第三章 心、移ろいで
(1)
大家族の朝は世話しない。各自で自分の役割をすぐに見つけるや分散して、テーブルをふいて、皿を並べて、パンを焼いて、朝食の用意を整えてからようやく一息ついた。
「ふう……」
「お兄ちゃん、これどうぞ」
依織がピッチャーを向けてきた。
「おや、なにこれ?」
「昨日作ったレモネード」
「へえ、ありがとう」
コップにそそいでもらう。この間モールで買ったここでの綜士のコップとなる。
「依織、それちょっと甘すぎじゃないのか。眠くなるぞ」
瞬が、あくびをしながらぼやいた。
「ええぇ」不服そうな声を上げる依織を前に試しに飲んでみる。
「ハハ、朝はこれくらいでちょうどいいよ、糖分がないと頭が回らないからね」
「……綜士お兄ちゃん、最近依織ちゃんと仲いいよね」
美奈がそんなことを訊いてきた。別にからかっているというわけじゃなくて、素で口にしたように感じる。
「ああ……まあね」
買い物に行って以来、依織とはこれまで以上によく話すようになったし、機会を見つけては絵の描き方をレクチャーしたりもしている。
「昨日もラウンジでべったりしてたしなー」
意地悪くニヤつく瞬を依織が叩く。
「えっと、明日、運動会だよね」
話を変えた。
「うん、お兄ちゃんも観に来る?」
「行こうかな、みんなの学校っていうのも見ておきたいし。みんなはなにやるの?」
「僕たちは組体操と他に個別種目があるんだけど」
伸治が、プリントを取り出した。予定のプログラムだろう。
「瞬は、クラス対抗リレーに出る、うちのクラスの代表で」
「へえ、瞬は足が速いんだ」
「まあ一応……」
瞬が頬をかいた。
「姫……リサ姉ちゃんにも鍛えられたし」
「ふむ……?」
テーブルを見渡すが、リサはまだ降りてきていない。まだ寝ているのだろうか。
「綜士、ちょっといいかな?」
廊下へのドアの前で芽衣子が呼びかけてきた。
「どうしたの?」
「うん、ちょっと……みんなは先に朝食にしてて」
立ち上がる。芽衣子の元に歩み寄った。
「こっち」
「う、うん」
手を引かれてダイニングから離れて廊下まで引きずられた。
「あのね、実は来週……」
芽衣子が、顔に口を寄せて小声を出したのでドキリとした。
「依織の誕生日なの」
「え?」
「ごめん、綜士はまだ知らないよね」
「あ、ああ……それで」
「聖霊館ではね、昔から、小、中、高のグループで一つのプレゼントを贈る習慣があって」
「なるほど」
綜士は高校生ではないが、年齢的に考えて芽衣子と一緒のプレゼント贈る立場でいいのだろう。
「中学生は今リサしかいないから、私たちとリサで合同で依織への誕生日プレゼントを用意しようと思ってるんだけど」
「わかった、考えておく……いや、もう思いついた」
「ほんと?」
「うん、この間、買い物に行ったときちょっと聞いたんだけど」
階段から音がした。誰か降りてくるが、彼女以外は全員ダイニングにいるので彼女しかいないだろう。
「ああ、リサ、今……」
「……」
「おい……?}
リサは真顔のまま黙っている。なにか重たいものを腹にため込んでいるかのような表情だった。
「リサ?」
「なに……?」
口を小さく開くとか細い声を出した。
「どうかしたの? 顔色があまりよくないみたいだけど」
「……別に。……いやちょっと調子悪い……」
「大丈夫?」
「……今日は休む」
「……わかった。学校には私から連絡入れておくから」
「ごめん……」
リサが振り返って階段を上っていく。ほつれた髪が、かすかに揺れた。
「……」
「芽衣子?」
なにかを察したような表情だった。
「大丈夫、私たちも朝食にしよ」
「うん……プレゼントの件はまた明日にでも」
気にはなるがお互いの過去や心の奥までは問わないのがここの慣習である。ダイニングへと戻ることにした。
朝食を全員終えてからテレビをつける。海外の戦争の激化により、冬にかけて大都市圏での食糧不足が発生する恐れがあるとのニュースが報道されていた。
「厳しいな……」
「そうね、保存の効くものは今のうちに貯めておかないと」
独り言のようなつぶやきだったが芽衣子が拾った。
北城牧場だけとの契約では心もとない気がする。別個に調達の道筋をつけたほうがいいかもしれない。
「俺、また少し実家の交渉先探してみるよ」
「大丈夫、昨日、道さんと少し話したんだけど、海望商事の方から必要な食糧とかは回してくれることになったから」
谷田川道、財閥海望グループの創設者であり、海望商事の代表でもある。アルクィン財団の一員として古くから聖霊館を支援してくれる人物である。
