(2)
洗濯ものを干してから、聖霊館を出た。
イチョウの木が葉を茜色に染め変え。それを風が揺らしては飛散させる。世界は激変しても自然の移り変わりのサイクルはなにも変わらない。それでも、人の心が変わっていくのは誰にも止められないのかもしれない。思い出は遠くなり、リサたちとの距離は縮んでいく。時折、あの元柳での十五年余りの人生こそ夢であったのかと思う時がある。
漠然としたなにかを胸にとどめたまま、地域センターに足を運んだ。
階段を上がり二階の講習室に入ると係の職員が受付をやっていた。
「おはようございます、受講希望なんですけど」
「はい、おはようございます。お名前をこちらにどうぞ」
「はい」
手続きを終えて、貸出用の教科書を受け取り席についた。辺りをザっと見渡す。半数は綜士と同じく、十代の人間に見える。なんらかの事情で進学できなかったか、中退したのだろう。後は、主婦と思しき成年女性や高齢の男性など雑多な構成であった。
顔に手を当てる。
外した方がいいか……。
礼節として講義中は、マスクは取っておくことにした。火傷の跡はだいぶ薄くなってきており、周囲の人間に威圧的に感じさせることもないだろう。
用意されたプリントに目を通す。高認はさほど難しい試験でもなく、ちゃんと勉強しておけば一回で合格できるとの旨であった。
ところどころ談笑する声が聞こえた。友人同士で来たものや、初対面の挨拶を交わす人たちが視界に入る。
なんだか……。
懐かしい感覚がする。久しぶりに学校的な環境に身を置いて、中学の頃を想起させる空気に目を細めた。昔は楽しかった、と思ってしまうのはある種の退行現象だろう。過去に思いをはせるのはほどほどにしておく。
「ふう……」
軽く深呼吸して、教科書を開いて予習でもしようと思ったところ、
「すみません、こちらよろしいですか?」
右横から男性の声がした。
「ええ、どうぞ」
「ありがとうございます」
初老の男性が隣に座った。白髪混じりの頭で、それなりの年齢に見える。
「ずいぶんお若いようですね」
「ええ、まあいろいろありまして……」
男性が温和な笑みを浮かべて話しかけてきた。
「汐浦の方ですか?」
「今はそうです」
「今は……?」
「あ……えっと俺……」
「ああ、失礼しました。余計なことを言って」
「い、いえ……! 俺、以前は元柳に住んでいたんですけど、事情があって汐浦に引っ越してきたんです」
「それは……」
男性が自分の顔を一瞬、注視したように感じた。
「事故にあって、高校に行けなかったんです。それでここに」
「なるほど、そうでしたか。私はもう五十過ぎなんですが、ずっと中卒で働いてきましてね。まあ学びなおしというやつですよ」
「そうでしたか」
「ああ、申し遅れました、私、
「はい、山之内さん。僕は桜庭綜士です」
男性のまなじりが硬直した。目を見開き、口元を半開きにしたまま停止している。
「……? あの……」
「桜庭……? あ、ああ、失礼しました」
そこで壇上から講師の呼びかける声を聴いた。講義が始まる。軽く会釈すると、教科書に視線を戻した。
午後の講義を終えると講習生たちは近くのラウンジに集まり、お茶を飲みながらの歓談となった。年代の違うもの同士、様々ないきさつを経て高認を目指すともがらとして不思議な連帯感があった。
様々な事情で高校に行けなかった事情をしれば、一人取り残されたような侘しさも希薄になっていく。自分の人生はまだここから建て直せると希望を持てるようにもなった。
中座して、テラスに出て携帯を取り出した。
「……」
リサのことが気になる。電話して、大丈夫なのか聞いた方がいいと思いつつも指を動かせないでいた。
「どうして……」
なぜこんなことで迷うのかわからない。かけてしまえば、どこか今までとは違う別の世界に足を踏み入れることになる、などといった大仰な当惑を抱いている。
「どうしたんだ俺は……」
頭を押える。今朝からおかしいのはリサだけではないようだ。綜士もなにかに、心揺らいでいる。
「えっと……」
背後から声、瞬時に振り向いたので、目の前の人物を驚かせてしまった。
「す、すみません」
「いえ……」
そこにいたのは、先ほど会話した山之内典史であった。
「ああ、山之内さん、どうかしましたか?」
「……桜庭綜士さんでしたね?」
「ええ……」
山之内が口元に手を当てる。
「ひょっとして、君は日之崎通商の桜庭総一郎さんの……」
「え……⁉」
父の名前が出たので、声が上ずってしまった。
「父さん……父を知っているんですか?」
「ああ……! やはり綜一郎さんの息子さんでしたか」
かなり驚嘆したような深さのある声音であった。
「綜士くん……でいいかな?」
「ええ……」
「綜士くん、私の家は南港電機という電設会社を経営していてね、日之崎通商とも少し関りがあったんだ」
「あ……ああ、そうでしたか……」
思わぬ奇縁に驚く。人と人の縁はどこでつながっているのかわからないものである。
