(3)
「ふーん……」
去って行く綜士の背を斜め向かいのテラスから見送る。
「思ったより潔かったな」
本郷賢哉が手すりから手を放して壁に背をつけた。
もしあの男が啓吾に殴りかかりでもしたら躊躇なく割って入るつもりだったが、杞憂だったようだ。
話は前日に遡る。喜美子がここであの不審者、桜庭綜士を見たことで合奏クラブの間で今日の汐浦地域センターでの演奏会を中止にすべきか議論が沸騰していた。それを耳にした天都啓吾が、自分が話をつけるから心配することはないと断言したので実施される運びになったのだ。しかし啓吾一人を行かせるのも不安でこっそりついてきたのだった。
「啓吾さんやっぱりあいつのこと知ってたのか」
桜庭綜士がリサの同居人で結奈とも友人なら知っていてもおかしくはないと思っていた。
「うーん、喜美子ちゃんたちが言うような男にも見えないけどな……」
あの男が月坂詩乃に執着してつきまとっている理由がわからない。
「いやいや、この場は引いただけかもしれないし」
油断はしないほうがいいだろう。
「それにあいつは……」
ライバルであるかもしれないのだから。
地域センターを出ると聖霊館に戻ることにした。三時ごろまでは自習を続けるつもりだったが、予定が変わった。
隆臣たちがここに……。
あと少しでやってくるという。こそこそ逃げるようで、苛立ちにより胸が熱を持ち始めたが、あの天都啓吾と約束したばかりである。彼の面目を潰して、関係を悪化させるようなことになれば結奈も心痛に思う……、かもしれない。
「急ぐか」
と口に出した時点でなにか違和感を覚えた。なぜ急ぐ必要があるのだろうか。
俺は今……。
リサを気にかけている。ここに詩乃がやってくるという情報を得てなお、である。
「ッ!」
迷いを払うように両頬を手ではたくと速足で歩道に踏み出した。
聖霊館まで戻ると、正門を通りエントランスのドアを開いた。靴箱を確認、リサの靴は置かれたままになっている。
二階に上がると、リサの部屋の前まできた。
「……」
わずかな躊躇が間を作ったが、ノックした。
「リサ」
呼びかけるも返事はない。
指先の感覚が焦燥で針が刺さったようにチクチクする。
「リサ!」
やはりノーアンサー、思い切ってドアを開いた。
部屋は窓が開かれたままとなっていた。先ほどリサが横たわっていたベッドに彼女の姿はない。
どこに……!
特に荒らされた形跡はない。なにかがあったわけではないと思いつつも、異様な焦りを感じていた。抜き差しならない危急の念が自分をせきたてる。
開かれたままの窓から外を見る。聖霊館の裏庭、畑の辺りにはいない。
「……!」
右隣の一度も立ち入ったことのない小屋、そこの窓でなにか人影のようなものがうごめいた。駆け足で、部屋を出て、一階の裏戸からサンダルに履き替えて裏庭に出る。
「リサ!」
勢いよくドアを開くと同時に叫んだ。そこにいたのは、
「……綜士?」
リサだった。なにをしているわけでもなく、部屋の真ん中で突っ立っており、いきなり綜士が飛び込んできたのであっけにとられたような顔をしている。
「あ……」
リサにおかしなところはない。無駄に不安に駆られていた自分に呆れて、言葉が出なくなった。
「どうしたんだよ?」
「い、いや……」
お前が心配だった、なんて言えるはずもなく、視線を逸らす。
「えっと……なんだっけこの小屋」
さりげなく話題を振ってみた。
「ああ、懺悔の間」
「え?」
「ってのは冗談だ。昔、キリスト教色が濃かったころはここで、住人たちが集まってお祈りとかやってたんだって」
「ふむ」
言われてみれば、ミニ教会とでもいうような内装に見える。教会建築に詳しいわけではないが、上部にある薄い着色が施されたガラス窓などは本館にあるそれ以上に、どこか荘厳で静謐な意匠を感じさせる。
「ここ昔から落ち着いたから……」
「そうか……」
母親のことを考えていたのだろう。天窓のステンドグラスから、雲の隙間からこぼれた陽光が降り注ぎ、少女の金髪が淡い輝きをまとわせる。
「それよりどうしたんだ? 予定より早く帰ってきたみたいだけど」
「あ、ああ……ちょっとあってな」
「……なにかあったのか?」
リサの瞳に力が戻り始めていた。
「少し……な」
隠し立てするような自分の卑小さに歯噛みする。
「そう……」
リサは追及する気はないようだが、気にはなっているだろう。一方で、ただでさえ心のバランスが不安定になっている彼女に余計な危惧は抱かせるべきでない、と思った。
だけど……。
もうこの問題を口にするのを避ける弱さを乗り越えたい、と思った。
「……さっき地域センターで結奈……さんのお兄さんと会ったよ」
「……ほんと?」
「ああ、それで……」
喉の奥に力を入れる。
「あそこに、俺が以前もめた相手が来るって聞かされてな……」
リサが口を半開きにして頬をつり上げた。
「……いいのか?」
「え?」
「会いたい人も来るんだろ?」
「……」
俯いた。わずかな間を置いて、首を横に振る。
