第三章 世界激変
(1)
中学二年の五月、初週のある日のこと、元柳第一中学校、生徒食堂にて綜士は購買で買ったパンをテーブルに置いたまま一つの葛藤に悩まされていた。
「どったの綜士?」
目の前にいるのはストローを口にくわえたままの赤橋瑞樹と、
「なんだ、食欲ないのか?」
箸をコンビニ弁当の容器に落とした矢本隆臣、どちらも幼稚園の頃からの付き合いであり、昼時はクラスメイトや部活仲間よりもこの3人で過ごす時が多い。
黙然とテーブルの一点に視線を注ぐ。以前から思案していた一つの決意、眼前の二人にならば話せるかもしれない。大きく息を吸ってから吐いて、首を正面に据えた。
「瑞樹」
「な、なに?」
瑞樹が、コーヒーパックを手に持ったまま硬直した。いきなり深刻な声音で呼びかけて彼女を困惑させたようだ。
「そ、その……、今度、学年合同ウォーキングあるだろ」
「それがなんだよ?」
怪訝な表情の隆臣が口をはさんだ。ゴールデンウィーク中の中一日を使って学年全体で少し歩いたところにある大型の自然公園を散策するイベントが迫っている。
「それで、俺たちと……一緒に行ってくれる……」
「……? もっとはっきり言ってよ」
顔が熱くなってきて、変な汗が出てきた。
「ちょっと落ち着けって……」
隆臣もただならぬ綜士の様子に、冷や汗をかき始めた。
「み、瑞樹と同じクラスの……!」
テーブルに両手をついて瑞樹に顔を近づける。
「う、うん……!」
「つ、つ……」
「つ?」
ようやく意を決した。
「月坂さんを俺たちのグループに招待したんだけど……!」
沈黙する二人、なにを言い出すのかこいつは、といった表情である。
「……」
力が抜けたように椅子に腰を落とす。緊張の糸が切れると、額を流れた汗が妙に冷たく感じられた。
「それで……どう……かな……?」
同じタイミングで首を回して、顔を見合わせる瑞樹と隆臣、そして……
「ああ……」
と、隆臣。
「そう……」
続いて瑞樹。事情は察した、ということだろう。
「最近、なんか様子が変だったけど……そういうことか」
隆臣が呆れたように頭をかく。
「ああ……、うんうん、わかるよ、わかる。あんたも男でそういう年頃だもんね」
なにやら自己完結したように目をつぶりながら両腕を組んだ瑞樹がぼやいた。
「そ、それで……」
返答が効きたいのであってこんなリアクションは期待していない。瑞樹が息を吐いて、視線を向けてきた。
「別にいいけどさ……、あんた、とても見込みがあるとは思えないよ」
「そもそも、あちらさんはお前のこと知っているのか?」
哀れなものでもみるかのような、憐憫に満ちた二人の視線に早くも打ちのめされる。
「去年の体育祭で……ちょっと知り合って、何度か話したけど……」
「他には?」
「え……っと」
「そんだけみたいだな」
事実そんだけ、である。瑞樹だ大きく息を吸って、深呼吸をしてから目力を強めた視線を投げかけてきた。
「あの子の携帯の番号やアドレス知ってる? 遊んだことは? 一度でもご飯一緒に食べたことがある? 勉強の相談や世間話とか持ちかけたりしたことがあった?」
瑞樹の怒涛の連撃、完全に沈黙するしかなくなった。
「頭冷やして考えてみろ、その娘、瑞樹とだって今年一緒のクラスになった程度の関係なんだろ。そんなほそっこい縁で男、紹介なんてされたら……」
「まあ、引かれるよね」
