(2)
フラフラとした千鳥足で、夕暮れの街を歩く。今しがた起きた出来事を解釈することができず思考の糸が一向に並列化してくれない。
詩乃と再会した、名前を名乗り、顔を見せた。その上での、誰、だったのだ。あの場ではそういうしかなかった事情があったのではと思いたいが、そんなことをする理由もわからない。そもそも詩乃が意識を取り戻した自分にそんなことをする、できるわけがないのだ。彼女はいつだって自分の味方でいてくれた。どんな些細なことでも親身になって話を聞いてくれた。その詩乃が……。
どうして……なんのために……。
氷解できない疑問がおかしな妄想を生み出していく。ひょっとしたらここは本来の自分が生きてきた世界、ではないのかもしれない。意識だけどこか別の時間軸に飛ばされたのかもしれない。そんなことすら思いつき始めていた。
「あ……」
つまずき姿勢を崩して、道路に手をついた。相変わらず感覚が希薄な手だったが、輪をかけて知覚が乏しくなっている。自分の体を背後から操作しているような離人感のままうずくまった。周辺は予告されていた通り、ほとんど街灯が照明として機能していない。早く病院に戻らないと命すら危ういかもしれない。しかし体力以上に立ち上がる気力を欠いている。
車の駆動音の接近を聴覚が捉えるも、腰を上げられない。このままはねられるなら、それも運命かもしれない、などと観ずると、すぐ手前で車は停車した。ドアが開かれる。
「桜庭くん!」
誰かが降りると同時に駆け寄ってきた。さらにもう一人、反対側から飛び出てきた。
「この馬鹿……! 死にたいのか!」
甲高い声で罵倒が飛んだ。
「しっかりするんだ!」
肩を持ち上げられる。顔が視界に入ると同時にこの人物が昨日会った手塚氏であることをようやく認識した。
「おい、しらふか? しゃんとしろ」
小さな手で、頬を軽くはたかれる。長いブロンド髪、目の前の少女はリサに相違ない。
二人に支えられながら自動車に乗車させられる。
「桜庭くん、病院に戻るが……大丈夫か」
頷くことすらできずに顔を下に向ける。完全に心ここにあらずの綜士は、どこともつかぬ方向に視線を漂わせていた。
「おい、なにがあった?」
リサが修二の顔をもみくちゃにするも反応がない。郁都と顔を見合わせると、早く病院に連れ帰ったほうがいいと言葉を交わすまでもなく、認識が一致した。シートに固定されたまま人形のように運ばれる綜士。化け物でも見るかのような恋人の瞳に、完全に心を折られたまま意識を四方へと散らせたままとなった。
騒々しい音を聴覚が捉えた。人の笑い声、走り回る音、昼時はいつも騒々しい。喧騒の渦をくぐりぬけて、生徒食堂に向かった。窓の先に見えるのは黄金色の葉を落とし始めたイチョウの木々、秋ももう終わりに近づいている。
食堂まで来ると、もう彼女は来ていた。手を上げてこちらに位置を知らせてくる。ほつれてきそうな口元を結びなおすと笑顔で手を振り、彼女も同じようにした。相対する形でテーブルについた。そして……。
「……ァ」
目を開くと同時に飛び込んできたのは、
「お、起きたのか?」
ベッドに腰かけたリサだった。今日は以前見た制服姿だった。なにか文庫本のようなものを読んでいる。
「う……うた……」
「なんだよ? お、おい……」
幻影を追うかのように彼女のブラウスをつかむも、希薄な感覚の指先はすぐに滑り落ちた。
「は……」
顎が胸に当たるほどに首を垂れて、うつむいたままになる。
「綜士……?」
一年と半年ぶりに現世に戻ってから、初めて名前を呼び捨てにされた。冷え切った心の奥底がにわかに熱を持ち、温かな奔流を引き上げてくる。落涙の雨が、ポタポタとシーツに染みを広げた。
「……」
黙ったままになる二人、リサは首も目線も揺るがせにしない。年下、であろう少女にこんな不覚を二度も目撃されるみっともなさで消えてしまいたくなった。しかし、
「……ん」
両頬に冷ややかな感触、顔をリサの両手に挟まれた。さらに額に彼女の額が静かに合わさってきた。されるままに、しばらくそのままの姿勢でいた。ドアが開かれる音、七瀬が入ってきたが、一瞬立ち止まってから踵を返して出ていった。
再び目を覚ました時は、既に既に日は没していた。自分以外は誰もいない部屋、いつのまにか点滴が打たれていた。
ベッドサイドテーブルになにか置かれている。ルーズリーフが一枚、手に取って読んでみると手塚からの伝言が記されていた。自宅の件についてである。
「なんだって……⁉」
地面師と呼ばれる詐欺集団の犯罪である可能性が高いとの旨である。どうやら事故と同時に動き出し、家主を一時的に失った物件探し当てて偽りの登記申請を行い、相場よりも遥かに安値であの不動産会社に売り払ったらしい。
