第五章 忘れえぬ人
(1)
「それじゃあ、私たちは後から行くから」
「うん、お昼にジャングルジムの近くで待ち合わせね」
朝の陽光に照らされたガラス戸が光を屋内まで運んでくる。玄関前で小学生組を見送る綜士と芽衣子。
「みんなの種目までには間に合わせるから」
相変わらず芽衣子は母親みたいなことを言う。
「別にいいって……」
つま先を叩いてシューズを整える瞬。伸治もどこか落ち着かない様子で外を見ている。二人とも、少し緊張しているのかもしれない。
「みんな応援してるよ」
当たり障りのないエールを送る。
「ありがと、お兄ちゃん。後で友達紹介するね」
依織が微笑む。
「ああ」
自分まで親みたいな気分になってきた。
「それと、道中は気をつけて。車だけじゃなくて、その……変な人とか」
昨日の件もあり、子どもたちの身辺には神経を使う。
「はーい、あ、リサちゃん」
振り返ると階段からリサがゆっくりと降りてきた。
「……」
表情は普通だが、まだいつもの覇気を欠いているように見える。
「リサちゃん、先に行ってるね」
「おう」
気の抜けた返事。
「姫、大丈夫……?」
伸治が控えめに尋ねた。
「ちょっと眠いだけだ。オレも行くから……アルクィン魂見せてこい」
「うん、頑張る。姫に教えられた通りにやるから」
「ああ」
「それじゃ、行ってきます」
美奈が先導して小学生たちが外に出た。ドアが閉じられる。
「ふん? リサがなにか教えたって?」
「うん、リサは以前、陸上やっていたから」
「へえ」
初耳である。普段からのトレーニングでなにかスポーツをやっているだろうことは察していた。
「でも、今は演劇部なんだろ?」
リサは身じろぎもしない。無視しているわけではなく、訊いてほしくないというオーラが漂っている。
「リサ、大丈夫?」
「平気だって。みんなの弁当用意するんだろ、やるぞ」
と言ってダイニングまで歩いていく。沈黙したまま芽衣子とその背をじっと見つめる。
「やっぱりまだ本調子じゃないみたいだな……」
自分が昨日下手を打ったからだと、自責の念を覚える。あの本郷賢哉とのやり合いでリサに余計な負担を与えてしまった。
「大丈夫、綜士がしっかりしてくれれば」
そう言うと芽衣子もダイニングに向かった。
「ハァ……」
嘆息の息を漏らして、肩を揉んだ。今日、あの猛り狂ったような本郷賢哉とまみえることになると思うと気が重い。こちらの話を信じなかったら、腕力の行使に踏み切ってくるかもわからない。それならそれで相手になってやってもいいが、昨日、啓吾に迷惑はかけないと言った手前もある。
彼に説得してもらうか……。でもなあ……。
彼は隆臣に近い。できればあまり頼りたくない相手である。あの黒い思念をよみがえらせないためにも……。
弁当の用意を終えると、携帯をつけて地域ニュースを確認する、気がかりなのが一件見えた。
「これは……」
南港区汐浦町の公演近くで、不審な車両を取り調べたところ違法薬物を発見したとのこと。警察は、最近の市内におけるドラッグの流布に関与している可能性があるとして、取り調べを開始した。また容疑者の男はふてぶてしくも近くで寝ていた、とある。綜士が昏倒させたあの男に違いあるまい。
「ったく、ゴミが」
「ゴミがどうかしたの?」
自然と出てしまった声に芽衣子が反応する。
「あ、ああ! ゴミ出してきます!」
誤魔化すようにゴミ袋を持って外に出た。
外は晴れ渡っており、風も落ち着いている。のんびり観覧するにはちょうどいい日和であった。
近くの道路では低学年の小学生が保護者に付き添われて集団登校している様子が見えた。長引く戦争による出口の見えない不況の余波で治安は勢いを増して悪くなってきている。子どもを抱える親もピリピリしている気配がここまで伝わってくるようだった。
南港区汐浦町は人口密集地であり、放置されたままの建物の群れも点在しており、ある種のゴーストタウンを形成している。よからぬたくらみを抱く輩の寝ぐらになっており、街の治安の不安定要素になっているのは自明なのだが、市は具体的な対応策を取っているようには見えない。これも隣接する高級住宅街、緑山区元柳町を優先しているから、という事実なのか憶測なのかよくわからない言説が氾濫している。
汐浦の人は元柳が嫌いなんだよな……。
去年まで、元柳に住んでいた時はそんなことは微塵も意識したことはなかった。おめでたかったのだろう。
複雑な気分で、館のドアを開いたところ、
「お……」
リサが待ち構えていたように立っていた。
「綜士、昨日のことなんだけど」
昨日はずいぶんいろいろなことがあったので、どのことかと思ったが、やはり、あのことだろう。
「心配ない、あの本郷ってやつとはちゃんと話しつけるから」
「あの人、なにをあんなに怒ってたの?」
「ああ、それは……よかれと思ってやったことなんだが」
「え?」
「ともかくリサが関係していることじゃないから、そんな心配するなって、誤解もすぐ解けるよ」
「……ならいいんだけど」
今頃、あの嶺公院の生徒である彼女から改めて話を聞いている可能性もある。説明してやる程度のことはするつもりだが、こちらもだんだん苛立ちが募ってきた。
何様だあいつ……。
昨日の子細を、あの男が信じようが信じまいが知ったことではない。突っかかって来たならひねり上げてやる、と心中で毒を吐いて手首を軽く振った。
意識に怒りを潜ませる綜士であったので、背後のリサの視線にも気づくことはなかった。
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