(3)
「……瑞樹」
彼女が小さくうなずいた。体感的にはまだ一か月も経っていないが、まともに面と向かって話すのは1年と6か月ぶりになる。
口元がわずかに開いたが、言葉は後続しない。お互い、次の一声が読めないでいる。
「……綜士、久しぶり……」
「……」
返事をしようとわずかに開きかけた口を閉じて、背を向けた。別人のよう、というのが彼女を視認した上での所感であった。瑞樹の髪形はあの頃のままだったが、中学のころまでの、はすっぱさはなりを潜めており、柔和で女性的な顔つきになっていた。さらに落ち着いた色のブラウスとスカート姿を見ればどこかいい所の御令嬢にすら見えた。
幼稚園の頃から自分を引っ張り回していたあのお転婆娘も、今の高校に入ってから、落ち着いたのかもしれない。
置いていかれた心痛、と言っていいのかわからないが、なにかつらい。見ていられなくなり、黙々と草を抜く作業を再開する。
「そ、綜士、あのね……」
「……」
鼓動が早まりかけたがすぐ落ち着かせた。
「綜士がここにいるって……市民病院の人に教えてもらって……」
余計なことをしてくれたものだと思う。
「ちょっと難しかったけど、中学の頃の写真とか見せたら、わかってもらえて……」
「……ッ」
小さく舌打ち、瑞樹の体が揺れたことが背中越しでも察知できた。瑞樹までもが自分の暴力の激発を警戒しているのに、陰鬱な気分になる。
「あ、あの……家には、帰らないの……?」
瑞樹はろくに綜士の現状を理解していないようだ。いい加減、うっとおしくなってきたが、無視し続けても去ろうとはしないだろう。
「……なにか用?」
こんな低い声を出したことはなかったかもしれない。
「……どうして、るのか……。気になって……」
瑞樹の言葉が途切れ途切れになる、
「そ、それとね……。お母さんたちに綜士が生きてたこと話したら、すごく喜んでくれた……」
「ああ、そう……」
瑞樹の両親には昔からよくしてもらった。だからこそ思い出のままにしておきたい。もう彼女との接点は持てなくなったのだから。
ゴミ袋に乱暴に草を詰め込む。瑞樹が大きく息を吸い込む音を聞いた。
「綜士、聞いて……。私たち、綜士のことが嫌いになったから、仲間外れにしてるわけじゃないんだよ……」
幼稚な言い様におかしな失笑が漏れた。シャベルを手にして、草の根元めがけて土に突き入れた。
「隆臣や朝香さんのやり方だって、すごく一方的でひどかった……と思う」
歯をかんだ。隆臣に関しては憎しみ、と言えるかどうかはわからないが、あの男について考えるたびに暗い思念が指の先を焦がしてくる。あの朝香とかいう女とのやり取りは、一生の恨みにしてもいいくらい、思い出すたびに憤激で頭がぐらつくほどであった。人を、まして女性を殴りたいと思わせるほどの怨念を抱かせた人格破綻者、もはや人間とすら思っていない。
「でも、綜士のいない間、私たちも大変だったんだよ。い、今は難しいけど……もっと時間をかけてもう一度考えていこ……。詩乃の」
血流が逆方向に噴き上げ、シャベルをレンガ塀に投げつけた。ヒステリックな金属音が響いて、木に止まっていた鳥が一斉に飛び立った。
震える背中で、その名前だけは口にするなと伝えてやった。
「……ご、ごめん……」
とうとう振り返った。瑞樹の顔を見下ろすように睥睨する。
「……瑞樹、俺とお前ら……もう二度と昔みたいには話せないだろ」
鼻で笑うようにそんな言葉を口に出せた自分が怖くなる。
「私たちのこと、怒ってるの……わかるよ……。おばさんたちや伊織ちゃんのこともすごく残念だったと思う……」
「……うるせえよ……」
これ以上言わせないでほしいのだが、瑞樹はまだ会話をあきらめる気配がない。彼女も耐えているのだろう。
「でも綜士が生きているのかどうかもわからなかったから……あの娘になんて説明したらいいのかわからなくて、時間だけが過ぎてしまって」
