第二章 火焔惨劇

(1)


 部屋着を脱ぎ捨てると、開封したばかりのシャツに袖を通した。中学生としてはやや高めのブランド店のもので、体のラインにしなやかに合わさってくれる。普段の私服など量販店の安物ばかりだが、詩乃と出かける時だけはある程度の気配りはしなければ、彼女に恥をかかせてしまう、と勝手に思っている。

 パソコンで天気を確認、若干曇りがかってはいるが、降水確率は0%、傘の用意はいらないだろう。ジャケットを手に取ると、部屋のドアを開いた。時刻は、13時を回ろうとしていた。階段を降りて、リビングまで行くと母が伊織の着付けを行っていた。


「んー!」

「ほら、暴れないの」

 首をひねって礼服を着るのを嫌がる伊織、窮屈に感じるのだろう。

「ふむ、それって俺が昔……」

 着せられたことのあるものと見た。

「そう、一回しか使わなかったから、レンタルにすりゃよかったわ」

 自分もやたら嫌がった記憶がある。

「たかがお祭りに、そんなの着てくの? 汚れると思うけど」

「会所での挨拶があんのよ、終わったら着がえさせるし」

 マスコットとして着飾らされる弟が哀れに思えた。しかし、この分なら自分の出る幕はなさそうである。


 テーブルでは父がなにかの書類に目を通していた、こんな時も仕事のことばかり頭にあるのだろう。呆れたように息を吐くと、こちらに顔を上げた。

「綜士、俺たちは開会式に出るが、お前はどうする?」

 父の桜庭綜一郎、祖父が起こした日之崎通商の2代目代表取締役社長である。日之崎商工会議所の会員として、この機に顔を広げるつもりでいるのだろう。

「一応行くよ、詩乃は出ないとまずいだろうし。その後はみんなと遊ぶだけだのつもりだけど、いいかい?」

「まあ、好きにすればいいが……。その、月坂さんとこの娘さんには粗相のないようにな」


 またか……。


 耳にタコができるほど聞かされてきた言葉である。最初、息子に彼女ができたと知っても微塵も興味を示さなかったが、その彼女というのが月坂家の人間と知るや仰天した父である。

「ああ、そういや詩乃のおじいさんの議員先生ともこの間会ったよ」

「ほんとか……?」

 父が目を細めて驚く。

「なんだか豪快な人だったよ、今日会うんでしょ?」

「そうだが……失礼なこと言わなかっただろうな?」

「言うわけないだろ」

 しかし、

「なんか、今、大変みたいなこと……」

 深刻な話を詩乃の父親としていたことが一瞬、頭をよぎった。

「なんだ?」

「いや、別に。そんじゃ、俺もう先行くから」

 戸棚からハンカチ、ティッシュを取り出した。


「ほんじゃ、お勤めは任せるぜ、ブラザー」

 伊織の頭をポンポンと叩いて横切ったところ、

「うん……?」

 手をつかまれた。伊織が、じっとこちらを見ている。

「なんだよ?」

 自分と一緒に行きたいのだろうか、

「おい……どうし……」

 と言いかけたところで、メッセージの受信を携帯が伝えてきた。詩乃からのもので、今、家を出たということだった。

「もう行かないと、放してくれよ」

 伊織が、手を離すと同時に俯いた。グズっている、という様子ではない。

「……なんかお土産買ってくからさ」

 返事はない。

「……それじゃ」

 後ろ髪引かれる気がしたが、詩乃を待たせるわけにもいかない。背中に視線を感じつつも、家を出ることにした。


 どうしたんだ、伊織のやつ?


 少し歩いてから、家を振り返った。特についてくる気配はない。


 ま、こんど遊んでやるか……。


 つま先を地面につけて靴を整えた。


 いつも待ち合わせする公園に向かう。祭りは、中央広場で開会式が行われ、そこから商店街に至る道には屋台が並ぶ。そこを4人で適当に遊び歩くつもりでいる。

表通りまで来ると、これから向かう人の波があちらこちらから寄せてきた。見慣れない制服を着たティーンエイジャーも散見され、低地に位置する南港区汐浦町からも多数の来客が来るらしいことが見て取れた。


 この寒いなか盛況なこったな。


 二月の寒気も忘れるほどの人だかりであった。

 その時、大きな汽笛を耳が捉えた。坂の下の先に見える湾港、そこに停泊している在港船が汽笛を一斉吹鳴したものだろう。


 ずいぶん派手なことをやるんだな、これもやっぱり詩乃のおじいさんが……。


 と、考えながら歩いていたところ、

「あ……!」

 曲がり角でなにかをぶつかった。

「っと、すみません、だいじょう……」

 一瞬、言葉が詰まった。人とぶつかったと推量したのだが、

「……だいじょうぶ?」

 それが、金髪の少女と理解するのにわずかな時間を要した。少女が、顔をそらす、見るからに不機嫌そうな表情だった。

「あ、あの……」

 相当怒らせるような衝突だっただろうか、そもそもあの状況では過失は五分五分だろう、などと考えていると、

「すみません、大丈夫ですか?」

 前方から男の声を耳にした。顔を上げると、今度は別の意味で驚いた。

「え……、あ、いえ、こちらはなんとも……」

 目の前にやってきたのは明らかに碧眼の白人男性、なのだが、まったくネイティブと変わらない流暢な日本語を話したので驚きから一瞬、レスポンスが遅れることになった。


 海外の人……?