「そうか、世話になりっぱなしだな、道さんには……」
綜士の実家である日之崎通商とも関りがあったと聞いている。
「道さん、今、北海道にいるんでしょ」
瞬がテーブルに両手を突っ伏して、身を乗りだしてきた。
「うん、会社のお仕事でね。米やら小麦やらをたくさん作ってるの」
世界規模の戦争による交易制限により、日本政府は各企業と連携して食料の増産に勤しんでいる。海望グループもその計画に参加しており、道が多忙を極めているだろうことは想像に難くない。
「ハァ、すごいなぁ」
美奈が嘆息する。
「ええ、私たちもできることはちゃんとやって、道さんや財団の人たちにあまり負担をかけないようにしようね」
「そうだね」
時計を確認、そろそろ登校時間になる。
「綜士、今日から市の講座を受けに行くんでしょ?」
「ああ、十時から地域センターで」
市が行う高認向けの学習講座を受ける。
「うん、それで終わったら、ちょっと頼まれてくれていい……?」
「なにか買い物?」
「ううん、リサのことを……」
「わかった、なるべく早く戻るよ」
「ごめん、大丈夫だとは思うけど、一応お願い」
芽衣子がチラリと廊下に視線をやった。
「あの……」
依織が近づいてくる。
「リサちゃん、昨日の夜からちょっと元気なかったみたい……」
「そうなのか?」
そういえば昨日はラウンジにリサが来なかったことを思い出した。
「大丈夫、みんなは学校の準備をして」
芽衣子がそう指示した。リサと付き合いの長い彼女がそういうのだから、と思い綜士も部屋に戻った。
登校時刻になり、エントランス前でみんなを見送る。
「それじゃ、行ってくるね」
「うん、いってらっしゃい」
このやり取りももう慣れたものである。ドアが閉じられてから、階段に目をやった。リサは降りてこない。
「……準備するか」
二階に戻ろうと階段を上がったところ、
「……お」
「……」
リサが足を広げながら、だらしなく座り込んでいた。
「な、なにしてんだ?」
俯いていたリサが目線を上げた。揺らぐ瞳、リサは今、なにかに心を摩耗させている。
「……綜士、訊いて、いいか……?」
リサが小さな口を微かに開かせた。
「なにを……?」
緊張の筋が額に浮かぶ。
「……両親や弟のこと思い出すことってあるか……?」
「……忘れた日なんて……一日もない……」
体の芯から力を込めた声を静かに出した。
「……悪い、怒らせたか……」
リサがうつむく。
「怒ってなんかない、それより、どうしたんだ?」
「……」
「いや、悪い。別に無理に話さなくてもいい……。俺もあと少ししたら出るけど、今日は猪岡さんも来ないし、部屋で休んでいろ。洗濯物はやっとくから」
「……ごめん」
平素の彼女とは思えない弱弱しい声音に当惑の念を抱く。リサが立ち上がった。部屋に戻るつもりだろうが、「おい……」微妙に足元が頼りない。手すりにつかまりながら、立ち止まった。
「ほんとに大丈夫か……?」
「平気……」
息を吐いて、リサに近づいた。彼女の腕を握ろうとしたが、それは止めて、
「……」
手を握った。他人ではないのだからそうするのが正解のはずである。
「行くぞ」
リサの手を引いて彼女の部屋に足を進める。リサは特に嫌がるそぶりも示さず、従ってくれた。触れた手から怯えたような冷たさを感じる。
ドアを開く。リサと依織の相部屋に初めて足を踏み入れた。
「ベッドは?」
「右の……」
入室の許可くらい得るべきだったかと思ったが、今さら遅い。
リサの格好はTシャツにショートパンツ、パジャマの類は見えないからこの姿で寝ていると見ていい。
「ほら……」
横になるように促す。リサは黙って、腰をベッドに落とした。
風邪……とも思えないが……。
特に熱があるようには感じない。ただ、精神が疲弊している、ように感じる。
そっとリサの額に手を当てた。やはり熱はない。
「ふむ、平熱だと思うが……お、おい……」
リサが綜士の手に自分の手を重ねる。わずかに息をのんだ。久しく触れてなかった女性の肌の淡い感触。
「離すぞ……」
リサは黙ったまま、手をベッドに置いた。そのまま横たわり、布団を引き寄せる。
「三時には戻る」
返事はないが、かすかに体を揺らして返答を送ってきた。
「……」
すぐに出ていくつもりだったが、目をつぶったリサの横顔に視線が外せなくなった。普段の勝気さを微塵も思わせない、年相応の少女の顔。金色の髪がほつれて頬にかかっている。
それは、ただ純粋に、きれい、と思えるものだった。
「……!」
外からの風切り音で我に返った。
アホか……!
