第四章 三人三色
(1)
力のない歩き方のまま、元柳商店街に足を踏み入れた。人目につくのが嫌で、通りには入らず人気のない脇道を俯きながらあるく。道すがら見えた窓で、自分の顔を確認する。公園で何度も顔を洗ったが目はまだウサギの紅いそれだった。
両親が経営する料理店、豊緑亭、瑞樹の家はその店舗に横付けされている。両親に気取られないように裏戸から家に入った。
足音を立てないように自室まで戻る。薄暗い部屋、閉め切られたままのカーテン、電気もつけないままベッドにうつ伏せになった。
覚悟はしていた。だが、どこかで彼となら通じ合えるのではと期待もしていた。
そんな調子のいい話ないよね……。……綜士。
恋人である、いや恋人であった詩乃に接触を許さない誓約書まで書かされた綜士、その彼と自分だけが昔のように付き合いを持てるなどあまりにも都合のいい思い上がりだった。自分ならと、うぬぼれていた、のかもしれない。
幼稚園の頃から、綜士は自分にとって、手のかかる弟みたいなものだった。
元柳には、両親がお店を開く際に引っ越してきた。そこで取引先の日之崎通商に出向いた際にそこの社長夫妻に同い年の年齢の子どもがいると知らされ、誼を結んでほしいとの両親の思惑もあり同じ幼稚園に入れられた。社長夫妻の子どもは男の子だという。最初は嫌だったが、奏穂幼稚園で紹介されたその子ども、桜庭綜士は思いのほか瑞樹の興味を引く子だった。
楽しい時には思いっきり喜ぶ、辛いときは悲しい顔をする。感情表現がはっきりしていて見ていて面白かった。
二人はすぐに打ち解けて、親同士の思惑に関係なく友人同士となった。
それからほどなく矢本隆臣という子も加わり、いつのまにか三人で遊ぶことが当たり前になっていった。
小学生になってからも三人の関係は相変わらずで、女子との遊びよりも綜士たちとの関係を優先するほうが多かった。綜士はともかく隆臣はモテるので、そのことで他の女子から陰口ややっかみを受けることもあったが気にしたことはなかった。彼らとは、絆、と呼べるものがあったのだと今では思える。
だからあの時……。
中学二年の5月、綜士がいきなり月坂詩乃という子に気がある旨を聞かされた時は唖然とした。自分ですら彼氏が欲しいなど思ったことすらないのに、あの綜士がそんなことを口に出せたのが驚きだった。
その時、頭に浮かんだのは、どうせ玉砕して失恋するんだからそうなったときにどうやって綜士を元気づけてやるか、ということだった。口には出さないが、隆臣も同じ考えだったと思う。
だが予想とは裏腹に詩乃は綜士とどんどん親しくなっていった。
そして中学二年の夏休みについに交際し始めた時は、なんとも言えない気分になった。弟分だった綜士がどこか遠くへ行ってしまった気がした。
それに彼の彼女、となった詩乃が自分をどう認識するかも不安だった。綜士に近い幼馴染の女子というだけで敵視されたり、無視されるかもわからないと思ったが、一貫して詩乃は瑞樹に好意的だった。毎日のように、あれやこれやと綜士のことを聞きたがるので参ってしまったくらいである。自分と詩乃も個人的に親友と呼べるほどの関係になるのも、さほどの時間を要しなかった。
二人は、お似合いのカップルだと思った。素直に応援したいと思えた。
ただ、どこかで自分が持っていたなにかが欠けてしまった気がした。綜士にはもう詩乃がいると思うと、気軽に遊びにも誘えなくなった。
私にとってなんだったんだろう……。綜士は……。
電灯が落ちたままの暗い天井を見つめる。
携帯が鳴る音がした。手に持つと、メッセージを送ってきた相手は隆臣。
「……」
昨日の件でもう一度話したい、とのことだった。返信もせずに床に放り投げた。
わからない、綜士だけじゃなくて隆臣のことも。隆臣はもう綜士になんの友情も感じていないのだろうか。高校に入ってから彼は変わった。変わらざるを得なかった。詩乃を守るために戦士になった。
あの事件のせいで、詩乃の家には連日、脅迫や嫌がらせの電話がかかり、ゴミを投げ入れられるのも毎日のことだった。
月坂の人間は死んで責任を取れ、拡声器でそう怒鳴りつける輩もいた。携帯のカメラを構えて詩乃が出てくるのを今かと待ち構える連中を思い出すだけで、眉がつり上がってくる。
詩乃は住所を日之崎に戻ってきた叔母の朝香が新たに借りたマンションに移した。登下校は必ず自分と隆臣が同道した。街中で言いがかりをつけてくるやつや無断で携帯を向けてくるやつはことごとく隆臣が排除した。隆臣のバスケ部や詩乃が入った合奏クラブのみんなも味方になって助けてくれた。
記憶を失い、言葉すらろくに発せなくなった詩乃も、徐々に回復していき二年になるころにはもう中学の頃と同じ感覚で話せるようになった。
ただ気になることがあった。詩乃の過去のことである。恋人という概念すら理解できるかもわからなくなった詩乃に、あの事件以降どこかの病院に搬送されたまま音信不通になった綜士の存在をどう説明したらいいのか思案にくれて話すことができなかった。そもそも八方手を尽くしても綜士の所在はわからなかった。生きているのかどうかさえ。日之崎通商の従業員たちにもかけあったが、彼らにもわからないといわれた。
詩乃も中学以前の彼女自身のことはあまり知りたがらなかった。怖かったのだろう。
もっと早くに手を打っていれば……。
こんなことにはならなかったのかもしれない。せめて綜士が目覚めてから最初に接触したのが自分だったのなら、ここまで事態がこじれずに済んだかもしれない。
でも隆臣だって……。
あそこまで問答無用で綜士を排除する必要があったのか疑念が晴れてくれない。本当に詩乃のためだけ、なのだろうか。今の隆臣は詩乃にとって頼れる兄以上の存在、ひょっとしたら……。
「……ッ!」
ゲスな勘繰りをしたと顔を両手で叩く。しかしもう勘繰りではないのかもしれない。またメッセージが来た。当然、発信主は隆臣。もう文面を読む気にもなれなかった。
「綜士……私、どうすれば……」
顔にこすりつけた腕の合間から、温かな雫がにじみ落ちた。
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