(3)

「どうしたの……?」

 不安そうな表情でこちらの様子を窺っている。

「い、いや、ちょっとね……」

「ああ……大したことじゃない」

 子どもの前では喧嘩をしないと決めた夫婦のようだった。


「それより、最近ずいぶん遅くまで練習するんだな」

 会話を変える。月坂たちの合奏クラブは、正規のブラスバンド部とは違ってのんびりと合唱や合奏を楽しむ部である。方向性の違いから分離したサークル的なクラブであり、詩乃は喜美子や早紀の勧めで、声を出すリハビリも兼ねて入部した。

「ハロウィンフェスティバルが近いからうちもちょっと気合入れようってなってねー」

 小柄でポニーテールの少女、喜美子が平らな胸をどんと張った。

「矢本くん……バスケ部は?」

 ツーサイドアップのロングヘアは藍染早紀、髪型とは裏腹に少し大人っぽく落ち着いた感じの女子生徒である。

「ああ……これから、部長と話すけど、たぶん活動休止だろうな。あ……」

 ドジを踏んだと思った。詩乃の前でする話ではない。不安そうなまなじりに目元がうるみ始めている。

「……ごめん……なさい。私のせいで……」

「ち、違うって……! それは関係ないんだ。あのアホが刃物なんて持ち出すからことが大きくなって」


「門間でしょ。あいつ退学になるって聞いたけどほんと?」

 喜美子が吐き捨てるような口ぶりでそう述べた。

「まだ、無期停学の仮処分だそうだ……」

 正直、このまま消えてほしい。素行の悪さを魅力と履き違えて、しょっちゅう詩乃に低俗な話を振ってくるため、隆臣たちのグループ内で意識的に排除するように合意した。そのことで、やたら隆臣に怨言をぶつけるようになったのである。

 日頃から自分たちのグループの周りをチョロチョロする小汚いねずみ小僧、というのが隆臣の門間への認識だった。詩乃に気があるようだが、そのこと自体が生理的に許せることではないのだ。

