(2)

 なんだ……?


 顔を天に向けると、巨大な軍用機、垂直離着陸機というやつがかなりの速さで飛び去って行った。

「基地のやつかな?」

「え……この辺りじゃあんなのあまり見ないけど」

 日之崎市は自衛隊と米軍基地を抱えており、沿岸には巨大な軍港を構えている。そのため、軍の機体など見慣れたものだが、今飛んでいったものにはどこか、

「……」

 厳めしいプレッシャーのようなものを感じた。


「綜士、こっち」

 詩乃が歩み寄ってきた。

「終わったの?」

「ああ、隆臣は……どうしようか?」

 まだ解放される気配はない。

「後で連絡するから先に行っててって」

「そうだな、この後詩乃の家に行っていい?」

「もちろん、瑞樹ちゃんも来る?」

「ええっと、私は家でお店の準備しておくから……」

 頬を指でかきながら言葉を濁す瑞樹、夕までくらいは詩乃と二人で過ごす時間を作ってやれということだろう。


「後でメッセ送るよ。5時にうちの店に来て」

「わかった、悪いな」

「お土産用意しておくね」

 去り際に隆臣にも目線で挨拶を送る。少々のバツが悪そうに向こうも会釈を返してくれた。

「相変わらずえらい人気だなあいつ」


「そうだね、私もさっき隆臣くんのことクラスで色々聞かれたよ。卒業前に、その……」

「ああ……」

 別れの前に思いのたけを打ち明けたい子がいるのだろう。

「胸に抱えたままじゃ一生苦しむだろうしね……」

「え?」

「い、いや……」

 慌てて歩みに力を増した。

 

 詩乃を最初に見た、というか意識し始めたのは1年時の体育祭の時だった。ありきたりな100m徒競走、文化系で特に勝ちにこだわるタイプでもなかったので、先頭争いを後ろから追いかける程度に走るつもりだった。だが、途中のカーブでトップを走っていた一人が派手に転倒、連鎖的に後続組も巻き込まれ、綜士もトラックを転がる羽目になった。

 不運を呪いながら、大会委員会に支えられて、保健室送りとなった。そして、そこに彼女はいた。

 一人の小柄な少女、保健委員かなにかなのだろうか。あくせくと不慣れな手つきで救急箱を運んできた。椅子に座ったまま皮膚がむけた膝をげんなりした表情で見ていた。総士の前に、膝をついた。消毒液をガーゼにしみこませて、そっと傷口に当ててくれた。


「痛くないですか?」

 話したことのない相手とはいえ、同級生に敬語を使うなんてものめずらしかった。

「痛……痛く……ないです」 

 一瞬、消毒液の刺激で飛び跳ねそうになったが、同い年の女の子の前でそんな醜態はみせられない。脂汗をかきながら、処置が終わるまで耐えることにした。右手で額の汗を拭ったところ、改めて少女の顔を見た。

 この子……。


 どのクラスなのかわからないが、どこかで見たことがあったような気がした。小さな顔に、さらさらした髪、どこか儚げな印象をもつ少女。たどたどしい手つきで、テーピングを行っていく。

「はい、終わりました」

 少女がハサミでテーピングを切った。

「あ、ありがとう……」

「あ、すごい汗……。ちょっと待ってね」

「え?」

 ポケットからハンカチを取り出すと、

「さあ」

 顔を拭いてくれた。自分の私物だろう。それを使って、知りもしない男の顔を。しばらく、硬直したようにぼんやりされるがままとなっていた。


「……はい、これで……どうかしました?」

「え……? い、いや……!」

 次がつかえていることに気づいて慌てて立ち上がると、逃げるように保健室を後にした。

 グラウンドは、騎馬戦が始まっていたようですさまじい歓声に包まれている、が、綜士の耳にはなにも聞こえてこない。茫然と今自分がなにを見たのか整理しようとしたが、思考がまったくまとまらない。


 あ……そういえば……。


 礼を言うのを忘れていたことに気づいた。あの少女に。

 体育祭が終わってからというのも、明けても暮れても彼女の顔ばかりが頭に浮んで、思考の大部分を占有されるようにすらなっていった。自分を思い悩ませる謎、というわけでもないが知らない同級生。

