第三章 振り切れど振り切れない

(1)


 日之崎市中央区、そのさらに中心のオフィス街には多数の企業が大なり小なりのビルに陣を構えている。そのうちの一つ、日之崎通商のオフィスが入居する建物の5階に足を踏み入れた。

 ここの4,5階はフロア全体を日之崎通商が所有しているため、平日にも関わらず人の気配がまったくせず静かなものだった。


 二年ぶりだな……。


 父母の仕事を少し手伝わされた時に来たことがある。両親は社会勉強させたい思惑もあったのだろうと今ではわかる。

 日之崎通商は要の経営者夫妻を失ったことで、事業の継続が困難になり副社長だった服部氏の判断で休眠会社としてその機能を停止している。従業員たちはそれぞれ別の職場を探して、会社を去ってしまった。どうしようもない事情とはいえ、彼らに詫びたい痛惜に苛まれる。


 一階の管理人室では何者かと疑念を持たれたが、身分証明書とこれまでの事情を説明するとここの鍵を渡してくれた。


 父さんの執務室はあっちだったな。


 奥にあるいかにも厳重そうなドアを開いた。

「ここか……」

 日之崎通商社長室、壁には国や県からの表彰状がいくつも飾られており、一際目立つところには、創業者であり先代社長の祖父の肖像画が掲げられていた。

「おじいちゃん、久しぶり……」

 5年前に急逝した祖父に挨拶を送る。豪快で肝の据わった翁であった。生まれたばかりの伊織を猫かわいがりしていたのが、綜士が見た最後の祖父の姿だった。

父、桜庭総一郎の机には決済の途中であっただろう書類がそのままになっていた。


 ほんとうに……一瞬だったんだな……。


 父はまだまだ会社を大きくするための働き盛りであった。野望も夢もあっただろう。そのすべてが、一瞬の狂気に呑まれて失われてしまった。泉下でどれだけの無念をかみしめているのだろうか。それを思うだけで涙腺が緩んでくる。

「父さん……」

 机には家族の写真も写真立てに入れられて置かれていた。綜士が中学二年の頃に、家族で山に遊びに行ったときの写真。日ごろ、綜士に関心が薄かった父だが、本当は色々と気にかけていたのかもしれない。

目頭を押さえてから事務室から借りたマスターキーで父のデスクを開錠して中から書類入れを取り出した。これまでの通商記録を調査する。


 一枚一枚調べたところで、ようやく見つけた。

「これか……」

 北城牧場との契約書面を発見した。食肉、乳製品を扱っており、日之崎通商はここから市中の飲食店やスーパーに各種食材を供給していたようだ。

 直接、ここから食品を購入できないか思案する。直売という形なら、かなり安く聖霊館の食費を押えられるのではないかと思いここにやってきたのだ。

「帰ってから芽衣子にも相談しないとな」

 少しでも聖霊館の台所事情を助けたいとの一心である。むろん、道やアルクィン財団に相談すれば、造作もなく解決することだが、すぐに大人を頼ってしまうのは自分たちのためにならない。まずは非力な未成年なりにできることをやってからだろう、というのが綜士なりの新しい家で心構えであった。

他にも家計に役立ちそうな取引先の書類をファイルに集めて、鞄に詰めた。退出際に、

「また来るよ……」

 そう述べてから静かに扉を閉じた。


 聖霊館に戻ると、運動着に着がえて庭に出た。今日はリサがリハビリに付きあってくれる。準備運動をやってる途中でリサがやってきた。学校仕様のシャツとスパッツと思しき装いで、髪をポニーテールに縛っている。

