(2)
「う……」
温かな光が窓から差して、頬に微量の熱をもたらしていた。閉じていた目が開かれる。ゆったりとした動作で身を起こした。
「ここ……う!」
両腕で自分の体を抱きしめる。呼吸を荒げて、体の中に巣くった恐怖が出ていくよう祈る。昨夜の悪夢は今も自分を苛んでいる。
「喜美子ちゃん」
すさまじい勢いで振り返った先にいたのは。
「……詩乃」
いつもの柔い笑みの彼女であった。昨日は結局、気分を持ち直すことができず、詩乃の叔母である朝香が寄こした車に同乗させてもらい、ここで休むように言われ、そのまま詩乃のマンションに泊ることになったのを思い出した。
「おはよう」
「おはよう……」
情けないほど弱弱しい声。自分はこんなにも脆かったのかと、ますます気落ちした。
「調子はどうかな?」
「……絶好調」とは程遠い。
表情との著しい不一致に詩乃が笑った。
「朝ごはん用意できてるけど」
「ありがと……」
「食べる気しないかな?」
「……ごめん、今はちょっと」
「わかった。今、ココア用意してるから待ってね」
詩乃が立ち上がり、部屋を出ていく。
詩乃、強くなったんだ……。
普段は彼女を守っている気になっていたが、今は立場が逆転していることに感嘆の吐息をもらす。
入学当初は、本当に小動物みたいに線の細い気弱な少女だった記憶を追懐した。いつもおどおどと目立たないように振る舞い、瑞樹と隆臣に守られていた。
詩乃は、あの日宮祭のテロ事件で記憶と声を失い、彼女の祖父が標的であったとの噂により酷い嫌がらせを受けていた。
それが事実であったとしてもなぜ祖父のことで彼女が責められなければならないのか、喜美子にはわからなかった。
だからこそ、周りの生徒からも距離を置かれていた詩乃に積極的に話しかけた。怯え切っていた詩乃も段々心を開いてくれた。通じ合えるなにか見いだせた気がした。新設されたばかりの合奏クラブに誘ったのも自分だった。
彼女が声を取り戻した時は本当に驚いたし、涙が出るほどうれしかった。二人はいつのまにか親友と呼べるほどの関係になっていた。
でも私は……。
中学までの詩乃のことはなにも知らない。瑞樹にも訊いたことがない。記憶のない詩乃にとっては今の現実こそが大切と思っていた。
それが今になって気になってきた。
あの男……の人ほんとに何者なんだろ……。
桜庭綜士という男について改めて思いを巡らせる。当初、考えていたような月坂家に粘着して嫌がらせを行ってきた手合いとは、少し違うのではと考え直している。
一度、窮地を救ってもらったからといって極端に考えがぶれるのもよくないが、あの男の善意と勇気に疑義を持つのも躊躇われる。ちょっとした気まぐれであったにせよ、借りは借りとして受け止めている。
以前、詩乃を待ち伏せていたところ、隆臣らバスケ部と乱闘になり、警察に逮捕されて、詩乃への接触禁止の誓約書に署名させられたと聞いていた。それ以来、自分たちの周りで音沙汰もないのでことは終わったと思っていた。
ベッドから降りて、窓を開く。風がそよいでおり、秋の涼しい微風が顔にかかった。
口元に手をあてて思索を続ける。
あいつ、あの顔の傷は、火傷の跡に見えた、けど……。火傷……?
