(2)

「では、こちらに」

 一人の男性看護師から差し出されたのは、仰々しい感じの車いす。

「平気ですから……」

 歩けはするものの平気とは言い難いが、これに乗るのはどうも躊躇われる。つまらない意地と自覚はしているが。

「無理はなさらないでください」

「……わかりました」

 嘆息して、車いすに腰を落とした。下手に倒れてこの人を煩わせるわけにもいかず折れることにした。

「別棟の事務室までご案内しますので」

「はい」

 これからそこで、これまでのことを説明する、との話であった。ゆったりと動いていく、ように見えた床が天井の蛍光灯を反射した。

 病室を出て、廊下を車いすが進む。かなり医者、看護師、事務方と思しきスタッフがひっきりなしに動き回っており病院内は慌ただしい印象があった。

 まだ負傷者の治療に追われているんだろうか……。

 あれだけの爆発である、この病院にもかなりの数が運ばれたのではと推測した。

「……?」

 突き当りから、騒々しい気配が伝わってきた。向こうは吹き抜けになっているようだ。

「なんです?」

「ああ、今日もFCUからかなりの数の負傷者が搬送されまして……」

「はい?」

 聞きなれない英文字を耳にした。

「あ……あなたは……。すみません、説明は後ほど……」

 気まずい様子で男性看護師が会話を打ち切った。車いすに乗せられたまま突き当りの廊下を曲がったところ、

「⁉」

 異様な光景が目の前に展開していた。


 な、なんだ……これ……。


 思わず首を回して辺りを見回した。廊下一帯には所せましと、あらゆるところに移動型ベッドやストレッチャーが並べられており、横たわった人間たちが職員からなにがしかの処置を受けていた。

「これは……」

 ここは3階のようだが、吹き抜けの下はさらにひどく、この病院のキャパシティを超えているのは、中学生の綜士ですら理解できた。

「あ、あの……これって……」

 看護士に目線を向けた。

「……すみません、詳しい話は後で」

 眉間に寄ったシワが重苦しい心境を伝えてくる。


 一体なにが……。


 スロープを下りながら、ガラス張りの壁から外を見ると、敷地内のあちらこちらにテントが設置されている。映画で見たことのある野戦病院さながらの絵に見えた。

「……!」

 大声を耳にして思わず身をすくめる。声の方向に目を向けると、男性と思しき患者が苦悶の声を上げていた。さらに、

「う⁉」

 片足を欠損しているのが視認できた。看護師たちが一斉に男を落ち着かせるように押えて、なだめ始める。だが日本語ではない、英語であるように聞こえた。患者は外国人なのだろうか

 顔の筋に青いものが走る。異常な事態が起こっている。

 架橋された渡り廊下を進み、隣接している建物に向かう。

「寒くないですか?」

 男性看護師が不安げな表情で聞いてきた。

「ええ、大丈夫です。もう3月も超えたでしょうし……」

 昏睡してた、というのだからそれくらいは眠っていたのだろうと思いそう口にしていた。

「え?」

 車いすが停止した。

「……? あの……」

 どうしました、と言いかけたが声にならなかった。声帯が弱っているようで、言葉途切れてしまう。

「あ、ああ……そうですね」

 何事もなかったのかのように再び、歩みを再開した。今、自分はなにかおかしなことを言っただろうか。

「……」

 正面に顔を向け直す。ガラス戸の先からプリズムを帯びた陽光が差した。


 事務室、と思しき部屋の前までやってくると、数人の大人が話し合っているのが見えた。

「すみません、桜庭くんをお連れしました」

 男性看護師が呼びかけると一斉にこちらに注目が集まる。一瞬、固い緊張が背筋を突き抜けた。警備員に見えた人間は、警察官のようだ。一人の女性が、歩み寄ってきた。

「あ……」

「桜庭くん、お加減の方はよろしいですか?」

 先日、会話を交わした女性看護師、衣笠七瀬と名乗っていたことを想起した。

「ええ……あ!」

 大事な要件を彼女に頼んでいたのだ。

「あ、あの……! 詩乃……あ……」

 どもる。うまく声を出せない今の体調が口惜しくて仕方ない。綜士の顔を確認するや警察と思しき大人数人は絶句した。炎に侵食された顔の無残さに言葉もない、といった様子である。