「そんじゃ、始めんぞ……」

「お手柔らかに頼みます」

「なんだよそりゃ」

 ストレッチから開始する。

「こ、こんなに曲げるのか……?」

 リサが肩を強く圧迫してきた。

「できるとこまででいい。……にしてもめちゃくちゃ体コってるなお前」

「そりゃずいぶん長いこと眠り姫やってたからな……」

 リサの指示に従いつつ、体を曲げたり折ったりを繰り返した。

「ふう……」

 ひと段落ついたところで地面に敷いたマットに大の字になって息を吐いた。


「ふん、午前の分はこんなところだな」

「え? まだやれるぞ、これから走り込みに行くつもりだけど」

「馬鹿! 昨日倒れそうになったばかりだろ」

「あ、あれはちょっと油断して……」

 リサが腰に手を当てて正面から見下ろしてきた。

「ったく、お前運動の経験がほんとないな。部活はなにやってたんだよ」

「美術部だけど」

「へ? 美術って……」

「な、なにさ?」

「そんな柄かよ?」

 からかっているような声音ではない。心底意外に思われたようだ。


「……悪かったな」

「画家にでもなりたかったのか?」

「そんなんじゃない、ただの趣味だよ。運動部も興味あったけど俺は昔から鈍かったから。ところで……」

「あん?」

 立ち上がった。

「リサはなにか格闘技でもやってるのか?」

「別に何も。なんでそんなこと聞く?」

「いやあの時……」


 嶺公院高校前での争闘であのチンピラを難なくあしらったリサの挙動は、武術家、職業軍人のそれを思わせるものだった。

「ああ……。別にあれは大したもんじゃない、まあ護身術程度のもんだ」

「CQC、マーシャルアーツってやつか。お父さんから、教わったんだろ?」

「そうだけど……」

「ふーん……」

 ちょっとニヤニヤしてしまった。

「な、なに……?」

 離れて暮らす娘が心配で、仕込んでおいたと推察した。

「ちょっと教えてもらってもいいか?」

「まあ、別に……でも、軍隊仕込みの近接格闘術ったってそれほど専門的なもんじゃないぞ。父さんだって海兵隊じゃないんだし」

「頼みますよ、センセ」

「……上等だ」

 リサとの特訓が続いた。


 日が中天に差し掛かるころには、息も絶え絶えだった。リサもかなり披露したようで腰を落としてしまった。

「だー、もう汗だくだよ」

 リサタオルで顔をくしゃくしゃに拭いた。

「ハハ、悪い。でもなかなか面白かったぞ。体を動かすって結構楽しいんだな」

 文化系では味わえないスポーツの醍醐味、食わず嫌いで運動を避けていたが、やりごたえ、というものが実感できた。

「一応、言っとくけど変なことに使うなよ」

「変なことってなんだよ、俺がその辺で喧嘩を売るような人間に見えるのか」

 笑いながら、シューズのずれを直す。

「そんなんじゃないけど、危険な目にあっても、しょせんにわか仕込みなんだから過信するなって意味だ」

「わかった」

 立ち上がって、掛け時計を見て時間を確認、ちょうど昼時でキッチンでは芽衣子がなにか作っている様子が窺えた。


「芽衣子なにか料理してるな、手伝いに行くか」

「その前にシャワー浴びて来いよ。このまま行ったら追い出されるのがオチだぞ」

「そうだな、俺、二階の使うから」

「ああ」

 リサは一階の浴場を使うことを勧めた。

「そんじゃ戻る……か……」

「……? どうした?」

「あ……大丈夫」

「ほんとか? やっぱり無茶だったんじゃ……」

「へ、平気だって……! ほら」

 リサの肩を押して、家に入るよう促した。彼女の発汗の匂いで、わずかに惑ったなど口が裂けても言えることではない。


 シャワーを終えてダイニングに行くと、ボールに山盛りになったパスタがキッチン台に置かれている。さらに芽衣子がなにか炒めていた。

「芽衣子、それ……」

「あら、お疲れ様、リサと仲良く遊んでたみたいね」

「リハビリだよ、ごめん昼食、手伝うの忘れてて」

「別に平気だよ、土日の昼は好きなの買って食べる子もいるけど、家でも私が大抵なにか作ってるから、ここで食べる時は言ってね」


 ダイニングテーブルに用意された皿は三つ、

「みんなは?」

「小学生組は今日は学校、球技大会があるんだって」

「そうだったね」

 そう言えば今朝、瞬や伸治がその話題で盛り上がっていた。スポーツが得意な瞬は、サッカー、ポートボール、バスケと助っ人を依頼されており複数かけ持つらしい。一方で、依織は運動音痴なのかあまり元気がなかった。


「芽衣子―、なに作ってんだ?」

 リサが頭をタオルで拭きながらやってきた。

「……」水気を帯びた金色の髪が陽光に照らされて、艶やかに輝いて見えた。

「バジルソースだよ、ペーストが余ってたから前から作ろうと思ってたんだけど、これ小学生ズには評判がよくなくて」

 玉ねぎとベーコンに胡椒を加えて器用に仕上げていく。

「綜士は大丈夫?」

「全然、大丈夫」

 冷蔵庫からミネラルウォーターのピッチャーを取り出して、テーブルに置く。ほどなく芽衣子が完成したバジルパスタをテーブルに置いて食事となった。


「ううん、うまーい」

 リサが恍惚とした表情でパスタを咀嚼する。

「うふふ、柚葉姉さん仕込みよ。綜士も昨日会ったんだよね?」

「ああ、定食ごちそうしてもらっちゃった。でも、大変だなこの時期に飲食店をやるのは」

「そうだね、でも姉さんの夢だったから、まだ自分のお店ってわけじゃないからその途中だけど」

 フォークを持つ手が止まった。


 夢か……。俺の夢ってなんだったんだろ。


 将来のことは漠然としか考えていなかった。ただ、あの時の目標は紛れもなくあの高校に受かることであり、そして彼女と一緒に……。

「……ッ!」

 水を一気に喉に流し込んで、頭をリフレッシュさせた。

「なんだよ、むせたのか?」

「あ、えへ……」

 ごまかしの笑み。

「……芽衣子、なんかの興奮物質でも入れたのか、変だぞこいつ」

「なに言ってんの……」

 芽衣子が呆れたように嘆息した。


 ふう……。


 心中で動揺を見抜かれなかったことを安堵の吐息を漏らす。なにかを考え込むたびに過去のしがらみに体の中のものをわしづかみにされるような痛みを覚える。


 いい加減……。


 振り切らなければならない、と自戒した。

「それより芽衣子、裏庭の畑なんだけど……」

「うん」

「ちょっと手入れしてもいいかな、もう秋だけどジャガイモくらいは作れるかもしれないから」

「わかった、私も手伝うね。リサはどうする?」

「部屋で寝てる、こいつに付きあってくたびれたよ」

 目を閉じて水を飲むリサ。

「わ、悪いな……片づけは俺がやるから休んでろ……休んでてください先生」

 ちょっと、はしゃぎ過ぎたかもしれない。


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