第四章 声が届かない
(1)
「よし……」
病院1階のトイレで手塚が用意してくれた服に袖を通した。質感のいい肌着にシャツと綿のズボン。
「うあ……」
改めて腕の細さにギョッとした。眠っている間に相当痩せたようだ。
あの部屋で着がえたら衣笠さんに見咎められるからな……。
今の状態で外出許可が下りるとは到底思えず、リハビリのため病院内を散策してくる、という名目でここまでやってきたのである。昨日の今日で、彼女を怒らせるのは本意ではないが行かねばらならない。
詩乃……。
彼女に自分の覚醒と無事を伝えたい。既に退院したということなので自宅にいるはずである。
顔全体を覆うほどの大きなマスクを装着する。この顔のありさまではあまりにも目立ちすぎるからであるが、これはこれで目立つような気がした。トイレを出て、さっそく歩くが、
「ふう……」
二足歩行するだけで、息が乱れる。体力は徐々に戻りつつあるが、杖が無用な長物になるのはまだ先のようだ。なるべく目立たないように壁際に沿って歩いた。エントランスに向かうのである。
今日も病院は負傷者であふれて、外来診療を求める住民が行列をなしている。市はこの異常事態に対応すべく全国から医師免許所有者を招集して、臨時キャンプとして外にも診療スペースを設けているがそれでも人手が圧倒的に不足しているのは、素人の綜士ですらわかる混雑ぶりである。
医大生まで投入しているらしいが……。
日本はFCU側の立場ではあるが、まだ参戦は果たしていないので名目上は中立国である。そのためEIS側も日本国内のFCU軍基地への攻撃は控えているので、FCU軍の負傷兵を安全に運べ、かつ戦場に近い国として、これらを受け入れざるを得なくなっている立場にあると聞いた。
それゆえに基地周辺住民の医療サービスを圧迫する結果になるのは必定であった。ささくれだった市民の不満がここでも充満しているようで、病院職員のストレスも察するに余りある。
あまり、長居はできないな……。だけど……。
謎の会社に占有されている家には帰れない。手塚が調査してくれるらしいが、綜士は綜士でやることをやるつもりでいる。
エントランス近くまでやってくると、
「ちょっと、お兄さん」
「な、なんでしょうか……?」
中年の女性に呼び止められた。
「あなたどこの人?」
「はい……?」
質問の意味がわからない。聞いているのは所属組織か国籍か。
「入院してるんでしょ? 元柳の人なんじゃないの?」
ドキリとしたが、
「いえ、違いますけど……」今は、と心中で付け加える。
「そう……市は元柳の住民を優先して汐浦を二等扱いしてるなんて言われてるんだけど……」
吐き捨てるような声音だった。
「そんなことは……ないと思いますが……」
綜士にわかるようなことではない。頭を下げて、その場を後にした。
外に出ると、秋風が体を刺激した。この程度で身がすくむ今の体力が心底情けない。事前に地図で確認していたバス停まで向かう。自分の個人口座はまだ凍結中なので、持ち金はできるかぎり温存しておく。
バスに乗り込み、吊革を右手でつかみ左手で杖を床に固定したその時、
「あの……」
「はい?」
高校生くらいと思しき少女が、
「よろしければここ、どうぞ」
席を立ってそう言った。
「い、いえ……別に平気で」
「危ないですよ?」
「……すみません、ありがとうございます」
その好意に甘んじることにした。
情けない……。
消えてしまいたくなるような感傷に悶えながら、手を固く握りしめた。
月坂邸最寄りのバス停で降りると、逸る心で足を急がせた。元柳でも上澄みと言える高級住宅街、平日の午後ということもあり、人の気配はまばらだった。
「ああ……」
ようやく詩乃の家の前までやってきた。特に変わった様子はないが、
おじさんやおばさんはもう……。
あの二人がこと切れていたことは綜士自身が目撃している。そして祖父の月坂九朗も既に故人、彼女は今、一人、なのだろうか。
「……ぅ」
震える指先でインターフォンを押した。が、
「え……?」
反応がない。何度押しても同じ。電源そのものが落とされているようである。
どうなってるんだ……?