 月坂詩乃、という名を覚えるのはあっという間だった。

 悶々と処理できない気分の揺らぎを抱えながら、月日は経った。隆臣や瑞樹もなにごとかと心配してくれたが、自分ですら理解できないこのざわめきをどう説明しろというのか。


 そんなある日、文化祭実行委員の瑞樹が、器具の搬入、設営に男手がいるとのことなので隆臣ともども駆り出されることとなった。

 そこで作業に没頭していたところ、誰かが近寄ってきた。

「……?」

「あ、あの……」

 どこか控えめで、おどおどした声音、

「はい?」

 作業を中断して、眼前まで来たその人物と対面したその時、

「……⁉」

「あの時の……人ですよね?」

 紛れもなく、月坂詩乃に相違なかった。


「あ……ああ……」

 思考が言葉を構築してくれない。自分をここまで惑わすこの子は一体なんなのかとわからず、地蔵の如く棒立ちとなった。

「えっと覚えてます? 体育祭の時……」

「え……? ええ、こけたのはじぶんです」

 あまりに間抜けな言い様に、少女が思わず噴き出した。

「ご、ごめんなさい……!」

 笑い涙をたたえながら、朗らかに微笑んでくれた。

「それで、怪我はもう大丈夫?」

「けが……ああ、けがはもう……なんとも……」

 思わず膝に目をやったが、傷跡すら残らなかったことに気づいた。


「そう、よかった。ちょっと気になってたから、それであなたを見かけて……えっと……」

「あ……お、俺……自分は……桜庭……桜庭綜士……です。D組の」

「はい、A組の月坂詩乃です」

 小さいながらも、芯の強さを感じる声音で言ってくれた。そこで自分も言わねばならないことがあることを思い出した。

「あの、体育祭の時、ありがとう……」

「ううん、災難だったね」

「へ?」

「ほら、前の人たちに巻き込まれて」

「あ、アハハ……」

 あのみっともないクラッシュを目撃されていたことに赤面する。


「普段走り慣れてないから……美術部だし……」

「そうなんだ……文化祭はなにかやるの?」

 まだ会話を継続する気らしい。こっちとしてはそろそろ打ち切らないとおかしなことになりそうなのに。

「簡単な展示を……よかったら見に来てヨ」

 余計なことを付け加えたと思った。


「うん、ああ、私はブラスバンド部なの、コンサートやるからよかったら……ふふ、聴きに来てね」

「う、うん……」

 そこで、

「おーい、綜士、ちょっと手え貸してー」

 瑞樹の声が響いた。

「あ、私もう行くね、それじゃあまたね、桜庭くん」

「え……ああ、それじゃ……月坂さん……」

 そう言うと月坂詩乃は身を翻して行ってしまった。

 また……。

 また、彼女と話すことができるのだろうか。そうならばそれは、自分にとって、とてもうれしいこと、であるように感じた。


 冬の商店街、平日ということもあり人影はまばらだが、直近に迫っている祭りの準備があちこちで進んでいた。ここでもはしゃいでる第一中学の生徒が散見される。それを横目に見ながらぼんやりとした感覚で詩乃と歩く。