「……⁉」
一つの洞察が突如、頭に飛来した。あの男の火傷の痕跡、あれは去年の日宮祭で負ったものではないだろうか。喜美子は赴いていたわけではないので、詳細は知らないが、すさまじい爆発で九十名以上の死者を出したことくらいは知っている。
冷たい汗が首元に滴る。詩乃の記憶喪失はあの事件に起因している。あの場にあの男が居合わせていたとすれば、以前から知り合いだった可能性がある。
「で、でも……」
俯いてさらに思考を深化させる。
詩乃は詩乃は知らないと言っていたし……。あ……。
なにを馬鹿なことを言っているのか。記憶を失ったのだから、顔見知りであったとしても覚えているわけがない。
なにか行き違いがあったのかもしれない。それを問答無用で排除したのは、自分ではないか。
額を強くつかむ。その理由は見かけであったとしかいいようがない。あの男のダメージメイクのような壮絶な火傷がただ恐ろしいものに見えた。それだけの理由だった。
頭を押える。今立てた仮説が事実だったとしても、なぜ一年半も経ってから詩乃に会いにきたのだろうか。
あの男を最初見た時のことを必死に思い返す。なにかを彼女に必死に訴えていた。それは……。
「……そんな! そんなこと!」
あり得ない、と思いたい。詩乃の彼氏、であったかもしれないなど。
動悸が速まる。もしそうだとしたら、自分は取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。
「喜美子ちゃん……?」
「あ……」
うかつだった。考えに集中し過ぎて、詩乃が部屋に戻ってきていたことに気づけなかった。ココアのカップを乗せたトレーを持って、怪訝な表情で喜美子を見ていた。
「あ、ああ、ありがと詩乃」
さりげなくコップを手に取る。指はかすかに震えていた。
「大丈夫だよ」
詩乃が自分の肩にそっと触れる。昨日なにがあったかは訊かれていないが、とても怖い思いをしたのだと思っているのだろう。
そういえばみんなにもなんも言ってないや……。
ちゃんと話しておかないと心配をかけるだろう。
「えっと、朝香さんは?」
「今日はお出かけ、ゆっくりしてって言ってた」
「うん……」
「後で早紀ちゃんも来てくれるって」
「わかった」
ちゃんと話しておいた方がいいだろう。あの男のことはうまくはぐらかして。視点を詩乃の顔に当てる。白い肌に子供のような顔立ち。自分よりも幾分年下に見える彼女に彼氏がいたという想像がどうもできない。やはり自分の考えすぎなのではないだろうか。
「ねえ、詩乃……」
「なーに?」
迷う。こんなこと訊いたことは一度もないが、今は訊きたくて仕方がない。
「昔のこと、知りたいと思う時って……ある……?」
「え……?」
口をわずかに開いたまま黙する詩乃。やっぱり聞くべきじゃなかったと思ったその時、
「……ううん、ないよ」
穏やかに緩んだその表情は、なにか切ない。
「ごめん、変なこと訊いた……」
ベッドに腰かけて視線を床に落とす。詩乃も静かに隣に座った。
「写真とかでしか知らないけど、お母さんやお父さんのこと、知りたいとは思うよ。私を育ててくれた人だし、忘れられたままじゃきっと悲しむと思うから……」
悲し……む……。
「でも、何度、調べてみてもなにも頭に浮かんでこないの。どこかの病院の白い天井を見たのが、私が覚えてる一番古い記憶……。本当になにも思い出せなかった。どうして食事をするのか、なんで夜に眠るのかさえ」
声に硬度が増す。もう止めた方がいいかもしれない。
「ここまでまともになれたのは、朝香さんや瑞樹ちゃん、矢本くん、それにみんなのおかげ。本当に感謝してる」
「そんなこと……」
「だからね、このまま自然に任せてみようと思ってるの。いつか、ふとした拍子になにか思い出せるんじゃないかって」
「そうなんだ……」
もしその日が来たら、自分の推察が正しかったとしたら、その時彼女は……。
電話がなった、自分の携帯のようだ。
「詩乃ごめんちょっと……」
「うん」
手に取ってみる。知らない番号だった。
「……もしもし」
「あ、もしもし、泉地喜美子くん……か?」
「はい」
どこかで聞いたことのある声だった。
「その、突然すまない。バスケ部の天都だが」
「天都さんでしたか、おはようございます」
「ああ、おはよう、いきなり変なこと訊くようで悪いが、君、昨日、賢哉のやつとなにかあったかい?」
「え?」
なぜ賢哉の名前が出てきたのかわからない。
「いや、さっき、知り合いから電話があってだな。あいつがその、以前うちの部と争った人間ともめているようで。やつにも、なにがあったのか訊いてみたんだが……君のことで、落とし前をつけさせるだの、不穏当なことを言っていたから……」
「え⁉」
昨日、ビュッフェに戻った時は賢哉にはなにも話していない。
しまった……。
歯噛みする。賢哉はあの火傷の男に自分がなにかされたのだと早合点して、喧嘩を吹っ掛けにでも行ったのかもしれない。おちゃらけた彼だが、仲間意識は強い。
「と、止めてください!」
「そうしたんだが、携帯の電源を切ってるようで連絡がつかんのだ」
「ああ……!」
大変な事態になってしまったと、目元を押える。
「喜美子ちゃん、どうしたの?」
詩乃が怪訝な表情を寄せている、彼女の前でこの話題はまずい。慌てて廊下に出た。焦燥が指先に汗を浮かべさせる。
「天都さん、あいつがどこに行ったかわかりませんか?」
「改めて知り合いに訊いてみることにする」
「わかりました、自分も行きますのでわかったらすぐ教えてください」
「わかった」
そこで通話を終えた。
「あの馬鹿……!」
小声でつぶやく。
あの火傷の男は敵だが、昨日は助けてもらった。いわれのない濡れ衣をかぶせられたままにしてはおけない。
それに……。
訊いてみる必要があるかもしれない、彼と詩乃と過去になにがあったのかを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます