖霊館のやつより大きいし、映像もきれいで」
「8Kテレビだよねこれ」伸治が画面を注視する。
「うん、もう古いモデルだけどね」
「お兄ちゃん、やっぱりせれぶだったんだ……」
そこでインターフォンが鳴ったピザが来たのだろう。
「ちょっと行ってくる」
立ち上がり玄関に向かった。
ピザを受け取り、支払いを終えるとダイニングテーブルに乗せた。
「みんな、こっちこっち。好きなの食べちゃって」
七人は少し窮屈だが、なんとか全員席に着いた。
「綜士、いくらだった?」
「いいのいいの、今日は俺からみんなへのお礼ってことで」
「わー太っ腹―」
依織が煽る。
「ハハ……こんなんでお礼なんて申し訳ないくらいだよ」
「うん、ありがとう。でも食事前にみんな、ちょっといいかな?」
芽衣子が立ち上がり呼びかけた。
「うん?」
全員で隣のリビングに移動する。
「これ、さっき掃除中に見つけたんだけど」
「ああ……」
芽衣子が出したのは、、父、綜一郎、母、京佳、弟、伊織、そして綜士の四人で撮った家族写真、ちょうど中三の時のものだった。
「食事の前にちゃんとご挨拶しましょう」
芽衣子が写真立てをキャビネットの上にそっと置いた。
目をつぶり、芽衣子が頭をわずかに下げて礼の姿勢をとると綜士たちもそれに倣った。
「綜一郎さん、京佳さん、伊織くん、突然のご訪問、失礼いたします。綜士くんは本日、この家に帰りました。綜士くんは健やかでおられます。いつも私たちを助けてくれています。どうか心安んじてお見守りください」
黙とうをささげるとともに静寂が訪れる。目元に水気がたまってくるの知覚したが、今は弱さを見せられない。一心に、両親と弟の冥福をただ祈った。
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