(4)
暗い。日の光さえ届かない、海底の底のまた底、誰かが叫んでいる。自分の名前を……。
「う……」
まぶたが開いていく。また、あの夢だった。
「……」
ベッドから腰を乗せたまま床に足をつけて、黙然と思索にふける。時折、見る夢について、
あれは……。
失った自分の記憶となにか関係があるのだろうかと、思い悩むことがある。
私には今の高校に入る以前の記憶がない。日宮祭という大きなお祭りで、テロという恐ろしい事件に巻き込まれたことが原因、らしいことは知ってるが、それだけである。そこで亡くなったという両親のことも顔さえ知らない。
日之崎第一中学校というのが、当時私がいた学校とは聞いている、何度か先方の配慮で足を踏み入れて担任だったという人とも話をしたが、思い出せることはなにもなかった。加えて、昔のことを考えようとするたびに強い頭痛に襲われることがあった。そのため、医者をはじめ周りの人間たちもあまり過去については考えなくてもいい、という方針となり、自分も考えることをほとんどしなくなった。
私は……あの日生まれた……のかも……。
高校に入ってからが今の自分のすべてである。
時計を確認、7時55分、土曜とはいえ少し眠り過ぎた。昨日、ずいぶん友人たちと遊んだからだろう。
喜美子ちゃんや早紀ちゃん、矢本くんに本郷くん、そして瑞樹ちゃん、みんな一年の頃から私を支えてくれた大切な人たち。矢本くんと瑞樹ちゃんは、中学生の頃からの友人だったらしい。
ドアを開いて、リビングに向かう。ここは日之崎市、緑山区の高層マンション、叔母であるという月坂朝香さんの家だった。前に住んでいた家のことは、あまり思い出したくない。とても怖い思いをしたから……。
ダイニングでからなにかを調理する音が聞こえる。静かな足音とともに近づいた。
「朝香さん……?」
「おはよう詩乃、今日はずいぶんお寝坊なのね」
月坂朝香、母の妹だったという人で、私にとって叔母にあたるという。もちろん記憶にないことだったが、この一年半本当によくしてもらった。
「すみません、朝食お手伝いできなくて……」
「いいのよ、昨日みんなと遊んだんでしょ。そういうことができるってあなたにとっていいことだから……」
今では親代わりと言っても過言ではない人だが、どこか控えめな態度になってしまう。
「もう……平気かしら?」
「はい、ご心配をおかけしました」
ここ数日の騒動で朝香さんにはずいぶん迷惑をかけてしまった。
でも……。
まだどこか、心の奥でしこりのようなものが残っている。
「あの……朝香さん」
「なに?」
朝香さんがコーヒーをコップに注いだ。
「あの……あの人は……」
朝香さんが凍りついたように、動きを止めた。
「……もう終わったわ。あなたの前には現れないから……」
「……」
誰なのか、聞こうと思ったがとてもできない。眉と口元を震わせる朝香さんを見ればとてもそんなことは聞けない……。
「大丈夫……ですか……?」
なにか相当怖くて悔しい思いをしたように張り詰めた顔になっている。
「大丈夫……。あんな……あんな異常者……」
「……?」
最後の言葉は小さくて聞き取れなかった。
「ともかくまたなにかあったらすぐ私に連絡して」
「はい……」
よくわからないけど、朝香さんにこんな顔をさせるあの人はやっぱり悪い人なんだと思う。
顔を洗って歯を磨いてから、テーブルについた。
「今日はちょっと出かけるから、帰りは夜になるけど大丈夫?」
「はい」
朝香さんは元々東京で服飾デザイン関係の仕事をしていたらしい。日之崎に帰ってからは、知り合いという人が経営しているアパレルショップに勤めている。
「瑞樹ちゃんを呼んで構いませんか?」
「もちろん。……でも戸締りはしっかりね」
「わかりました」
なにか警戒するような声音、やはりまだ私を心配しているのだろうか。ここ最近は特に用心過ぎるほどに用心している。まるで誰かの襲撃を恐れているかのように……。
「まあ、ここはセキュリティがしっかりしてるから余計な心配はいらないだろうけど……」
前の家にいた時は、ひどい嫌がらせをする人が多かった。なぜかはわからない。ただ、祖父や両親に恨みがあるようなことを言っていた。私の家族だった人たちが一体なにをやったのか、朝香さんや医者の先生たちに聞いても教えてもらえなかった。ただ、それを思うたびに、胸が苦しくなる。
「詩乃……大丈夫?」
「え、ええ……平気です」
また、あの頃のつらい感覚が蘇ってきたが、顔には出せない。
朝香さんを見送ると部屋に戻った。
「あ……」
充電中の携帯にメッセージが一つ届いていた。瑞樹ちゃんからのものだった。用事ができて今日は行けなくなったという文面、丁寧に謝ってくれている。そんなことしなくていいのに。
こっちこそ、急に誘っちゃってごめん、と返信をしておいた。
「ふう……」
ベッドに横たわる。せっかくの土曜なのに、することがなくなった気がした。自習でもしようか。昔のことがよくわからない私だけど、無意識のうちに覚えていたことまでは忘れなかったようで、今の高校の授業もまったくついていけない、というわけでもない。
記憶について考えるたびに、昔の自分はどんな人間だったのか考えてしまう。小学生までは海外で、中学生の三年間はこの街の中学校に通っていた。そこで瑞樹ちゃんや矢本くんとも出会った。それが知っているすべて。
過去を知りたいという気持ちはあまりない。今のみんなと過ごす高校生活は楽しいし満足している。だけど時折、なにかの拍子におかしな既視感、というのを感じる時があった。
デジャブっていうのかな……。
額に腕を乗せて天井を見つめる。
時々、なにかが怖くなる。過去に犯したかもしれない過ちが自分に復讐してくる、そんな恐怖を覚える時がある。
過去からの使者……。あの人は……。
あの男の人の顔を思い出した。顔にひどい火傷のような傷跡があり、私のことを知っている口ぶりだった。
誰なんだろう。
名前はなんと言ったっけ。名乗ったような気がするが覚えていない。
喜美子ちゃんがいうように単なる嫌がらせなら、偽名かもしれない。
「やっぱり……」
ちゃんと調べるべきなんじゃないだろうか。元柳の実家に行けば、なにかの記録が残っているかもしれない。でも……。まだあそこに行く勇気が持てないでいる。
そもそも私に一体なんの用があったのだろう。なにかとても必死に訴えていたような気がしたけど……。
いや、あの人は矢本くんをぶった。本人はなにも言わなかったけど顔を腫らしていたし、喜美子ちゃんも見たと言っていた。やっぱりあの人は悪い人だ。そう思う。
バスケットボール部のみんなだって矢本くんを守ろうとしただけなんだ。それなのに停学にしちゃうなんてひどい……。
あの人は悪い人、知る必要なんてない。
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