第二章 再生回帰

(1)


 ドアを叩く音が耳を打つ。

『綜士、綜士もう起きなさい』

『後、少しだけ……』

 聞こえるわけもない小声で、ベッドの上で丸くなる。

『今日から、中学校でしょ!』

 ああ、そうだった。今日は、中学生になる日、元柳第一中学の生徒となる日だった。

『瑞樹ちゃんたち、迎えに来てくれたわよ。あなたももう起きなさい』

 あの二人が? ずいぶん早いんだな。しょうがない、起きるか。


 二階の洗面所で顔を洗うと、机の上に準備しておいたブレザーに袖を通した。やはりちょっと大きい。すぐ背は伸びるという母の判断でピッタリより少し大きめのサイズにした。

 ドアを開けて、階段を下る。一階のダイニングでは、瑞樹が一歳児の弟、伊織とにらめっこして遊んでいた。隣には隆臣もいる。

『おはよー』

『おはようさん』

『おはよー! あんた今日がなんの日か忘れたんじゃないでしょうね』

『大丈夫……』

 あくびをしながら、椅子に腰を降ろした。

『入学式が終わったら、クラブオリエンテーションがあるみたいだぞ。綜士はもうクラブ決めたか?』

 隆臣が、コーヒーを入れてくれた。


『いや……。まあ、運動とかめんどくさいし、どこか文化系に潜り込むつもり……』

『もう、若いうちは体使っといたほうがいいんだよ』

 おばさんくさいことを言う瑞樹。ソフトボールをやりたいと言っていたことを思い出した。隆臣はどこに入るつもりなのだろうか。

 適当に朝食を胃に流し込むと三人で、桜庭邸を出た。初春の強い風が艶やかな桜の葉を空に舞わせた。これから三年間の通学路となる道はもう頭に入れてある。

 目的の中学校近くまで見ると、同じ制服の、これから同級生となる新入生が散見できた。一様に緊張をはらんだ面持ちで、歩いている。

『あっちみたいだな』

 裏手にある体育館で式は行うようだ。誘導に従って進む。


『ねえ、聞いた? 今年の新入生にえらい政治家のお孫さんがいるんだって?』

 瑞樹がなにかの噂話を始めた。先に入学した小学校のころの先輩たちから聞いたらしい。

『ふーん』

 適当に相づち、特に興味もない話題である。

 入学式も滞りなく終了し、教室での担任との初顔合わせが終わると、クラブオリエンテーションが始まるまで、生徒食堂で歓談となった。

 公立とはいえ元柳の中学だけあって施設の充実ぶりに目を見張る。小学校の時とは偉い違いだった。

 別のクラスになった瑞樹と隆臣を所在なさげに待つ。

『……?』

 なにかひそひそ話が耳に入ってきた。


『あそこの子が……?』

『ああ、月坂九朗の孫だとさ』


 つきさか? 確か外務大臣にそんな名前の人がいた。その孫……。


 なんとなしに目を向けた。

 そこにいたのは、一人の新入生の少女。やや背は低い方で、髪はショート、きれいに整った顔立ちは微妙に人形みたいに見えた。

少女は、ややぎこちない表情で、同じクラスになったと思われる新入生同士で話を交わしている。


 あの子か……。


 大して関心もわいてこないが、なんとなく視線を外せなくなっていた。そして、

『……!』

 一瞬であったが目線が交差してしまった。慌てて、目をそらす。


 入学初日からなにやってんだ俺は……。


 自分の間抜けさを叱咤して食堂を出た。背中にはまだ視線を感じていた。

『そういえばあの子……』

 名前はなんと言ったのだろうか。

『……まあ、いいや』

 すぐにそのこともどうでもよくなった。




「綜士、綜士」

 ドアを叩く音がする。

「う……」

「綜士、もう朝だよ。起きて」

 部屋の外からの声だった。

「ああ……」

 上半身を起こすも意識はまだまどろんでいる。

「入っていい?」

「うん……」

 わざわざ許可を求めるなんて珍しい。普段はずかずかノックなしにドアを開くくせに。


「わあ、すごい髪。そろそろ切ったほういいんじゃないの」

 余計なお世話だ。

「寝汗もずいぶんかいたみたいね。シャワー浴びた方がいいよ」

 なんだろう。今日は妙にやさしい気がする。

「昨日の仕事でくたびれたのかな? 今日は家で寝てる?」

 昨日? 昨日なにがあったというのか。

「綜士、ほんとに大丈夫?」

「大丈夫だって、かあ……」

「かあ?」

 目を一気に見開いた。頭の駆動機関を一斉に起動させ、正常な認識を取り戻す。ここは自宅ではないし、目の前の人物は母親でもない。


「だ、大丈夫……です!」

「う、うん」

 大声を張り上げたので、芽衣子がのけぞる。

「ご、ごめん! えっと」

 時計を確認、いつも起きる時間を超過していることを認めた。不慣れな力仕事に加えて、夜に考え事したせいで、心身ともに疲労していたようだ。

