(4)

 急ぎ足で聖霊館前まで帰ってきたところ、

「お……?」

 誰かが正門前で突っ立っている。微風にたなびく長い髪を見れば、誰かなど顔を見ずともわかる。

 わずかに肝が縮む思いがした。なんだか怖い。向こうが、綜士の姿を捉えると、思わず身がすくんだ。


「やあ……」

「……」

 無言で睨んでくる。

「……月がきれいですね……」

 我ながらアホすぎることを言ったと思う。近づいてきた、殴られるかもしれない。

「どこほっつき歩いてたんだよ!」

 リサの怒声が冷えた肌に叩きつけられた。


「お、落ち着けって……!」

 予想以上に怒っている。チラリと後方を窺うと、ダイニングの窓から恐る恐るこちらを見ている小学生四人が見えた。

「ふう!」

 リサがほっぺをつかんでくる。

「痛いって……! お、お前、もう体調はいいのか?」

「話、そらすな!」

 今度は首を絞めてきた。


「す、少し道に迷った子羊を案内してただけだって……」

 さすがにチンピラ相手に一戦交えてきたとは言えない。この間の、瞬たちのこともある。子どもたちの前で語るような武勇伝にはできない。

「嘘!」

 リサの手から逃れて、追い回される。捕まってヘッドロックされた。

「こ、公演でちょっと猫と戯れてて……」

「リサ、もうその辺にしときなさい」

 芽衣子がやってきた。

「メイコ、ヘルプミー……」

「ッ!」

 リサがいましめを解いて、腕を組んだ。


「ハァ……遅れてごめん」

「いいの、リサも心配だっただけなんだから」

 ためらいがちにリサに視線を向ける。

「オレはさっさと飯にしたいだけだ……」

 顔をそむけられてしまった。

「すんません、せんせい」

 本当にそれだけならここまで怒ったりはしないだろう。さきほどのこともある。自分のことを本気で心配してくれたことに、申し訳なさと、「……」うれしさを感じていた。

「さあ、みんなそろったことだし、夕飯にしよ」

「はーい……」

 ずかずかと家に入っていくリサの背をぼんやりと眺めた。


 車のシートに座りながら手を必死に抑える。震えはだいぶ収まってきた。早紀たちとの所に戻る前に心持ちをしっかりしておきたい。

 髪を強くつかむ。うかつだった。治安の話をしたばかりで、あんな失態を犯したのは弁明のしようもなく自分の落ち度だ。

 歯を噛んで、まなじりを固く閉じ、俯いた。


 悔しい。

 男、三人に恐怖して抵抗を試みるどころか逃げることすらできなかった。普段から気の強さで、クラスやクラブの男子生徒にも一目おかれている。男にも気後れしないと自負してきたが、それは常識の通じる範囲での話だったようだ。あんな学も教養もないチンピラにいいように連れ去られそうになった屈辱に膝が震える。理性の欠片もない野獣どもの暴力と脅迫に屈服させられた悔しみ。結局、女の細腕では、男の腕力に対抗できないのかもしれない。


 ちくしょう……。


 不覚にも閉じた目元から水滴がこぼれてきた。

 あのままさらわれて、体を蹂躙されていたらと思うと再び怖気で背筋がこわばってきた。


 なんであんなことに……。あ、そうだ……。


 あの火傷の男、あの男の正体を突き止めようと追跡したのが発端だったことを思い出した。

 考えてみればつくづく間抜けな話である。敵と思っていた相手に、窮地を救われ、駅前までの運賃すら負担してもらった。どうやらあの男は以前自分と対峙したことは覚えていなかったようだ。


 私ったら……。


 敵に一生の恩を作ってしまったのかもしれない。


 でもなんであいつ……。


 詩乃につきまとったり、隆臣と殴り合いの喧嘩などしたのだろうか。

「……」

 ひょっとしたら、悪人、ではないのかもしれない。

「でも……」

 小声をもらす。詩乃が怖がっている以上敵とみなすほかない。隆臣も彼を警戒している。

「……でも」

 でも、でも、を繰り返す。

 少なくとも先ほど自分を助けてくれたのは、なにか下心あってのこととは思えない。でなければあっさり名前を明かしたりはしなかっただろうし、嶺公院の人間としてなにか利用しようと試みたはずである。なにより自分は借りを作ってしまった。それを事実として認められないほどセルフィッシュでもない。


 さくらばそうし……。


 桜の庭、と書くのだろうか。

 悪い意味ではなく、あの男のことが気になってきた。

「お客さん、この辺りでよろしいですか?」

 いきなり運転手に話しかけれ一気に姿勢を起こした。

「は、はい……! もうここで……」

 男の声に怯んだ自分が心底情けない。時刻が気になって携帯を確認する。

「あ……」

 しまった、と思った。みんなから何度もメッセージが来ていた。一様に喜美子のことを心配している。

 タクシーが停車した。財布を出そうとしたら、

「お釣りになります」

 小銭を手渡された。あの男が先払いしていたのを想起する。

「……はい」

 なんともいえない気分で降車した。 


 道路に足をつけると、また心の幹がしぼんできた。さきほどの悪夢がいちいち脳裏にちらつく。恐怖を振り払うように小走りでビュッフェの店まで駆けた。

「あ……」

 店の前で全員が話をしていた。きっと自分のことでどうすべきか合議の真っ最中なのだろう。

「……」

 謝るほかない。くじけそうな気持を奮い立たせて一歩踏み出した。賢哉がこちらに気づいて、指さす。全員が振り向いた。脱力しそうな足取りで彼らの前に立った。

「……ごめん」

 俯いたままそう口に出した。誰かが近づく。

「喜美子ちゃん、お帰り」

 詩乃だった。柔らかな微笑、体の奥で張り詰めていたなにかがちぎれた。

「あ……」

 肩の力が一気に抜けていく。

「ふ……うわああああ!」

 詩乃に抱き着いて、幼児のように泣きじゃくった。


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