「ハッ、ざまあみろね。このまま退学になってくれたらいい気味なんだけど」

「……そうね」

 瑞樹も怖いくらいに瞳が凍りついている。彼女も本来綜士が入っていた枠の一つに、押し入ってきた門間を心底嫌っている。


「それはいいんだけど、あっちの……あの顔の男の方は?」

 早紀が控えめに尋ねる。隆臣となにかの因縁があることをわかってはいるようだが、まだ訊かれてはいない。

「……もう、来ないよ。大丈夫……」

 左隣にいる瑞樹が今、どんな顔をしているのか想像はできるが見ないようにした。

「矢本くん……。あの人は……」

「ああ! 詩乃、もういいよその話は。詩乃にちょっかいかけてくる馬鹿なんて前からいたでしょ」

 喜美子が、大げさな手振りで話題を変えようとした。


「どうせまた、ふざけた嫌がらせだよ。逮捕されたって聞いたし後は警察がちゃんとしめてくてるよ」

「……」

 瑞樹が時計を確認するそぶりで横を向いた。

「……矢本くん、瑞樹」

 早紀が一歩前に出た。

「もし、なにか悩むようなことがあったら、あまり二人だけで抱え込まないで。私でもできることがあるなら協力するから」

「ああ……」

「うん……」

 勘の聡い彼女はなにがしか察するところがあったのだろう。彼女の気遣いに感謝したところで、二人ほどこちらに近づいてきた。

「部長……」

 一人はバスケ部キャプテンの、天津啓吾、もう一人は合奏クラブの本郷賢哉だった。

「ちーっす、隆臣ちゃんお疲れちゃん。お咎めなしだって、よかったな、おい」

 カラカラと笑う賢哉、底抜けに明るくノリが軽い男でちょっと苦手だった。手振りでわかった、と伝えてから、啓吾の前に立った。

「部長、すみません。今回の件はすべて俺の責任です」

 90度体を曲げて、頭を下げる。あの時、啓吾の制止を振り切って、綜士の元へ向かったこともあり、申し開きのしようもなかった。

「もういい……。だが次なにかあった時はまず俺に相談しろ。いいな?」

「はい……。部はどうなります……?」

「一時休部だ。だが公式戦には差しさわりはないと、お墨付きはなんとかもらった」

 息を吐いて安堵した。

「天都さん、ごめんなさい……」

 詩乃が痛々しいまでの表情で頭を下げる。

「いや、君があやまるようなことじゃない。うちの部員たちの暴走が原因だ。どんな相手にせよ多対一で袋叩きなど、許される話じゃない。連中には相応の責任を取らせるが……」

 ちらりと啓吾が隆臣に目線をすべらせた。あの男が何者なのか、気にかけているのだろうが尋ねられてはいない。この場は、詩乃に配慮してこれ以上追及する気配もなかった。

「それより、せっかくの金曜なんだし。どっか遊びにでも行かね? カラオケとか」

 賢哉が、なにかを踊りながら提案する。

「そうね、問題も片付いたことだし、いいよね詩乃」

 喜美子が詩乃の様子を窺いながら同意した。気を紛らわせてやりたいのだろう。

「うん……」

「啓吾さんもどうっすか?」

 馴れ馴れしく、啓吾の肩に手を回しながら密着する賢哉。

「悪いが、今日は帰らねばならんことになった。あの馬鹿……妹が足を怪我したらしくてな」

「へっ⁉ 結奈ちゃんが?」

「ああ……南極がどうとかカモメがなんとかわけのわからんことを言っていたが……。演劇の話だと思うが……ともかく今日は失礼する」

 詩乃たちと礼を交わしてから、啓吾が去って行く。その背中を見て、痛痒で首をかきむしりたくなってきた。

「本郷、あんたって、ずいぶん天都さんと親しいよね」

 喜美子がバックを片手で背負いながら、賢哉に訊いた。

「おう、中学の頃から世話になってるし、ここじゃ肩身の狭い汐浦組だからな」

 汐浦町、隣の南港区にあり規模は大きいが生活水準は、ここ元柳より貧しく、この嶺公院高校では汐浦から通学する生徒はあまりいない。

「天都さんって妹がいるんだ?」

「ああ、ちょっと変わって……もといすごく元気な子。学校はセントアンナだったな」

「ふーん」

 一瞬、あの記憶がフラッシュバックした。あの時、


 あの時、綜士に加勢したあの金髪の子……。確かセントアンナの制服だったような……。


 口元に手を当てて、考えを整理する。ずっと入院していて、意識まで失っていたという綜士になぜ手を貸すような真似をしたのだろうか。そもそもいつ綜士と知り合ったのか。ずっと以前からとも考えられるが、それなら自分や瑞樹が知らないわけがない。やはり覚醒してから知己になったはずである。


 一体誰なんだ……?


 他にも気になる点はある。綜士は、本当に諦めたのだろうか。昔から、引き際は心得ていた男であったし、執着心や負けず嫌いなところもあまりなかった。しかし、詩乃のことになるとまったく話が変わってくる。


