(3)

 そのまま近くの公園まで来たところで、腕を離された。

「隆臣……だろ」

「……ああ」

 どこか厳めしさを増した顔つきになっている友人に困惑の念を抱く。


「綜士、今までどこにいた?」

 言葉を失った。隆臣は一体なにを聞いているのだろうか。

「ど、どこって……⁉ 病院だよ!」

 声を荒げて詰め寄った。

「それならなんで、月坂に連絡しなかった?」

「で、できるわけないだろ! お、俺、つい最近まで眠ってたんだ……ぞ……!」

「なに?」

 隆臣が観察でもするかのように綜士の顔に視線を走らせた。

「あの日宮祭の事件があっただろ、それで俺は……」

「そうか……」

 そうか、で済ませてしまう隆臣の冷淡さが信じられない。


「お前は、怪我とかしなかったのか?」

「俺はなんともない、なかった。瑞樹も無事だ」

「そ、そう……」

 安堵して、大きく息を吐いた。

「それは……よかった……」

「……で、なにしにきた?」

「え?」

 顔を上げた。今、なにを言われたのか、理解が追いつかなくなった。


「な、なにって……詩乃に……俺の無事を……」

「……わかった、俺から知らせておく」

「な、なに言ってんだ……?」

 わけがわからない。ただ隆臣の言い様からは、綜士を詩乃には近づけない、とする意志が明らかであるように思えた。


「自分で話すよ……!」

「……それは、無理だ」

「ど、どうして⁉」

「月坂は……」

 言葉を濁す隆臣。綜士の目を見ようともしない。

「直接話す! 詩乃、携帯変えたんだろ、番号教えて……」

「無理だ」

「だからどうして⁉」


 隆臣がため息をついてから、改めて綜士の顔を直視した。瞳の冷たさに戦慄すら感じる。彼は小、中と共に過ごしてきた親友、のはずなのに。

「月坂は……お前を知らない……」

「え……?」

 眼輪筋が硬直した。

「あの事件で重傷を負ってから、記憶障害になって……嶺公院に入る前のすべてを忘れた」

 茫然と立ち尽くす。あの時の詩乃はかなり衰弱していたが、そんな事態になっているなど微塵も予想できなかった。

「今も治療を受けながら通学してるんだ」

 詩乃の不可解な態度と反応がようやく納得できるものとして、綜士の現状認識を充足させていく。


「……だ、だったらなおさら俺が会って……」

「……俺は、不審な輩を近づけないように頼まれている」

 またしても絶句、綜士が不審だと言っているに等しい。というよりそのままである。

「ふ、ふざけてるの……? 俺が不審者?」

「……今はそうだ」

 憤激よりも衝撃の度合いが勝った。青ざめた口が半開きになり、奇妙な失笑がもれる。これが10年来の友人の言葉とは思えず、白昼夢でも見てるような倒錯感に陥った。


「ほんとに……なに、言ってんの? 俺は詩乃の……」

「昔のことだ、もう……」

 もう彼氏じゃない、そう言っている、と解釈していいのだろうか判断に迷う。

「綜士、あの後なにが起こったかなにも知らないんだろ? あのテロは月坂九朗を狙ったものだったと世間じゃ騒がれて、月坂家の人間は責任を取れだの無茶苦茶な言いがかりで……。でも月坂のおじいさんもご両親も逝ってしまったから、なんの記憶もない彼女だけが標的にされて、昼夜を問わずおかしなやつらが嫌がらせや脅しをかけてきて……だから俺と瑞樹、それに協力に応じてくれた同級生たちとともに自分が誰かもわからなくなった月坂を守るしかなかったんだ……」

「あ……あ……」

 言葉が続かない。彼女も悲惨を極めた状況に陥っていたことを知り、言葉を失う。


「月坂は今は安定してるが、まだ予断を許さない状態だ。だから、過去のことでまた苦しめるようになるのは避けなきゃいけない。こうせざるを得ないのも、お前にだって責任があるはずだ。あの時、お前がちゃんと彼女を守っていれば……」

「どうしようもなかった! なにもかも一瞬で起こったことだ! お前だって、あの場所にいたんだからわかるだろ!」

 悲憤慷慨してただ叫んだ。自分と詩乃の人生を変転させたテロ、それと波及して二人を追い込んだ不条理への怒りの涙が、熱傷にただれた頬を伝って地に落ちる。


「だが、せめてもっと早くに月坂に連絡していればこうはならなかっただろ」

「だから……! それは今、話したばかりだろ! 俺はずっと意識を失ってて……!」

「そうだな……。お前は、運がなかったんだ……」

 隆臣が体をそらしてどこか遠くを見るようにつぶやいた。


「ともかく、もうなにもかも手遅れだ。月坂もだいぶ良くなってきた。高校から友人になってくれた子たちもたくさんいる。今さら、過去を蒸し返してあいつを傷つけていいわけがない」