魅かれる、と聞き間違いかけたがそんなわけがない。
手厳しい二人だが、怒ることはできない。総士自身散々考えてきたことである。
「だから……これを機に……」
「お近づきになりたい、と……」
こちらの思考を呼んでくれる瑞樹。
「俺たちだってお前の気を悪くさせたいわけじゃないが、むざむざ討ち死にするのを無責任に押してやれないだろ」
「恋は恋のまま終わらせた方が美しいって時もあるよ」
そうかもしれない。だがもうこんな懊悩を続けたまま学校生活を送るのは耐えられそうになかった。月坂詩乃、彼女の姿を見かけるたびに、頭がゆで上がるのである。
「それでも……頼む」
としか言えなかった。
「……まあ、聞くだけは聞いてあげるけど、あんま期待しないでよね」
「ああ……」
「やるだけやってみればいいさ」
「ああ……」
そこが最初のステップだったことを想起した。記憶の海の彼方に沈んだ、意識の欠片……。
闇の底にいた。ただひたすら暗く、冷たい、深淵の下のさらに深淵、そこで倒れ伏している。
手足を動かそうとしてもピクリともしない、脳の信号が断線している。曖昧模糊とした意識の中、今しがた見ていた夢、のようなものを考えた。
俺……は……。
自分が誰であるか、を懸命に探り当てようともがく。どこかの何者かであったはずの誰か、顔と名前、人格を持った一人の存在であった頃の自分、家族がいて友を持ち、それ以上に大切な人がいた。それは誰だったのだろうか。
身体は華奢で小さくも、瞳にはいつも強く明瞭な意思を宿していた一人の少女、どんな時でも自分の理解者でいてくれた。なんの見返りもなく愛してもらえた。その人の名前を、思い、出したい。彼女の名は……。
「……う」
暗夜とも思えた、空がきしんだ。強風が吹き荒れる。活動を停止していた神経がすさまじい勢いで覚醒を始めた。
「あ……」
凍りついていた手足に灯がともる、血が流れ込み、再起の準備を整える。用意は整った。今こそ、ここから出る、出なくてはならない、彼女に会いに行くために。
詩乃……!
空が割れた。光が降り注ぎ、自分を天へと吸い上げていく。そして……
「か……ハァ……!」
壁を越えて、命の歯車は再び回り始めた。
「う……」
荒い息をまき散らしながら、辺りを確認する。どこかの部屋、不鮮明な視覚が徐々に輪郭を整え始めていく。
「ここは……?」
ようやく首を回すことに成功した。視線の先に見えるのは、なにかに遮られたような光、窓にブラインドかけられている。なにやら機械音が規則的なペースでなっている。
手足の感覚を確かめる。まずは手をグーパーと動かす、反応は鈍いが血は通っているようだ。足も同様、立てるかもしれない。覚悟を決めて、手のひらをふせっている地面につけた。
「く……」
拘束しているなにかを引きちぎるように体を起こし始める。縄か何かでつながれているのかと思ったが別にそんなことはない。改めて周囲を確認する。今腰を落としている場所は、シンプルな白地のシーツのベッド、ブラインドがかかった窓、カーテンのような仕切り、おそらく病室だろう。
「ふん……?」
なにかが口元にへばりついている。躊躇なく外した。ドラマや映画で見たことのある酸素呼吸器、というやつだろう。
そうか……俺はあのまま倒れて……。
どこかの病院に搬送されたのだと思い至った。
どこだ……ここ……?