 あいつはまだ病院か……それとも……。


 家に帰ったのだろうか。もう誰も住んでいないあの家に……。

「……」

 未練とわかっていても、哀れを覚えないわけではない。だが……。

「矢本くん大丈夫……?」

「えっ?」

 詩乃の瞳が眼前で瞬いた。


「……ごめん。考え事してて」

「うん……」

 軽く手を握りしめて、自己認識を整然とさせた。今、自分が守らねばならない現実はそこにいる。しかし、同時にそれは過去を切り捨てる結果に帰結するのかもしれない。

「そんじゃ、行こうぜ」

 英人が全員を先導するようにステップを踏んだ。

「ごめん、私も今日はちょっと……」

 瑞樹が立ち止まった。

「あら? そうなの瑞樹さん」

 賢哉である。


「うん、店を手伝う約束してて、もう行くね……」

 嘘だろう。

「ううん、またね瑞樹」と喜美子。

「ごめん、それじゃ……」

「瑞樹ちゃん」

「な、なに詩乃……?」

 詩乃が瑞樹の手を握った。

「いつもありがとう……」

「ううん……」

「明日遊びに来て。帰ったらメッセージ送るから」

「……わかった」

 それを最後に瑞樹は立ち去った。おそらく今の約束はキャンセルになるだろう。


 瑞樹……俺たちは……。


 処理しきれない複雑な感情を醸し出す彼女の背を瞬きもせず、見つめた。


 昨日の一件以来、まだ瑞樹とは口を聞いていない。待てども、今日も返信は期待できないだろう。諦めて帰ることにする、と決めたその時、

「隆臣」

 横合いから話しかけられた。

「あ……部長、どうしたんです? 土曜なのに」

 啓吾が鞄を背負って立っていた。

「クラブ連盟のほうでハロウィンフェスの話があってな。お前は自主練か?」

「ええ……」

 罰が悪い。自分のせいでクラブが一時休部になっているのに、自分だけが活動していたのでは。

 昨日のモヤモヤが晴れずに、体を動かして迷いを振り切りたかった一心である。


「ああ……そういえば」

「はい?」

「あの時、お前がもめていた相手のことなんだが……」

 固い緊張が突き抜けた。聞かれたら、隠し立てなく話す気でいる。

「その、名前はなんと言ったか……?」

「え?」

 なぜ、まず名前なのだろうか。

「いや、別に言いたくないなら構わんが……先生たちも教えてくれなくてな」

 再度、喧嘩沙汰になるのを学校は懸念しているのだろう。


「……桜庭綜士……です」

「……そうか」

「あいつとは……」

「いや、もういい。それだけ聞いておきたかっただけだ」

「……?」

 それだけ言い終わると、啓吾は行ってしまった。なぜ名前以外、なにも聞こうとしなかったのかいまいちわからない。

「帰るか……」

 これ以上ここで待っていても梨のつぶてだろう。バックを片手で抱えて、帰路についた。


 帰りのバス内でメッセージを確認。詩乃から一件、やはり今日の瑞樹との予定は無理だったようだ。そのことで瑞樹を心配していることが文面からも読み取れる。

顔を軽くつかんで、自分と瑞樹のギクシャクが今後の不安材料になりかねないことを懸念した。これまでも瑞樹は自分たちのグループで遊んでいるときに時折、後ろめたい表情を垣間見せることがあった。綜士が行方不明なのに、ということだったのであろう。


 俺のことは……。


 冷血な男、と内心嫌悪感を持たれていたかもしれない。

 自宅の団地近くの停車場で降りて家に戻る。空は雨雲がかかり始めて、不穏な天気の兆候を見せ始めていた。十七年暮らしてきた公営団地は、ところどころ壁汚れがうっすらと張りついている。人気の少ない、コンクリートの階段を静かに上がっていく。物価の上昇や増税による生活苦から、元柳での生活を放棄して、この一年で多くの住民が退去した。


 ドアを開いて帰宅した家は暗がりの中、水滴が落ちる音が断続的に聞こえてくる。水道の締め方が緩かったようだ。物心ついていた時から両親とここで暮らしてきた。だが、今はもうここには自分しかいない。

「……」

 着信が来た。慌てて携帯を出して確認する。顧問からの連絡事項、あの事件での示談が拒否された、というものだった。

「……」

 携帯をしまう。そこには、無視された、を拒否されたと誤認した伝達上の過誤があったのだが、隆臣の気づくところではない。

 やはり綜士は、自分たちに報復の念を持っている。そう考えざるを得なかった。今後、あの男がどう動くか、警戒しつつ、見極めねばならない。


 綜士……。なぜ……。


 握りしめた拳を壁につけた。


 なぜ、今になって俺の前に現れた……⁉


 窓の外では、いつのまにか空に拡がっていた黒雲が小さな雷鳴をとどろかせた。


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