(3)

「お待たせー」

 詩乃がトレーにドリンク入りのガラスカップを乗せて戻ってきた。この家はやたら広いこともあり、2階にもバーのような炊事設備がある。要人の接待にでも使っているのだろう。

「レモンティーでよかった?」

「う、うん、ありがと」

 一つ拝借してストローで吸い上げる。酸味と甘味が緊張していた体を弛緩させ陶然とした心地になってきた。そこで、


「改めてなんだけど、合格おめでとう」

 穏やかな笑みと共に詩乃の祝辞を送ってくれた。

「ああ、ありがとう……」

「ふふ、さっきからありがとうばかりだね」

「そうだね」

 それだけ天にも感謝したい気分であった。

「ちょっと気が早いけど、高校はどうする? なにかクラブは……やっぱり美術部?」

「どうしようかな……」

 絵を描くのは幼少の頃からの趣味だが、別に画家になりたいわけでもない。中学での活動も遊びの域を出るようなものではなかった。

「まあ、入ってから考えるよ、他におもしろそうなクラブもあるかもしれないし。詩乃はブラスバンド続けるんだよね?」

「うん、できれば……。ただ、嶺公院の吹奏楽部って人気みたいで、選抜とか厳しいからどうなるかわからないけど……」

「ああ、まあ大丈夫だよ。詩乃なら……」

 月坂の家の人間を門前払いにするわけがない、と頭で思っても口に出していいことではない。家の事情で贔屓されるのを詩乃が一番嫌うのは綜士もよく知っている。

 そこにノックの音がした。


「はい」

 詩乃が立ち上がる。

「詩乃、ちょっといい?」

 詩乃の母だった。

「なーに?」

「綜士くんも聞いてほしいんだけど……」

「なんでしょうか?」

 普段おっとりした御母堂だが、今はかなり真剣味のある表情になっている。

「その、今、下でとても大事な話をしているから……」

 降りて来るな、ということだろう。

「トイレは2階のを使って」

「わかりました」

 大人の、まして政治家の密談を盗み聞きするつもりなど毛頭なければ。興味のあるような事でもない。


「それはいいけど、お母さん、綜士はお昼ご飯がまだで……」

「わかったわ、なにか持ってくるから」

「あ……いえ、別にお構いなく」

 実際、空腹はほとんど感じていないし、夕方には豊緑亭で色々食べるつもりでいる。詩乃が振り返った。

「ダメだよ、ただでさえ疲労してるんだから。惣菜パンとかでいいよね」

「ああ、それなら備え置きのがあるから、持ってくるわ」

 そう言われてはもう断る方が無粋だろう。

「すみません、いただきます」

 そう言うと姫乃氏は部屋を後にした。

「……なにか相当込み入った話みたいだね」

「うん……。なんだろうね」

 しばし沈黙に包まれた。

「まあ、いいや。のんびりしよ」

「そうだね」

 しょせん大人の世界の話である。すぐに意識の枠外へと出ていった。


 姫乃が持ってきてくれたパンを頬張りながら、おしゃべりにふける二人。だらしないことだったが今日くらいは無礼講と思ってくつろいでいたその時、詩乃の机の横にあるものが見えた。

「詩乃そのキャンバス……」

「あ……ああ、これね……」

 頬を赤らめ不覚を取ったという表情になる詩乃を見て、ピンときた。

「ま、まだ取っておいたの?」

「うん……捨てるのももったいないし……」

「もったいなくないよ、捨てちゃって……お願い……」

 綜士としてはそう願わずにはいられない。

「いやーだ」

 意地悪く微笑みながら詩乃が取り出したのは、キャンバスとそこに張られた絵。

「ちょ、ちょっと……」

「なんでそんなにいやがるのぉ?」

 綜士が描いた詩乃の肖像画だった。

「下手だし……」

「そんなことないよ」


 まいったな……。


 若気の至りから、付き合ってからすぐに頼み込んで描いたものだが、今となってはなんだか弱みを握られた気分になってきた。第三者に見られたりでもしたら、笑われるかもしれない。