 少女に視線を戻す。彼女の金髪は染めたような安っぽさのない、地毛であると理解した。

「ダメじゃないか」

 父親と思しき男性が少女の腕を取るが、すぐに振り払われた。どうも、綜士に対して怒っているのではなく親子でなにか悶着があったのだろう。

「この話はまた今度にしよう。今日はせっかくのお祭りなんだし……」

 男性が少女をなだめる。

「……」

 わずかに関心を惹起された。さりげなく目を向けて少女の顔を見て、しまったその刹那、少女の青い瞳が、自分の顔を映した。

 少女が、顔勢いよく顔をそらして力強く地面を踏むと、そのまま行ってしまった。どうやら今度こそ自分が、怒らせてしまったようだ。

「リサ!」

 男性が呼び止めるが、止まる気配はない。男性が大きく息を吐いてから、こちらに振り向いた。

「すみません」

「い、いえ、こちらこそ……」

 今しがたの確執は自分にも責任の一端があるように思えて恐縮するしかなかった。男性が申し訳なさそうに頭を下げると、少女の後を追って歩いていく。肩幅が広く、上着越しからでも、普段から鍛えてあることが見て取れる背中であった。おそらく軍人だろう。


 基地の人か……?


 海岸沿いにある米軍の軍港基地からお祭りを見に来たのでは、と思い当たった。


 それにしても……。


 金髪碧眼の少女の顔を想起した。背丈からするにまだ小学生だろうか。


 まずったな……。


 国際都市である日之崎では、様々な人種の人間が暮らしているので、白人も別にめずらしくもなんともないのだが、鮮やかな黄金の髪に一瞬見とれていたことを自覚する。観察するような好奇の目で視られれば不愉快なのは綜士の年なら理解できることである。軽く自分の頭を小突いて、詩乃を待たせている公園へ足を動かした。


「うわ……」

 目的の公園もかなりの人だかりができていた。地元ローカルテレビ局の中継車も近くの沿道につけている。詩乃を探そうと目を凝らす。

「綜士」

「っと、詩乃?」

 後ろから彼女の声を拾った。振り向くと、一瞬硬直した。艶やかな洋装に身を包んだ詩乃に目を奪われた。

「お、お待たせ」

「今来たばかりだよ、お昼ご飯は食べた?」

「うん、少しつまんだだけだけど、どうせ屋台で色々食べるつもりて……」

 会話の継続が難しい。日頃は目立つのを嫌う彼女だが、今のきらびやかな装いには気にしていないのだろうか。

「あ……その服」

「ああ、これ? 変かな?」

「い、いや、きれい……だけど、大丈夫? 汚れとか」

「うん、開会式で着るだけだから、お父さんたちが着がえ用意してくれてるから、終わったらすぐ着がえるね」

「それならいいけど……」

 ちょっと高級なシャツを着た程度の自分がみすぼらしく思えてきた。


「あっ、瑞樹ちゃんたち来たよ」

 顔を向けた先から、瑞樹と隆臣がやってくるのが見えた。

「お待たせー」

「おっす」

 いつもと同じ普段着、瑞樹が詩乃を見るや口元を指で押さえた。

「すごいね詩乃……。私も、ちゃんとしたほうがよかったかな?」

「大丈夫、私もほんとはちょっと嫌だったけど、その……」

「おじいさんが、偉い人たちとの寄り合いに出るからでしょ」

「うん……」

 月坂家の人間としてインフォーマルな普段着では少々まずい、という事情である。

「ああ、そりゃそうか」

 隆臣が頭をかいた。

「式だけで、会所でのパーティーの方は出なくていいって言ってもらえたから、そんなに時間は取らせないと思うけど……」

「大丈夫、終わるまで3人で近くをぶらついてるよ。そろそろ行こう」

 皆を先導しようとしたところ、

「う……ん……?」

 とっさに額を押えた。頭痛、のような感覚が頭を走った。

「あ……」

「綜士?」

 隆臣が怪訝な表情を向ける。

「え……?」

 一瞬、我に返ったが、再びなにか電流のようなものが思考の底を這いずり回っている。


 ここから先には、行っては、ならない


 そう教えてくれる、ような気がした。

「ちょっと、大丈夫?」

 瑞樹が前に出て顔を覗き込んできた。

「へ、平気だよ。ちょっと立ちくらんだみたいで……」

「ほんとに? 少し休んだ方が……」

 正面に立った詩乃が不安げにこちらを見上げてくる。

「ダメだよ、もう始まっちゃう」

「私、別に出なくても……」

「そういうわけにはいかないって」

 別に大したことではない、と思いたかった。

「さあ、行こ」

「うん……」

 詩乃の手を取って一歩踏み出す。いつのまにか空を覆っていた雲が黒ずみ始めていた。

 

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