「あ、ええ、あなたと一緒にいた月坂詩乃さん、ですね?」

「は、はい!」

 思わず、身を乗り出しそうになって男性看護師に肩をつかまれた。

「その方なら大丈夫です、あの後この病院に搬送されまして、治療を受けたのち別の病院に移りましたが、今はもう退院されています」

「あ……」

 全身から力が抜けていく。張り詰めた感覚が紐解かれて、意識が宙に浮遊した。

「うう……!」

 涙腺からとめどなく流れる安堵の涙、あの時、命を賭してつないだ命が保たれたこと、あの数分の死闘が報われたことにただ落涙するだけとなった。

「それよりも、あなたの方がはるかに重症で……」

 腫物にでも触れるように、衣笠という看護師が身をかがめて語りかけてきた。周りの大人たちも、綜士の状態に困惑しているようである。

「とりあえず部屋の方へ……」

 医者と思われる男性が部屋のドアを開けた。


 主だった病院職員から紹介を受けた。他に市役所の人間に警察もいる。あの事故、あるいは事件に遭遇した当事者である綜士から聞き取りたいことがあるのだろう。対面に主治医、という医師が座った。まだ30代ほどの若い医者であるように見受けられた。

「それでは、桜庭さん……」

「はい……」

 緊張を帯びた気配が部屋に充満する。対面に座った医師が咳払いを一つ終えると、切り出した。

「あなたは日宮祭において、ある爆発事故にあい、当院に搬送されました。そこまではいいですね?」

「ええ……」

 猛炎の記憶がフラッシュバックする。指先が妙に冷たい。

「なんだったんですあれは……?」

「今も調査中なんだ」

 背後から声がした。しんどさを堪えて、首を回す。恰幅のいいジャケット姿の男性、両隣に制服警官を従えているようで、おそらく所轄の警察署、そこの刑事課の人間だろう。

「それで我々としても、あの場から生還したきみから話を聞きたいと思ってきたんだが」

「すみません、それは後程」

 眉間にしわ寄せた医師が警官を制止する。どうもこの場に警察を立ち合わせることを快く思ってない気配がある。綜士から事情聴取するには時期尚早と判断しているのだろう。


 調査中……原因は……。


 綜士にわかるはずもなく、うなだれるように肩を落とした。

「桜庭さん……その、言いづらいのですが……」

「はい?」

「それがもう、19ヶ月以上前のことでして……」

「はい……え……?」

 この人はなにを言っているのだろう、といった顔になった。


 じゅう……きゅう……ヶ月……?


 一年が12ヶ月なのだから、一年半以上になる、と計算するのにわずかな時間を要した。

「あなたは、昨年の3月に事故にあって以来、ずっと眠っていたんです……。私はその時の担当医ではありませんが、全身の熱傷による体力の著しい低下と酸素欠乏により受けた脳の負担がかなりのものでして、病院としても相当の時間をかけて治療にあたってきました」

 医師の説明に聞き入るも今一つ理解が追いつかない。なにか冗談を言われて自分をからかっているのでは、と疑いかけたが医師は続けた。

「正直、一命すら危うい状態でありまして、容体が安定してもあなたは昏睡状態のまま意識を取り戻すことできないでいたのですが……。今日に至り、目を覚まされた、というのは大変な僥倖と存じます」

「ハァ……」

「それで……申し上げねばならないことが多々ありまして、まず……」

「はい……?」

 顔を上げると、医師の、

「……?」

 苦衷に満ちた表情がそこにあった。佇立している看護師たちも気詰まった様子で、視線をそらした。


「あのは多くの犠牲者を出しました。議員だった月坂九朗氏をはじめ、特に中央席一帯にいた人たちの被害は甚大な物でして……」

「え……?」

 聞き知った名前が医師の口から出た気がした。月坂九朗、あの事故の数日前に詩乃の家で会ったばかりのあの豪快な翁、


 あの人が……。


 死んだ、と言っているのだと理解するのにわずかな時間を要した。

「それで……」

 医師が口ごもる。冷や汗もかいているようだ。

「はい……」

 なにか綜士に言うことがあるのだろう。自分と密接に関わるような事、


 詩乃……?