「と、ともかく、どっかしまっちゃって」

「はいはい」

 願わくば人目に触れずにいつのまにか処分という形にしてほしい綜士であった。


 日も西に傾き始めた。午後4時30分、携帯がメッセージをキャッチ、瑞樹から豊緑亭での夕食の準備が整ったとのことだった。

「よし、そろそろ行こうか」

「うん」

 と立ち上がったところで、

「もう降りても平気かな?」

「さすがにもう終わってると思うけど……」

 二人で部屋を出たところ、階下にはもう人の気配がない。

「大丈夫みたい」

 鞄を手にして二人で降りていく。赤茶けた夕日が天窓から差し込んで、なにか物寂しい雰囲気であった。

 玄関口を開いたところで、ちょうど月坂夫妻が戻ってきた。

「ああ、お父さん」

「こんにちは、おじさん」

「やあ、綜士くん」

 月坂 優斗ゆうと 、詩乃の父親と久々に顔を合わせた。詩乃との仲は一応承認してもらっている。婿養子で月坂家の人間になったと聞き及んでいた。

「あのさっきお母さんには言ったけど、今日は、夕食は瑞樹ちゃんのところで食べるから」

「ああ、彼のお祝いだろう。ゆっくり楽しんでおいで、終わるころに迎えを出すから」

 丁寧に頭を下げた。治安のいい場所だが、子煩悩な彼は娘の安全には普段から念入りに気をつかっている。

「それじゃ行ってくるね」

「行ってきます。お邪魔しました」

 と月坂家を後にした。


 夕虫の調べが奏でられた高台の住宅街を二人手をつなぎながら歩く。遠目に見える港の先の海が橙色の絵具でも浸しかのような色に染まっていた。

「……綜士」

「なに?」

 握られた手に力が加わった。

「私……なにか……」

「……?」

 少し、詩乃の様子がおかしい。

「どうしたの?」

「なにか……怖くて……」

「え?」

 いきなりなにを言い出すのかと右肩下にある彼女の顔に首を回した。

「……ううん、ごめん、なんでもない」

「うん……」

 気になったが、これ以上追及するのもなにかかわいそうな気がしたので、綜士も踏み込むのは控えることにした。

 色々問題が終わって、ナーバスになってんだろう。

 そう思うことにした。


 豊緑亭までやってきた。元柳商店街の一角にある洋食店、瑞樹の両親による個人経営店で、創設にあたっては綜士の家の日之崎通商も出資しており、現在も食材の調達等様々なビジネス上のつながりがある。

「いらっしゃーい」

 ドアを開くと、さっそく瑞樹が出迎えてくれた。

「お邪魔します」

「うーす、これどうぞー」

 来る途中に買って来た菓子類を渡した。

「あんがと、さあ二人ともこっちに」

 奥のテーブルに案内される。隆臣も既に来ていた。すぐに、ドリンクが用意され、乾杯の運びとなった。瑞樹が音頭を取ることとなった。

「それじゃあ、4人全員の嶺公院合格を祝しまして、乾杯!」

「かんぱーい!」

 ジュースのグラスをぶつけあう音とともに宴となった。

「いや、二人ともよくがんばったよ。推薦で通った身としては……。大したもんだ、うん」

 と、隆臣。詩乃に配慮したのか語尾が少し弱弱しくなった。

「うん、私も……。一般受験ならきっと無理だったと思う」

「そんなことないって」

 そんなことで二人にはコンプレックスを持ってほしくはない。


「ところで卒業式までどうしようか? まだ結構時間あるし、どっか遠出して遊びにでもいかない?}

 提案したところ、瑞樹がスプーンを置いた。

「それもいいけど、まず四日後に日宮祭 ひのみやさいがあるわよ。うちは挨拶回りもあるし出るつもりだけど、あんたもご両親が出席するでしょ」

「ああ、行くと思う。詩乃のおじいさんも帰ってきてるしね」

「え? それってあの……」

 瑞樹がハッとした表情になった。

「へえ、月坂大臣……元大臣か。その人が?」

 隆臣が詩乃に首を回した。

「うん、さっき家にいて、今日は中央区の別邸に泊ると思うけど」

「さっき初めて会ったよ、豪放磊落っていうのかな、器量の大きそうな人だった」

 昔気質の親分肌という噂は新聞でも目にしたことがあった。それだけ多くの議員を統率するカリスマのようなものを備えているのだろう。

「家じゃ普通の人だよ」

 頬を紅潮させながら俯く詩乃。有名人ということもあり、祖父のことはあまり綜士たちには知られたくないかもしれない。


「ふむ、俺は感謝しないとな。彼が、この辺りの区画整理を見直すよう求めたから、元柳にいられるわけだし……」

 苦笑しつつ軽くうつむく隆臣。彼はあまり家が裕福ではなく、ここでは数少ない公営団地住まいである。10年ほど前に地価の高騰を受けて、区画整理と建物の老朽化を建前に取り壊して土地を民間に売り出されようとされたところを、住民たちの請願を受けて、月坂議員が市と交渉したらしい。