辺りに人の気配はない。ベッドから降りようとするも、
「う……」
重りでも付いているのかと思えるほどに足の感覚が鈍い。加えて本当に自分の体なのかと思えるほどに血の感覚が乏しかった。
どれほど自分は意識を喪失していたのだろうか。最後の記憶を探った。
そうだ、あの時俺は……。
消防隊員と思しき人間に救助を求めたところで、倒れたことを思い出した。
「……⁉」
俄然、電流のごとく頭に降りた関心事は一つ、
「詩乃……!」
彼女はどうなったのだろう。あの時、腕で抱きかかえていた時は、確かな呼吸を確認したはずである。
「く……!」
体を動かそうにも、歩行することすら難しい。全身の筋力が相当低下しているのだろう。
荒く息を吐き散らしながら、壁に手を付ける。部屋を改めて見回すと、洗面台と鏡が見えた。黙然とそこに向かって歩を進める。
どうなってんだ……俺の、体……。
気だるいどころではない。妙な浮遊感があり、脳と胴体以下の身体をつなぐ神経が混濁しているように感じるのだ。ようやく洗面台までたどり着いて、蛇口に手を伸ばしたが、
「く……」
手にもほとんど力が入らない。幼児のような握力になっている。必死の思いで蛇口を回し、流れ出た水に手を当てると感覚の希薄さに驚愕した。そこで、
「う……うん……?」
ぼやけていた視界がますます鮮明の度合いを回復してきた。手の先になにかが付着している。
「……」
取ろうと手を伸ばそうにも取れない。いや、付着しているというより、染みこんでいるのだと理解した。
「なんだ……あ……ああ⁉」
目を覚ましてから初めて大声が出た、右手の甲から腕にかけて、赤黒いなにかが体を侵食している。
「な、なに……⁉」
なにか、と思ったが、火傷の痕跡に相違あるまい。言葉を失いながらも、それを凝視する。そして、なにかが光った。前面の鏡が、点灯した非常灯を反射したのだ。顔上げて、ようやく鏡を見たところ、
「う、うわあああ!」
平常なら飛び跳ねていただろうが、今の状況では腰を抜かして、座り込んでしまった。立ち上がり鏡を改めて見た。左頬から首筋にかけて、手と同様、いやそれ以上に酷烈ともいうべき熱傷の後が痛々しく刻まれている。信じられずに鏡に手をつくも間違いなく、それが映しているのは自分の顔なのだ。
「あ……ああ……」
まるでホラー映画に出てきそうな怪人、あまりの衝撃に姿勢を維持できなくなりその場に座り込んでしまった。そこで、ドアが開かれる音を聞いた。座ったまま首だけを回してそちらを見る。
「……」
口を半開きにしたマネキンが立っている、と思いかけたがそんなはずはない。
「あ……あなた……!」
看護服を着た女性、この病院の看護師、だろうか。
「あ……」
声を出そうにも言葉が構築できない。
「た、大変です! 先生!」
女性が絶叫しながら部屋を出ていった。綜士は、今の状況が理解できずただうずくまるばかりであった。
「……さん!」
「え?」
「桜庭さん! しっかりしてください!」
茫然自失のまま座り込んでいたら、室内には電灯が灯っていることに気づいた。さらにいつのまにか医療スタッフと思しき人間たちに囲まれていた。顔を上げる。
「あ……」
言葉が出ない。
「どうしますか?」
「いったんベッドに……」
目の前の職員たちはまだ綜士の意識が不明瞭とみて、対応を話し合い始めた。
とそこで、腕をつかまれ、体と右腕の間に誰かの頭が入ってきた。体を持ち上げられる。ベッドまで自分を運ぶつもりだろう。
「あ……歩け……ます」
ようやくひねり出した発声は、テレビの最低ボリュームのような薄弱としたものだった。スタッフが顔を見合わせる。かなり驚いているようだ。
「無理はなさらなず、ゆっくり行きますので」
「……はい」
見栄を張っていられるような状況ではない。この軟体動物のような足取りでは転倒するかもわからない。素直に看護師と思しき男性に支えられながら、ベッドまで戻った。
「先生はまだ?」
「臨キャンの方ですよ、今日だけでまたかなりの数が……」
忙しくなにかを話すスタッフ、そこで
「……!」
聞かねばならないことを思い出した。
「う、詩乃!」
かすれた声とともに横たえた体を起こした。看護師たちが一斉にこちらを向いた。
「だ、ダメですよ! まだ横になってないと……」
「詩乃は⁉」
「え……はい?」