あまりの卑劣な手口に怒りで身悶えしてきた。警察に届け出ると同時に、買い取った不動産会社からも事情を聴いてみるので軽挙は慎むようにと結ばれていた。
「ふざけたことを……!」
怒りのあまりテーブルを叩いてしまった。絶望の底に落ちた事件の被害者に二番底を仕掛けた輩への憎悪でわなわなと震える。
そっちの方も捨ててはおけないが、今はやることがまだある。
「詩乃……どうして……」
昼間起きた出来事を改めて考えてみた。
詩乃は自分を桜庭綜士と信じられなかったのか、それとも気づいたうえであえて他人の振りをしなければならない事情でもあったのか。あるいは……。
もう俺と……。
関わりたくないのかもしれない、という身を切るような想像さえ浮かんできた。なんにせよもう一度彼女と話して見ないことにははじまらない。そこまで考えた時、重大なことを思い出した。
そうだ、隆臣や瑞樹は嶺公院にいるんだろうか。
二人の無事はまだ確かめていないが、何事もなければ当然、あの学校の生徒になっているはずである。しかし、携帯が通じないうえ自宅の番号は知らない。直接、自分から赴くほかないだろう。
「行くしかない……」
覚悟を決めて大きく息を吐くと、
「……」
テーブルに置かれたハンカチが目に入った。リサのものだろう。自分の顔を拭いてから置きっぱなしにしてしまったのか。
それを見ると、形容しようのない感情の雫が心の奥の泉に落ちて、わずかな波紋を広げるようだった。
翌日、医師の診察を受けて、流動食の昼食を終えると、七瀬に書置きをして部屋を出た。三度目の無断外出であるが、携帯のGPSでこちらの居場所がわかるようになってはいるらしい説明を受けている。昨日、リサたちがあっさり綜士を見つけられたのもそういう事情であることを知った。市民病院は今日もてんやわんやの多事多忙状態なので特に見咎められることもなく、敷地を抜けることができた。
バスで元柳の奥地まで向かう。昨日と同じ時間に同じ商店街前までやってくると拡声器でなにやら演説をしている集団がいた。日本の参戦に断固反対する、と叫んでいる。反戦活動かなにかだろう。
昨日の件で気後れしそうになるが、気持ちを奮い立たせ嶺公院近くの、道路までやってきた。既に下校する生徒がまばらに見えた。なるべく目立たないように、脇の歩道に身を隠した。出待ちしている犯罪者のようで惨めこの上なかったが、昨日のように逃げられては話もできない。そして、
「……⁉」
遠目に彼女、と思しき姿を視認した。昨日の二人も連れている。さらに男子生徒も数人見えた。怯みそうになったが、自分の彼女に会うのに怯える必要などないと、一歩踏み出した。
「……」
正面から向かっていく。対面の三人もこっちに気づいたようで顔が硬直していく。ポニーテールの少女が、怒りを感じる歩き方で先行するように寄ってきた。マスクを外す。
「喜美子、待って!」
ロングヘアの少女が制止したが、
「あんたいい加減にしてよね!」
開口一番、怒声が飛んだ。機先を制されて頭に来たが、今は眼前のこの少女に用などない。
「……詩乃に……月坂さんに話があるんだ……」
「こっちにはない! 失せろ!」
話にならない。少女を避けて後方に目をやった。見えてしまったのは、ひどく恐怖しているように見える詩乃、であった。
「うた……」
「おい!」
それは聞き覚えのある男の声だった。誰かが正面から走ってきた。
「……⁉」
「なんだお前は?」
彼は、精悍で若い力をみなぎらせたような体育会系の男子高校生になっていた。
「答えろ、あまりしつこいようなら……」
「……た、たか……」
驚きと衝撃で声を出すのがまた苦しくなってきた。隆臣、と思しき男が怪訝な表情になる。
「……隆臣……! おれ……だ……!」
「え……?」
詩乃の震える目に射抜かれて、涙まで出そうだった。焼けただれた顔の左部分を手で隠す。
「……⁉ お、お前……!」
今、目覚めてから初めて、自分を知っている人間と再会できた、のかもしれない。
「綜士……なのか……?」
力なくうなずく。声はもう無理そうだ。困惑する隆臣が、振り返り詩乃の方をみた。
「隆臣……詩乃と……」話がしたい。
「矢本くん?」
喜美子と呼ばれた少女が、怪訝な表情で隆臣を見た。わずかな逡巡を経てから、隆臣が口を開いた。
「……泉地、ここは俺が引き受けるから」
「え……?」
間抜けな声が出ると、隆臣に腕をつかまれた。
「ちょっと来い」
隆臣に、引きずられる。詩乃が小走りにかけてきた。
「矢本くん……待って……」
彼女のものであろう、か細い声を背中で拾ったが、振り返ることもできずに隆臣に連れ去られる形になった。
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