「今日も講習でしょ。お客さんはいつ来るの?」

「三時ごろにしてもらったよ」

「そう、私も今日は5限までだから帰ってお茶の用意しておくね」

「ごめん、ありがとう。……ほあ!」

 シャツの下はハーフパンツが脱げて、下着一枚になっていた。

「どうしたの?」

 微塵も気にしている様子がない芽衣子だったが、慌ててベッドの下に落ちていたハーフパンツを回収して足を通した。



 ダイニングまでやってくると、既に朝食の用意はできていた。

「お兄ちゃん、おはよう。ずいぶんお寝坊さんだね」

 依織がパンをかじっている。

「ああ、おはよう。ごめん、手伝えなくて」

 席に着く。

「瞬と伸治は?」

「もうご飯食べて部屋に戻ったよ」

 美奈が伸びをした。


「そうか、ずいぶん遅れたんだな俺……リサは?」

「先に行っちゃった、なんか朝練とか言ってたけど」

 依織が綜士のコップに紅茶を注いでくれた。

「ふん? 朝練……」

 リサは一応、セントアンナ劇団とかいう演劇部に在籍しているというだけで、特にクラブ活動はやっていないはず。なんの練習なのかわからない。


 テレビをつける。今日の天気は晴れのち曇り、強風高波注意報が出ていた。続いて戦争のニュース、昨日の中東での出来事が流れそうになった瞬間に電源を切った。依織や美奈の前で流すようなものではないのは考えるまでもない

「そろそろ寒くなってくるから、寝る時はみんなちゃんと着こんでおくように」

 ドキリとした。

「はーい」

「うん」

 二人の自然な反応をよそに先ほどの間抜けを視られたことを想起して、頬が火照ってきた。芽衣子にそれとなく視線を向けると、ニッコリ笑顔。彼女も意地悪したい時はあるようだ。

 電話がなった。芽衣子が腰を浮かしかけたところで、自分が取ると手振りで示した。


「はい、聖霊館です」

『綜士くんか⁉』

 受話器を取った瞬間に、大声が鼓膜を震わせる。

「え? あ、郁都さんですか? おはようございます」

『綜士くん、大変……! いや吉報だ!』

「はい?」

『テレビをつけてくれ! 7チャンネルだ』

「え、ええ」

 言われたとおり、リモコンを操作した時、一つのニュースが報道されていた。

「……これ!」


 他人の土地や不動産の所有者になりすまして売り払う詐欺グループが摘発された、というものだった。それも日之崎市での過去に行った詐欺行為も警察の調査により明らかにされて、違法に土地の移転登記を受けた業者にも事情聴取が行われたという。綜士の実家である元柳町の家を占有しているあの企業の名前もあった。

『見ての通りだ』

「あ、ああ……」

 驚嘆の息を肺の奥から絞り出す。事態は大きく進展したと見ていいだろう。


『綜士くん、今日にでも警察から連絡が来ると思うが』

「ええ……」

 被害届は既に出してある。民事では海望商事の代表である谷田川道らが代理人となって、アルクィン財団の弁護士が返還請求訴訟をやってくれている。

『あの業者ももうもたないだろう。我々は引き続き彼らの非を法廷で問うつもりだが、折れて和解を申し入れてくる可能性は高いはずだ』

 同感である。テロの遺族の邸宅を不法占有しているなど最低な外聞だろう。ごねてなんらかの代償を得たかったようだが、こちらは断じてそんなものは認めていない。


「そう……ですか。わかりました」

 手を強く握る。親と弟の、家族で暮らしてきたあの家をようやくこの手に取り戻すことができそうだ。

「郁都さん、ありがとうございます。俺なんかのために……」

『僕の力じゃない。代表が……。ともかく警察の方は君一人で大丈夫かい?』

「ええ、ちゃんと話せますので」

『わかった、それじゃあまた連絡する』

「はい、ありがとうございました」

 受話器を置くと、ハンカチで汗をぬぐった。

「綜士、なにがあったの?」

 芽衣子たちがやや不安な面持ちをしている。

「あ、ああ……実は」

 だいたいの説明を行った。

「そう、それは、よかったねえ」

 芽衣子はそう言ってくれたが、綜士の内心では、来るべきものが来たと覚悟を決めるような心地だった。

「うん……」

「どうしたの? あまりうれしそうじゃないけど……」

「いや……そんなことないけど……」

 依織が立ち上がると、ダイニングを出て行ってしまった。美奈も気落ちしたような面差しを浮かべている。

「……」

 家を取り戻す時は、すなわち聖霊館のみんなとの別れの時が近づいてきたことでもある。

「……さ、美奈ちゃんも準備しちゃって」

「うん……」

 立ち上がった美奈の小さな背中をそっと押した。


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