「勝手に決めないでくれ……! 俺は……俺にだって……。俺はどうなる……?」

「……諦めてくれ、としか言えない。一応、朝香さんには聞いてみるが」

 本気、で言っているのだろう、と信じたくない。親友からの忠告にしてはあまりにも、冷淡で苛烈すぎる。綜士の回復と帰還を喜ぶ言葉一つなく、厄介な面倒ごとが降りかかってきたかのような態度、本当に目の前の男があの隆臣と同一人物であるかどうかさえ疑わしくなってきた。


「たか……おみ……」

「話は以上だ。もうここには来るな。また来たのなら、相応の対応をしなくちゃいけなくなる。俺に……そんなことさせるな。それがお前へのせめてもの……」

 隆臣が振り返り背を向け、歩いていく。震える手を伸ばすも、触れることはできなかった。怒りとも悲しみとも形容できない感情の嵐に身を震わせながら、揺らぐ視線を去って行く男の背に向けたその時、男は立ち止まった。

「……親父さんたちの件は、残念だった……」

 それだけ言うと今度こそ、隆臣は立ち去った。


 数日前に病室で目覚めてから、たて続けに衝撃的なことが起りすぎたが、今ほど現実感のない状態になったことはない。テロにあい、家族は死んで、戦争が起こり、恋人は自分の存在そのものを忘却した。そして、頼れると信じた友からの決別ともいうべき宣告、なにも信じたくはなかった。だが、綜士の声は詩乃に届かなかった。そのことだけは認めざるを得なかった。

 カラスが夜の訪れを唄い、強風が木々をざわめかせる。虚脱したまま、どこを見るわけでもなく宙に視線を送った。


 人の気配を感じたが、振り向こうともせず、棒立ちなった綜士に、

「綜士……オレだ」

 最近知り合ったばかりの少女の声が届いた。それでも、顔を合わせない綜士の眼前に回り込んでくるリサ。

「悪い、盗み聞きする気はなかったんだけど……七瀬さんたちに頼まれて……」

 手には綜士が放りだしたままの杖が握られている。リサがさらに一歩踏み出し、綜士に顔を近づける。

「……帰るぞ」

 ようやくリサの顔を見た。

「帰る……どこへ……?」

「……」

 押し黙るリサ、かける言葉がない、とはこのことだろう。リサが小さく深呼吸をする。

「明日、北海道からオレたちの「家」を支援してくれてる人が来る。その時に、今後のことも相談してみろ。きっと、あの人ならお前によくしてくれる。なんだったらお前も……」


 リサが手を差し出した。小さく、白い手、

「来るか、聖霊館に……?」

 言っていることの意味は分からないが、今は、その手を握りたかった。人のぬくもりに触れなければこのまま凍結して、死ぬような気がして、すがるように震える両手でそれを包んだ。


 気づいた時には、またあの病室だった。時計を見る。20時17分、既に夜勤シフトに入った病院は、昼の喧騒も消え静まりかえっていた。

 体を起こして、黙然とベッドシーツに見つめる。沈思黙考して隆臣の言い分を理解しようと試みたが、やはり納得できるような話ではない。詩乃が記憶を失っているのが事実だとして、なぜ自分を排除して、対話する機会すら与えないというのか。抱きたくはない想念が沸々とたぎってきた。


 ……ふざけるな……。


 頼まれているとは言っていたが誰に頼まれてそんなことをしているのか。詩乃の身内はもうみんないないというのに。波打つ情意は、もはや怒りと認識するほかなかった。そこでドアが開かれる音を聞いて顔を上げた。

「……」またしてもリサだった。

「……コールスさん、だったな……」

「リサでいい」

 欧米流の作法と思ってそう呼ぶことにする。


「リサさん、何度も俺なんかに力貸してくれて感謝してる。ありがとう。でも、もういい。後は自分ですべてやる」

「自分でって……。お前、わかってんのか。治療はまだ続くし、リハビリだってこれからなんだぞ。多少手足がまともに動くようになったからって、無茶すれば取り返しのつかないことになるぞ」