 のことはもう聞いたことを回顧した。それ以外、となると、

「……⁉」

 もう一つしかあるまい。

「桜庭さん、あなたのご家族……。桜庭綜一郎さん、桜庭京佳さん、そして桜庭伊織くん……。全員が既に亡くなられています……」

 半開きになった口元のまま、定まらない視線が空を泳ぐ。今、なにを言われたのか、認識の整理が追いつかない。猛烈な勢いで口の中が乾いていき、肌の産毛が逆立つのを知覚できるほど感覚が張り詰める。


 ……死んだ……? 


 そういう趣旨で言われたのか問い返したいが、言葉を組成できない。なにか情報に齟齬があってほしいと救いを求めるように横合いに立つ看護師たちに目を向けるも、一様に沈痛の表情のまま全員が俯いていた。


 父さん、母さん、伊織……が……。


「あ、あの……桜庭……さん……?」

 綜士の異常を察知した医師が控えめに尋ねるも、返事ができないまま動悸が加速していく。

「あ……」

 車いすの手掛けに両手を乗せて思わず立ち上がりかけたが、

「あ……う……」

 力が入らないまま椅子に腰が落ちてしまった。慌てて、看護師たちが駆け寄った。痙攣しながら吐き気を堪える。家に帰りたくなった。

「今日はここまでにしましょう……! おい、彼を一旦外に」

 医師が指示を飛ばす。警察一行も近寄ってきたが、非難めいた顔つきの看護師たちに手振りで動きを制された。

「桜庭さん、外に行きますので……」

 衣笠が車いすを押す。開かれたドアの先は照明のない暗がりの廊下だった。


 荒く乱れた呼吸をようやく落ちつかせると見えてきたのは、一面の緑。病院の敷地内の芝生に車いすに乗せられたまま茫然自失のまま、置物と化していたことに気づいた。

 小鳥がさえずり、微風が鼻をくすぐる。病に弱った人々のケアをよく考えて造られた牧歌的な空間なのだろうが、今の綜士にはなんの意味も持たない。

「あの」

 声をした方向に首を回す気にもなれない。

「飲みものお持ちしましたので……」

 正面に立った衣笠が紙コップをそっと差し出すも、受け取ろうともせずうなだれた。衣笠が諦めたように、距離を取った。

 先ほどの医師との会話を脳内で反芻する。


 俺は、一年と半年も……。


 意識を喪失していた、という事実を事実として受け止めることができない。夢であってほしいと思えど、左腕の黒くひび割れた刻印が今が現実なのだと突きつける。魂が彷徨した末に行きついた先がこの場所なのだ。掌を天にかざすと、指の間から陽ざしがこぼれた。ここまでは火傷は及んでおらず、赤みを帯びた肌が生気を認識させる。


 伊織……。


 最後のあの日、綜士にとってはつい昨日とも言える日に弟の頭をつかんだ。


 もう……いないのか……。父さんたちも……。


 当たり前にいるはずの人間が、一瞬にして消え去り、現世を去ったという事実。自分一人が生き延びたという現実、生と死の境界が彼我を永遠に分かった。

「くっ!」

 力任せに立ち上がり、足を一歩踏み出して、裸足のまま走り出す。草、小石を踏み、駆け続けるもすぐに、

「ああっ!」

 バランスを崩して転がり倒れたことでいつかの経験を思い出した。知覚してはいけない悪寒が体の芯から湧き上がってくると、窒息するほど息がつまり、顔に青い筋を浮かび上がらせた。

「ぁ……ハァ……」

 まさに青色吐息、死にかけの虫の心境のまま地に顔をつける。


 だめ……だ……。


 こんな無茶をしては改めて死ぬだけだろう。せっかく拾った命をドブに捨ててどうするというのだ。そう言い聞かせて、体をなんとか仰向けにして空をぼんやりみつめた。

「ああ……」

 まぶしかった。自分一人の絶望など気にもかけずに地球は回っている。


 どうして……こんなことに……。


 腕を額に乗せたその時、

「……?」

 黒い影が前に立った、と思ったが影が空中に現出するわけがない。

「……」

 誰かがいる。

「え……?」

 長い髪を風にたなびかせて、自分を見下ろしているのだとわかった。逆光で顔がよく見えない。

 目を凝らす。そこにいたのは、


 詩乃……?


 ではなかった。

 亜麻色の髪、青みがかった瞳、白いブラウスに緋色のスカート、

「……あ」

 平衡化した感覚が視覚を正常に戻していく。目の前にいたのは一人の、少女だった。

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