踵を返して、廊下に出ようとしたところ、近くの机の上になにかが見えた。
これは……。
一人の女性の写真、黒髪だが目の色素には青みがかかっている。
「母さん……」
リサの声を聴いて驚いて振り返った。
「日聖カレン……4年前に……事故で……」
「……そうか」
リサの母親だろう。既に故人と聞いている。なにかの交通事故でこの世を去ることになったようだ。あまり詮索する気はなかったがリサは続けた。
「あの日もこんな風の強い日だった……」
先ほどの質問の意味がわかった気がした。リサは今でも急逝した母親のことで思い悩み、苦しんでいるのだろう。
「オレ、ダメなんだ……。この時期になるとどうしても、おかしくなる……」
心的外傷、というやつなのかもしれない。再度、リサのそばまで近づく。
「リサ、俺は……」
言葉に詰まる。リサの苦しみと悲痛がわからない綜士ではない。なんの前触れもなくある日突然、家族がいなくなるあの絶望を知ってしまった身としては。
「すまない、リサも知っての通りだが俺の精神年齢はリサと同じようなもんだ。だから助言みたいなことは言えないが、それでも父さん、母さん、伊織に起きたことというのは……一生受け止めていかなくちゃいけないって覚悟は持ってる……つもりだ」
燃え盛る火焔、空を焦がした黒煙地獄、自分からすべてを奪ったあの悪夢。それでも忘れることはできない。生き残った自分の義務であり宿命である。死者の想いを忖度するなどあまりにも傲慢かもしれない。だが、両親と弟がこの世界に存在した証として自分は生き続けなければならない。そう決意している。
「そうか……。強いな、綜士は……」
「そんなことないよ……」
ごく自然に穏やかな微笑をしてみせた。
あ……。
心がざわめく。こうしたしぐさは以前、彼女にしていたものなのだ。それをリサに見せたという事実に動揺の念が心の底を叩いた。
君の不安を受け止める。そう念じて、お互いに苦しいこと、辛いことが起きた時はいつもそうしてきた。それを今、自分は眼前の少女にしてしまった。
「綜士……?」
「え……? あ、ああ、そろそろ出る……やっぱり俺も家に残ってようか?」
家、当然のように、そう口にできた。もう聖霊館は綜士にとっても「家」になったのだと改めて実感する。
「わた……オレのことなら心配ない。講習受けに行く日なんだろ。チャンスは……」
「ものにする」
そう言葉を合わせる。リサの父親の口癖だったらしい。つい気脈を合わせたことに笑いだす二人。
リサがまぶたを半分落とした。もう眠いのだろう。
「それじゃ……」
「うん……」
心の奥に落ちた謎のひとしずく、小さな波紋が徐々に拡がり精神の骨組みを伝って、温かななにかを現出させた。それは……。
「綜士……」
半開きになった口のまま顔を振り向かせた。
「大切な人……いつか会えるといいな……」
「……うん」
今、なにかに恐怖している。これ以上この部屋にいると、自分は普通ではなくなる。わずかに震える手でドアノブを回して、リサの部屋を後にした。
「……ッ」
壁に額をつけて気息の乱れを必死に整える。
どうしたんだ、俺は……。
顔をもみくちゃにして、平常を取り戻そうともがくがどうもうまくいかない。得体のわからないなにかが胸の奥に這っている。体の急激な変化を恐れる乙女の心境だった。
ここにやってきてそろそろ一ケ月になることに気づいた。
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