「……人を警察にまで突き出しておいて、これ以上なんの話があるってんだ……」
「それは……」
「だいたい、お前だって……これ以上俺に関わってお前になんのメリットがある?」
とうとう一線を越えてしまった。
「え……?」
「親父も死んだんだ、もう俺に利用価値なんてないだろ」
瑞樹が青ざめて絶句した。彼女の赤橋家の料理店に日之崎通商が出資したという関係上、言ってはならない言葉だった。これまでの友人付き合いのすべてが、瑞樹にとって計算づくの打算であったと邪推するような言い草に、信じられないという顔になっている。
「あのままじゃ後味が悪いからわざわざ、見物しに来たのか? それとも自分はいい人ですアピールしたいのか? へっ……。とんだ偽善者だなお前、反吐が出るってんだよ」
一度舌端を開いたら、歪んだ情念の放出はもう押しとどめられなくなった。もはや毒という毒を吐いて、彼女をこの場から去らせるほかない。
「わ、私は……」
「もう二度とここには来るな! 隆臣とよろしくやってろ! ……ああ、あいつはあいつで別にお目当てがいそうだけどな。ハハッ……」
もはや狂気であるとしか言いようがない、という自覚はあるが、やめられない。どうせ嫌われるならどこまでも醜悪になってもいいと開き直った
ついに瑞樹が身を翻して走り出した。その背中を脱力したまま視界に収める。自分自身を、殴りたくなった。
震える手を血がにじむほどに強く握りしめた。
最低だ……俺は……。
差し伸べてくれた手を払いのけて、男のクズに成り下がったと自嘲する。綜士が不在の間、彼女を守護してくれた瑞樹を傷つけていい道理など、どこにもない。
ただ、厄介者にされたことで、いじけて、腐って八つ当たりするような最低なやつ、そう思って欲しかった。
立ち尽くしたまま落とした視線の先の、秋の枯れ始めの芝生に影が一つ現れた。
「……お茶の用意が整ったから話の続きは中で……と言いに来たんだけど」
芽衣子の声が冷たい硬質性を付帯している。顔を上げて彼女を見据えた。
「感心しないわね。わざわざあなたを尋ねてここまでやってきたお友達に対して……」
弁明のしようがない。
「……瑞樹には今の……嶺公院での生活と人間関係があるんだ。もう俺のことなんかに構わせたくない……」
「れいこういんって、嶺公院高校?」
「ああ……、俺も去年、あそこに進学するはずだったんだ。アハハ……、一生懸命勉強したんだけどなぁ……」
乾いた笑いを空に投げかける。
あれほど……努力してきたのに……。
艱難辛苦を超えて得ることができた約束された学校生活、謳歌できた青春、なによりも大切な人。理不尽な暴力に一瞬にして、すべてを奪われた。
「ごめん……ちょっと部屋で休む」
投げ捨てたシャベルを拾い上げて、脇に丁寧に立ててから、裏口のドアに向かった。芽衣子の視線を背後に感じる。足取りを見られているとおもい、心配を抱かせないように強く地面を踏んだ。
ドアを開いた先の廊下先に、
「……」
リサが立っていた。シャベルを叩きつけた音を聞いて降りてきたのだろう。なにも言わないままこちらを見つめている。
「……今度、ジャガイモ植えることにしたよ。よかったら手伝って……」
青いものを混じらせた目じりのまま、力なく笑いながらそう呼びかけた。リサがわずかに首を縦に振った。
リサを横切って、階段を上がる。ステンドグラスの窓から館内に傾き始めた陽光が降り注いでいた。
部屋に戻り、ドアを閉じてから、
「……ああ!」
顔をめちゃくちゃにかきむしった。自分の狭量さと卑小さを、心の底から嫌悪する。振り切れど、振り切れない想いが、自分を苛む。
俺は……弱い……。
ベッドで悶えながら、そう自責し続けた。
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