 リサが嘆息して、椅子に腰を下ろした。

「君は……ただのボランティアなんだろ……」

 もうこれ以上関わってほしくないと暗に伝えた。

「みたいなもん、だ。オレはやることがあってここにいるから……。ともかく明日までは大人しくしてろ。それにさっき……」

 と、話していたところ、またしてもドアが開かれた。


「桜庭さん、電話が……」

 七瀬だった。このタイミングで自分に電話をかけてくる人間とは誰だろうか。

「わかりました」立ち上がろうとするも、

「そのままでいて、子機を持ってくるから」

 と、言って部屋を出ていった。

 なんとなしにリサを見る。ブロンドに青さのある瞳、年は中学生ほどだろう。

「……めずらしいか、オレみたいなのは?」

「え……?」

「一応言っとくが、日本人だぞオレは。っていっても、ヤマトの血っつうの。そういうのは四分の一しかないけどな」

 クォーターなのだろう。


「別に……」

 白色人種の日本人など今日日めずらしくもない。ただ綜士個人は、そうした人間とは直に接した経験があまりなかったため、やや新鮮な感覚はある。

 また眉が重くなってきた。やはり体力の天井がひどく低くなっている。七瀬が子機を持ってきた。もう電話禁止の時間帯のはずだが、綜士の事情を汲んでくれたと思い、頭を下げた。子機を耳に当てたところ、


『も……もしもし……』つい最近で、とても懐かしい感じの声。

「はい……」

『綜士……なの……?』

 もう一人の幼馴染に相違あるまい。

「瑞樹……か?」

『う、うん、そうだよ! 私だよ!』

 受話器越しでも彼女の飛び上がらんばかりの驚きを感知できた。

『綜士……。生きて……たんだね……。ずっと、ずっと探してた……』

「……本当か?」

『え……?』

 リサが眉をひそめる。


「いや、いい……。それで、お前は大丈夫だったのか」

『あ、あの事件のことでしょ、平気だよ。私はなんともなかった。隆臣も』

「そうか、よかったな」

 なんでもないことのように言う。

『あ、あのね……。さっき隆臣から綜士がうちの学校に来たことを伝えられて……』

 うちの学校、という言いようが神経に障った。本来なら綜士もあそこにいたはずゆえに。


『病院にいるってことしかわからなかったから、日之崎中の病院に片っ端から電話かけて……』

「今、調べたのか?」

 非難を帯びた声音になった。

『う、うん……。で、でも、去年の事件が起こった時も探してたよ! だけど捜査機密だの個人情報だので、警察はなにも教えてくれなくて……。どこか遠くの病院に送られたんじゃないかって思ってたんだけど、まさかこんな近くにいたなんて……』

 言い訳がましい言い様に、苛立ちの吐息がもれた。それを見たリサが立ち上がる。


『それでね綜士、詩乃のことなんだけど……』

「明日、会いに行く。詩乃とは直接話す」

『だ、だめだよ!』

「なんでだ?」

『なんでって、聞いたんでしょ。今、詩乃は……!』

 困惑しきりの瑞樹、隆臣よりは話しようはありそうだが、もう止まってなどいられない。

『お願い、もう少し時間を置いて。朝香さん……今、詩乃の後見人になってくれてる人とも話してみるから』

「……お断りだ」

『綜士!』

「お前も、隆臣も、一体何様のつもりで!」

 その急激な興奮が意識を遠のかせた。ふらりと体の姿勢を崩して、ベッドに手をつく。息も一気に乱れてきた。リサが受話器をひったくった。

「すみません、今、彼は話せるような状態じゃなくて、また明日にしてください」

『え?』

「失礼します」

 と、電話を切ってしまった。


 無言でリサを睨む。

「もう休め……」

「なんなんだお前は……。なぜ俺なんかに構う?」

 もはや単純な好奇心や押し売りの善意とは思えなかった。

「さっき、私に触れただろ。お前はもう、うちの人間になった」

「なんだと?」

 なにかの誓いを立てたかのような物言いが、よくわからない。

「桜庭さん今日はもう休みなさい」

 七瀬が割って入った。散々、彼女を煩わせた負い目もあるので従うほかないだろう。加えて眠気と疲労で意識は今にも落ちそうである。

「く……」

 枕に横顔をつけると、もう睡眠の誘惑に抗えなくなる。リサの顔が目に入った。瞳に宿した感情は、同情、苛立ち、葛藤、どれでもない。なにかの強い意志であるように感じた、ところで視界は閉じていった。


 

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