「もう、会ってはいけないんだ……」
鳥肌がたち、火傷の跡が疼き始めた。本来、肉体には存在しない幻視の痛みが肌を刺激した。リサは黙ってこちらを見ている。
「それに、結奈さんのお兄さんの立場も考えないといけない。あの人には悪いことをしたと思ってる。バスケ部のキャプテンだったなんて知らなかったけど、俺のせいでなんらかの処分を受けたはずだ。クラブもどうなっているか……」
「悪い……」
「なにがさ?」
「俺たちの関係に気をつかって遠慮してくれたなら……」
「違う!」
一歩踏み出して、叫んでいた。
「あ……そんな、そんな言い方ないだろ……。俺だって、アルクィンの仲間で、聖霊館の……家族じゃないか……」
「綜士……ごめん、そうだな」
リサの手が伸びてきた。綜士の手を取り、目を閉じながら両手で包むように握る。
無音の小屋、お互い言葉を封じ、時間の流れも忘れて、そのままでいた。
「手……だいぶ傷跡が消えてきたな」
「……ああ」
「なあ……」
「なんだ……?」
「怪我が治って、家を取り戻せたら……どうする?」
「……」
ここを出ていく、のが正道なのだろう。綜士は一人で生きていけない経済状況ではないし、自分のことを決めることのできない年齢でもない。
「……わからない」
「……うん」
本館からドアの鈴が鳴る音を耳にした。小学生組が帰ってきたのだろう。
「リサ、もう戻ろう。まだ休んでいた方がいい」
「ああ、なんだか眠い……」
リサの手を引いて、小屋を出た。
「それじゃあ、俺は学習室でみんなと勉強してるから」
「うん……」
気だるさが肩から背筋に這いずってくる。
「温かくして寝た方がいい。もう気温も下がってきてる季節だし」
「わかってる、大丈夫……」
どこか不安な顔の綜士、つまらない気をつかわせてしまっている。心配はいらない、と伝えるように毛布を引き寄せて横顔を枕に乗せた。
「それじゃ……」
うなずいた。部屋の照明が落とされ、ドアが閉じられていく。もう聞きなれた足音が遠ざかっていく。
「ハァ……」
綜士がここに来て今日で、三十一日。たった一か月に過ぎない時間が数年に感じられる。
一番見られたくないところを一番見られたくない人に見せた。でもなんともなかった。自覚している以上に、綜士には気を許していることに気づいた。
手のひらをじっと見つめる。震えているように見えた綜士の手を、握った。馴れ馴れしかったかもしれない。私だってもう子供じゃない、気安く他人に触れてはいけない。でも綜士の手は全然嫌な感じがしない。男の手なんて目にするのも嫌なくらいだったのに。
机の上の写真立て、普段は閉まっているが毎年この時期にくると見えるところに置くことにしている。私の罰だから。ママを忘れることを恐怖しているから。
綜士は両親の死は一生受け止めていかなきゃならないといっていた。私はそれができるだろうか。
目頭を押さえる。濡れてはいない。奥の大部屋の押し入れに閉じこもって一人で泣いていたあの頃とはもう違う。悲しみが薄れたからだけじゃない、支えてくれる人たちがたくさんできたから。
強風が窓を叩く。あの時もこんな風の強い日だった。
「うん……?」
携帯にメッセージが来ていた。結奈から、明日、あの娘も運動会に来るとのこと。結奈にも余計な心配をかけている。ママは結奈のことをかわいがっていたし、私もおばさんにはよくしてもらってきた。あの二人は姉妹みたいにここで育ったから。
学習室から、なにかはしゃぎ声が聞こえる。依織たちが綜士に、明日の運動会について話しているのだろう。綜士も行くと言っていた。あまり行きたい場所じゃないけど、私も明日までには気持ちを切り替えないと。そういえば……、
「綜士、さっき……」
地域センターに来ると言っていたのは、おそらくあの時、嶺公院の前で、少し話したあの男の人だろう。それ以前にも、あの男は綜士と同じ中学らしい話を聞いたことがある。あの二人の間に一体なにが起こったんだろう。きっと昔は友人だった、はず。なぜ綜士が会いたがっているという人に会わせるのを拒んだのだろうか。
「私、綜士のこと全然しらないんだ……」
その大切な人というのは、きっと綜士の……。
腕を目に乗せる。
もし恋人、だったというならひどいと思う。自分の彼氏が一年半も重い傷を受けて眠っていたのに、どうして会いに来ないのだろう。道さんは綜士が大切な人を助けるためにあんなことになったと推測を述べていた。それがその人のことだというなら、なおさらだ。もう綜士に会いたくないというならはっきりそう言えばいいのに。
綜士は忘れる気にはなれないのだろうか。そんな冷たくて、薄情な人……。
「……⁉」
ハッとした。私は今……、綜士とその人の縁が切れてしまえばいいと思ってしまった。
「どうして……」
答えの出ない問いを、口に出していた。
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