食い下がるように、看護師の白衣をつかんだが感覚が不確かだった。指先に十分な血が巡ってないのかもしれない。
「く……ここは……どこで……」
「あ、ああ、ここは日之崎市民病院ですよ」
市民病院、聞いたことがある気がした。元柳ではなく、汐浦にある公立の病院。
「桜庭さん、あなたは、その……事故にあって長らく昏睡状態にあったんです」
女性の看護師が、そっと自分の手を両手で包んで丁寧な口調で話し始めた。綜士を落ちつかせたい意図を感じ取れる。
こん……すい……。
長期間眠っていた、ということだろう。そうなると、気になることが一気に噴出してきた。詩乃、両親、伊織、隆臣、瑞樹、みなは一体どうなったのだろうか。
「今、主治医をやってくれてる先生が来ますので、詳しい経緯はその後で話しますので」
柔和な微笑で言ってくれる。その人の顔に首を回した。
「私、ここで看護師をやってる
まだかなり若い女性看護師に見えた。
「あ、あの……詩乃……」
「どうしました?」
「お、俺と一緒にいた……! 女……の子は……⁉」
「女の子……ですか?」
「は、はい……」
わずかに声を張り上げるだけで、全力スプリントしたかのごとく体力が削られていく。
「一緒にいた、はずで……」
「……調べておきます。桜庭さん、今はもう少し横になっててください」
両肩をそっと押されてベッドに身を横たえられた。今の状況で、これ以上の無茶はもうできないだろうことは、自分が一番よくわかっている。
詩乃……どうか……。
彼女の無事を祈りながら、意識は空漠としたまどろみに沈んでいった。
一息ついて、テーブルのコーヒーに手を伸ばした。この年になれば香りだけで、豆の質がわかるほどである。あまりよくはない。だが、今はこれでもかなりの高級品と言える。このご時世では。
ふと窓の外に首を回した。風に乗って、舞い散り始めた枯れ葉の群れが秋の訪れを告げる。
その時、コール音を耳にした。外線用のものである。ここに直通できる回線は数えるほどの人数にしか教えていない。
「……」
なにかの予感を感じて、受話器を手に取った。
「はい」
「――さん! 大変です!」
「は?」
「あ……ああ、日之崎市民病院の衣笠です」
「ああ、衣笠さんですか」
知っている。しかし、彼女が電話をここにかけたということは……、
「そ、それで、大変なんです! 彼が目を覚ましました!」
「彼……」
一瞬、思考が停止した。誰かと思案しかけたが、自分から頼んでおいていたことである。すぐに思い出した、その名は、
「あの桜庭……桜庭綜士くん……ですか?」
「そうです! 今、先生たちが診て……ああ、どうしましょう」
「落ち着いてください」
「え、ええ、すみません。その……これから彼にこれまでの事情やら経緯を説明しないといけなくて……」
「……そうですか」
その時が、来たのだ。
「あの……あなたは彼をだいぶ気にかけていたようなので……お電話を差し上げたわけですが……」
「はい……」
こちらも心中の動揺を抑えきれなくなってきたが、看破されないように呼吸を整えた。
「世話になった方の御子息でありますし、日之崎通商には借りもありますから。それで、私の部下を一人向かわせます。彼の力になれるように」
「はい、わかりました」
「私も、すぐそちらに向かいたいのですが……」
窓の外を見る。黒々とした雨雲が厚い層をなして空を覆っていた。
「飛行機が出るまでは数日かかると思います」
ただでさえ今は便が少ない。気楽に空を飛べる時代ではないのだ。
「わかりました、お待ちしております」
電話越しからなにかの掛け声が聞こえた。ここからでもあちらの喧騒が伝わってくるかのようである。あの街中の病院が今、戦争をやっている。
「すみません、それでは」
「はい、よろしくお願いします」
そこで通話は途切れた。
デスクに両手をついて、黙然とそれを見つめる。高級な木材がつややかな光沢を放ち、自分の顔をおぼろげに投影した。
そうか……彼が……。
ここでの仕事の切り上げの段取りを頭の中でシミュレートした。いきなり、たかが子供一人に会いに行くために、とは従業員たちには説明できない。しかし、自分は行かねばならない、日之崎へ。
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