「その、ご両親は……」
「ええ……去年、日宮祭の事件で他界しました」
震えを鎮めるように手を強く握る。
「ああ、そうだったね……。事件の記録で綜一郎さんの名前を見つけたからね……。あれは大変なことだった。私もあの場に居合わせていたんだが……」
「そうだったんですか……」
うつむいた山之内の目の奥が激しい葛藤を帯びているように見えた。
「……ご両親の件、本当に残念だった。私からもお悔やみを申し上げさせてもらいたい」
「……ありがとうございます。父が大変お世話になりましたこと、感謝申し上げます」
頭を下げる。
「ところで綜士くん、ご両親は元柳に居住していたと思うが、君はなぜ汐浦に?」
「実は……」
事情を説明しようとしたところ、また誰かがやってきた。
「……⁉」
息を呑む。視界にとらえたのはあの時会ったあの男だった。
「やあ……、桜庭綜士くん、ちょっといいかな?」
結奈の兄、天都啓吾その人である。
なんでこんなところに、まずいな……。
ただでさえ避けていた相手なのに、今は、山之内氏と話をしている。どうすべきか判断に窮したところ、
「綜士くん、今日のところは失礼する。また今度……」
「は、はい……すみません」
山之内氏が気をつかって辞去してくれたようだ。申し訳ない思いで頭を下げて見送る。啓吾も礼をした。
啓吾を正面に見据える。迫力の体躯に気後れしそうになったが、すぐに目に力を込めた。現状、敵とも味方ともいえない相手である。
「その……すまない、いきなり押しかけて。妹からここにいるかもしれないと聞いてね」
「いや……別に」
まだ正午過ぎだが、学校は午前授業で終わったのだろうか。戦争のあおりで、各学校の時間割が不安定になっているとは聞いている。
「この間は結奈が世話になった。礼を言う、あいつは昔からよく聖霊館に遊びに行くことが多かったからな。君のことも気に入ったようだ」
「俺はなにもしてない。それにそんなことを言いに来たわけじゃないんだろ」
「ああ……」
別に彼個人に敵意があるわけではないのだが、立場が立場なだけにとげのある言い方になってしまう。
「この後ここで……」
「……?」
なにかを言いよどむ啓吾。
「ここのホールを使って、うちの学校のあるクラブが演奏会をやる」
いきなりなにを言い出すのかという顔になってしまった。
「その……そのクラブに」
「なんだ……?」
「月坂詩乃という少女がいる」
風が止まり、空気が凍りつく。
嫌な汗が、あごの下から首筋に流れ落ちてきた。
「桜庭くん、君の過去のいきさつを詮索する気は一切ない。彼女や隆臣とどんな因縁があるのかも……」
「……」
「この後あいつもここに来る。あの男はずっと月坂さんのボディガードみたいなことやってきた」
綜士の肩の震えを見て、啓吾も焦燥からか冷や汗をかいた。
「言いづらいのだが、この間の一件で、今でも君を警戒している人たちがいてな」
「……ああ、嶺公院じゃ俺は頭のいかれた犯罪者扱いだったな……」
自分のものとも思えない程擦れ切った声。
「別に俺はそうは思っていない。君は結奈の友人であるわけだし、なにより聖霊館の住人である以上、アルクィンの仲間……と認識している」
「……」
この男も複雑な立場なのだろう。
「話がずれるが、俺はバスケ部キャプテンをやっている。隆臣もバスケ部だ」
そうだろうと思っていた。
「以前、うちの部員が君に狼藉を働いたことは謝罪させてもらう」
丁寧に頭を下げる啓吾であったが、いえ、こちらこそすみませんでした、とは言えない黒い思念が腹の奥で鬱積している。あの冷たい目と決定的な決別、恨みとも憎しみとも言えない、負の感情は未だに処理できていない。
「あんたは……あんたもアルクィン財団の人間なのか?」
「俺は個人として加盟しているわけじゃないが俺の親がな」
結奈は母親を聖霊館の卒館者と言っていた。今でも財団に籍をおいているのだろう。
「単刀直入に頼む。また喧嘩になるような事態は避けてほしい……」
啓吾が再び体を曲げた。バスケ部キャプテンというなら、あの事件で大量に停学者を出したことで側杖をくらったであろうことは容易に想像できる。それも綜士と隆臣の衝突が原因でそうなった以上、綜士とて穏やかではいられなくなる。
ここに詩乃が……。
彼女が近づいてくるという事実に、胸がかきむしられる想いがする。しかし、綜士はもう彼女に接近してはならない旨の誓約書に印を押した立場である。約定を反故にして再び警察沙汰になれば、聖霊館のみんなに心配をかけるだけだろう。舌をかんで、握った手から力を抜いた。
こちらを黙視したままの啓吾の顔に目をやった。
「……アルクィンの人間に迷惑をかけるような真似はしない……」
「……ああ、すまない」
「失礼する……」
足はなんとか動いてくれた。啓吾のそばを横切って屋内に戻った。
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