家を見渡す。暗く雨戸が閉め切られている。人がいる様子はない。
「詩乃……いないのか?」
改めて家を見ると、「……なんだ……?」異変を見出した。壁の一部に塗料、のようなものが付着している。塗ったというより塗りつけられたような汚れに見えた。さらに敷地内の庭にはペットボトルや空き缶などが無造作に放置されている。
「……」
嫌な予感がしてきた。ここでよくないなにかが起こった、そんな気がする。
時計を確認、この時間ならちょうど学校が終わるくらいだろう。
「行ってみるか……」
今、詩乃がいるだろう場所、自分も本来ならそこへ通っているはずだった学校、嶺公院へと行くことを決意した。
嶺公院高校、立地、学校設備、教授陣の質の高さで緑山区内の教育機関として卓越しており、偏差値においても日之崎最難関の高等学校である。それ故に一般入試の学力は、そのまま親の経済力の反映とも揶揄されている。
お大尽の子弟である詩乃はここへの入学を最初から宿命づけられていたようなもので、彼女の彼氏として懸命な努力を重ねてここへの切符を勝ち取ったのだが、
俺はもう……
入学の資格などとっくに失われているだろうし、もはや綜士にとってなんの意味も持たない。あの頃の同級生たちはもう高校生活も折り返しにかかる時期、時間の流れに一人取り残された無念と悔しさをかみ殺しながら、歩いた。
ようやく見えてきた。歴史を感じさせるクラシックな建造物、元柳の富裕層たちが多く通う学校。入学試験以来の来訪だった。
ブレザー姿の生徒たちが、喧しく談笑しながら帰宅の途についている。あまり不審がられないようにすれ違う、その人の群れの顔を順々に確かめていく。
詩乃……ここにいるはずだが……。部活でもやってるならまだだろうか……。
学校へと続く小さな商店街の通り、そこの街路樹の垣根に腰を落として、つま先で地面を叩いた。緊張と待ち遠しさで、貧乏ゆすりが起こった。
男子生徒の一団がふざけ合いながら駆けていく姿が目に入った。
「……」
ため息をついて薄暗くなってきた空を仰いだ。自分も過ごせたはずの時間。恋人、友人たちと楽しめただろう生活、なんら自分が責任を負わないところで失ってしまった青春。熱が充満しそうな目頭を押さえて、改めて通りを横切る生徒たちを観察したところ、甲高いスピーカー音を耳にした。
『節電のお知らせです。この辺りは、計画節電のため街灯の出力を最低限にしています。小学生、中学生、高校生の皆さんは5時までには家に帰りましょう』
というメッセージを耳にした。
節電……? 元柳でそんなことやったことあったか?