「……まあ、とりあえずお祭りには3人とも行くよね?」

 瑞樹が会話を切り替えるように、話を振ってきた。

「そうだね、お互い親の顔は立てないとな」

 と話をまとめた。


 宴もたけなわ、夜20時を切ったところでお開きとなった。

「それじゃあ、またね」

「うん、瑞樹ちゃんもゆっくり休んで」

 店を出たところで、車が一台待機していた。詩乃の父が寄こしたものだろう。詩乃が近づき運転手と会話を交わした。

「二人とも送っていくよ、乗っちゃって」

 と詩乃が申し出たところ、

「いや、俺はいいよ。ちょっと歩きたい気分だから……」

 と隆臣が辞去した。

「遠慮することなんてないよ」

「いいって、そんじゃあ、二人ともまたお祭りでな」

 そう言うと手を上げ別れの意を伝えて、行ってしまった。


 隆臣……?


 綜士に気を遣った、というだけではないだろう。

「矢本くん、どうしたんだろ?」

「……まあ、いいんじゃない」

 隆臣とはもう10年来の知った仲だがたまにこういうことがあった。家の貧しさからくる感情的なものの発露、と薄々勘づいてはいたが絶対に口に出せないことである。

 詩乃と車に乗り込むと、ドアを閉じた。

 商店街を抜けると、すぐに夜の静寂に包まれた住宅街に入った。一方で、ここの高地から見える下層の下町、南港区の汐浦町はこの時間でも光が消えることはない。夜に動く産業も少なくはない地域なのだ。

 自宅前まで送ってもらうと運転手に礼を述べて車から出た。

「あ……すみません、ちょっとお待ちください」

 詩乃も来るようだ。


「詩乃、もういいよ、ありがとう。早く家に帰って休んだ方が……」

「ごめん、もうちょっとだけ……」

 手を握られた。こちらもやさしく指を絡めた。恍惚としかけたところ、

「おにい」

「おわあ!」

 思わずのけぞった。伊織がすぐ足元まで接近していたのだ。

「な、なにやってんだお前、こんな時間に……!」

「こんばんは、伊織くん」

 いつの間にか手を離していた詩乃がなにごともなかったかのようなポーカーフェイスで、しゃがみながら伊織にニッコリと挨拶。切り替えの速さに唖然とした。

「こんばんは、うたのさん」

 体を不器用に曲げて返礼する伊織、二人は詩乃が家に遊びに来るたびに何度も顔を合わせている。

 そこで母がすぐそばのガレージから出てきた。どうやらあちらも今帰ってきたようだ。


「綜士帰ってたの? あら……詩乃ちゃん、お久しぶり」

「はい、ご無沙汰いたしております。こんばんは」

「はい、こんばんは。うちのそれを送ってくれたのね、ごめんなさい」

 それ、呼ばわりである。

「いえ、いいんです。総士くんの合格おめでとうございます」

「ありがとう、おじいさまも今、日之崎にいらっしゃるんですって?」

「ええ」

「日宮祭でご挨拶にうかがわせてもらうわ。よろしく」

「はい、祖父も喜びます」

 詩乃は礼儀作法に抜かりがない。そういう娘だから母も彼女を気に入っている。

「も、もういいから……二人はさっさと」

 家に入れと、目配せで伝えた。

「はいはい、それじゃあまたね詩乃ちゃん」

「はい、京佳さん」

 母が伊織を抱きかかえて家に入る。伊織もバイバイと詩乃に向けて手を振った。

「ふふ、伊織くん大きくなったね」

「ああ、服とかすぐ使えなくなっちゃうんだ。ちょっと前まで、よちよち歩きの赤ん坊だったくせに。すごいよな、人間って」

 と、話したところで重低音が上方から近づいてきた。巨大な黒い影が、横切っていく。


 また……。


 昼間見たのと同型の機体が飛翔していく。


 あんなの二つも飛ばして……なにかあるのか……?


 少し気になってきた。

「綜士」

「あ……なに?」

 いつの間にか詩乃が、距離を詰めていた。さらに顔を近づけてくる。

「……?」

「……好きだから……」

「……うん」

 意図は察した。そのまま静かに、口づけを、交わした。羽虫の音さえ聞こえない、夜のしじま、ここには二人しかいない。

 静かに体を離した。

「それじゃあ、また明日うちに来て」

「うん……」

「お休みなさい……」

「お休み」

 詩乃が身を翻して敷地から出ていく。その背が見えなくなるまで視線は逸らせなかった。



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