指を口元にあてて考えたが、推測の一つがすぐに浮かんだ。
戦争か……。
ほとんどのエネルギー資源を海外に依存している日本にとって、交易の遮断は死活問題である。中東をはじめ各国から輸入している石油等を運搬するための海路がつかえなくなっているのではと考えた。
その時、
「……⁉」
仲睦まじくおしゃべりしながら三人一組で歩いている少女たちが目に入った。そのうちの一人、その少女の顔を側面から全神経を集中して凝視した。
「あ……! う……!」
声が出なくなった。自分があの横顔を見間違えるはずがない。あの中学生活の半分を恋人として共に歩んだあの顔を。
「詩乃!」
叫ぶと同時に杖を置いたまま駆けだした。少女たちが一斉にこちらに振り向く。綜士はただ前に進み、そして正面に立った。
「あ……ああ……!」
間違いなく、月坂詩乃が眼前に立っている。あの頃よりも髪が伸びておりセミロングの髪を二つにまとめて垂らしていた。両隣には嶺公院の女子生徒二人、見知った顔ではない。怪訝な表情でこちらにじっと見ている。
「う、詩乃……あ……」
彼女が身構えるように片手を体の上部につけた。
「お、俺だ……!」
懸命に声を張り上げるが、彼女の瞳は当惑の色を隠さない。
「……?」
わけがわからない、といった表情のまま目の前にいきなり現れた男に脅えている気配すらあった。
「ちょっといきなりなんなのあんた?」
右隣の少女が前に踏み出てきた、ポニーテールで小柄ながら活発そうな少女だった。
「お、俺は……」
「軟派さん? 困るんだけどそういうの」
左隣のロングヘアの少女が口を開いた。いかにも育ちのよさそうなお嬢様然とした女子生徒、慇懃だが声音には敵意がこもっている。
詩乃に視線を戻す、相変わらず困惑の体で、綜士であると察知する気配もない。
「詩乃、こいつ知り合い?」
ポニーテールの少女が尋ねるも、詩乃は、
「あ……」
首を横に振った。
ど、どうしたんだ……? あ、そうだ……。
マスクを外すのをすっかり忘れていた。これで顔がわかるはずがないと、思いそれをはぎ取った瞬間、
「詩乃、俺だ……。……?」
少女三人が、絶句して硬直した。
「……な、なに……こいつ……」
ポニーテールの少女が驚愕したような顔になっていた。ロングヘアの少女もショックで言葉を失っている。そして、
「詩乃……?」
詩乃のその顔は、わずかに揺れている口を半開きにしながら引きつっていた。恐怖の表れ以外のなにものでもないその反応に、焦燥して弁明するように手振りとともに叫んだ。
「う、詩乃! 俺だ……! こ、こんな顔になってるけど綜士……! 桜庭綜士だ!」
赤黒く染められた顔の悲惨を認めねばならないのは拷問より辛いが自分と認識してもらうにはそう口にする他なかった。しかし、なけなしの体力を振り絞って声を張り上げるも、彼女の様子にはなんの認識上の変化もないどころか、後ずさりはじめた。血の気が引いた顔は蒼白色になり、口元はさらに震え、ただ目の前の「怪物」に戦慄しているようにしか見えない。
あまりのショックに綜士も言葉を続けられなくなった。詩乃はまだ目前の男が綜士、と認められないでいるのだろうか。
「……ち、近づかないで! ……あんた、またその手の連中なら許さないよ⁉」
ポニーテールの女子生徒が鞄を構えて詩乃をかばうように間に入った。なにか意味が分からないことを叫んだ。ただ綜士の顔の傷跡が醜怪に見えて脅えているのか、恐ろしい犯罪者でも見るかのように微かに震えていた。
「お、俺は……」
「だ、誰か!」
ロングヘアの少女が叫ぶ。辺りの通行人が一斉にこちらに着目しはじめた。綜士は放心したように棒立ちになった。何人かが寄ってくる。この状況では不審者が女の子たちに言いがかりをつけて絡んでいるようにしか見えないだろう。
「う、うた……」
改めて詩乃に視線を戻し、慈悲を乞うかのように目と目を合わせた。彼女の口がわずかに開く。そして、
「あなたは……誰……?」
発したそれは、微風のようなか細い声だった。
「え……?」
耳を疑った。名前を言い間違えてなどいない。
「な、なに言ってるの? 詩乃……?」
彼女なりの悪ふざけ、と思いたいが、一年半ぶりに生還した恋人にそんな仕打ちをするような娘ではないことは綜士が一番よくわかっている。
「おい、君!」
集まってきた男たちに肩をつかまれた。
「詩乃、行くよ!」
ポニーテールの少女が詩乃の手をつかんで駆けだす。ロングヘアの少女も綜士を警戒しながら二人に追随するように後に続いた。外形上は不審者から逃げる少女たち、にしか見えないだろう。しかし、もはや外形ではないのかもしれない。
去って行く詩乃の背を、かける言葉も見つからず、ただ見送る以外にはできなくなった。
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