「どうしたの?」

「え?」

 我に帰ると、右隣の詩乃に顔を向けた。

「なにか心ここにあらずって顔してるから……」

「ああ……詩乃と初めて会った時のこと思い出してた」

 ごく自然にそう口にしていた。

「あ……ああ、最初に話したのは体育祭の時だったよね。一年の」

「うん」

「あの時……アハハ、綜士が派手に転んで」

「い、いいからそういうの……俺は巻き込まれただけなんだし……」

 触れなきゃよかったと思い直した。


 でも……。


 あの時、転んでくれたトップランナーには感謝の念を禁じ得ない。あのアクシデントがなければ詩乃とはすれ違うことすらなかったかもしれないのだ。

「なんだか挙動不審で変な子だなーって思ったんだよね私」

「はっきり言う……」

 ためいきをつきながら、我ながら不器用だったと回顧する。初恋、だったのだろう。


 詩乃の家が見えてきた。レンガ造りの垣根に、モダンな意匠を凝らしたいかにもな高級建築。警備員用の守衛所みたいなもの見えるがそこは現在使用されていない。

「お昼もう食べた?」

「まだ……あ、しまったな。商店街でなにか買っておきゃよかった」

 実際は、家で少しだけ食べたのだが、合格に浮かれ切っててそのことは完全に失念している。


 そういや朝も食べてないな。


 緊張で物が口に入る状況ではなかったのだ。

「それじゃあ、うちで食べよ。なにか注文してもいいし」

「ごめん、ありがとう」

 そのまま正門に向かうと、

「うん……?」

 黒塗りの車が敷地内に駐車してあった。この界隈には疎い綜士でもかなりの高級車であるように思えた。

「あ……」

 詩乃が手を口元にあてる。察しがついたといった様子であった。


「詩乃、これって……」

「うん、たぶん……」

 詩乃が玄関ドアを開いた。総士も後に続く。

「ただいまー」

 靴を脱いで揃える詩乃、綜士も同じようにする。

「お母さん……あ……」

「え?」

 すぐ先の廊下で誰かがいた。ゆったりとした身振りでこちらに体を向けたその人は、

「お……」

「おじいちゃん!」

 スーツ姿の老齢の男性、眼光は鋭くどこか威風をまとった風貌の男がそこにいた。

「よお、詩乃、ずいぶん早いんだな。ずるふけか?」 


 この人……。


 綜士も知っている。よくテレビで目にする顔なのだ。直接見るのは初めてであるが、

「違うよ、今日は……その、か、彼氏の合格発表だったから……」

 と横にずれて綜士が彼の視線に入るようにした。男性が目を丸くする。

「あ……お、お邪魔します。桜庭綜士……と申します」

 恐る恐るといった体で、直角90度の姿勢で最敬礼をした。

「おう……らっしゃい!」

 八百屋のおっちゃんのような挨拶をされた。そこに誰かが奥からやってきた。

「おかえり詩乃、綜士くんもいらっしゃい」

 月坂 姫乃 ひめの、詩乃の母であった。

「ご無沙汰してます」

「ええ、受験うまくいったのよね、おめでとう」

「ありがとうございます」

 姫乃が男性の方を向いた。


「こちらの綜士くんは、桜庭さんの御子息で」

「ほう、日之崎通商の?」

 彼がローカルな規模でしかない家の会社を知っていることに驚いた。

「は、はい……お見知りおきを」

 などと言ってしまった。

「ええっと、あなたたちはとりあえず二階に……」

「うん、行こ」

「あ、はい、失礼します」

 と礼をしたところ、詩乃に背中を押されながら、階段を上がっていく。早く会話を打ち切りたい、とうことだろう。しかし背後から、

「詩乃も色気づきおってからに!」

 と呵々大笑する豪快な声が響いてきた。背中の圧が一層勢いを増した。


「もう……」

 詩乃が膨れる。

「詩乃のおじいさん、政治家の月坂九朗さん……だよね?」

 月坂 九朗 くろう、政府与党、立志党の国会議員であり、防衛大臣や外務大臣を歴任してきた党の重鎮である。今は無任所であるが、現政権にも強い影響力を持っている政界のフィクサーとしてたびたびメディアの注目集めている人物であった。

「うん、普段は東京で、ここに帰ってくるのは正月くらいなものなんだけど……」

「遊説かなにかかな?」

「選挙の時期じゃないし、たぶん日宮(ひのみや)祭(さい)のあいさつ回りじゃないかな」

 近々開催されるお祭りである。地元への顔出しと要望の吸い上げに来たのだろうか。

「ふーん、大変だね。議員先生は」

 すでに何度も足を踏み入れている詩乃の部屋に入った。

 鞄を置くと、

「はぁ……」

 全身から力が抜けて座り込んでしまった。

「大丈夫?」

「ああ……。さすがにくたびれたよ。主に精神面でさ」

「これからはのんびりしよ」 


「そうだね、入学までにやりたいことたくさんあるし、詩乃どこか……」

 行きたいところある? と口にしかけたがそこまでは声にならなかった。

「うん?」

 詩乃が鞄を片づけながらカーテンを閉じた。

「あ……ごめん、着がえるよね。俺、出てるから」

「うん……いてくれてもいいけど」

「へ?」

 間抜けな声が出た。

「冗談、ちょっといつもと同じそこのテラスで待ってて」

「う、うん……」

 ぎこちない足取りで廊下に出た。背中で服が彼女の肌を擦る音を捉えていた。廊下のくぼみにある屋内テラスの椅子に腰かけながら、天窓をぼんやり見つめた。


 詩乃があんなこというなんて……。


 あまり冗談の類を言う娘ではない。なにか試されたような気がした。


 ……俺たちだって、もうすぐ高校生で、もう少し今の関係を前進させても……。


 いいような気がしてきた。児戯めいた恋人中学生から次のステップ、それはなんなのかと思案する。

 なんだろうな、別に求めたいわけじゃないけど……。

 

「ほんとなんですか……⁉」

 突如、聴覚をダイナミックに刺激された。ギョッとして椅子から身を起こす。今の妄想を口にしたわけではない。下の階からなにか、切迫したような声が聞こえてきた。声音から察するに詩乃の父だろう。

「ああ、今回ばかりは危ういと、もうNSCでも見解が一致してる。アメリカは……」


 な、なんだろ……。


 少し気になったところ、ドアが開かれた。

「お待たせ、どうぞ」

「……うん」

 少しざわついたものがまとわりついたがすぐに頭から消除した。これから詩乃と睦み合えると思えば、下の緊迫した空気もどうでもよくなった。

「そこ座っちゃってて、今、飲みもの持ってくるね」

「ありがとう」

 クッションに腰を落とす。

「う……」

 彼女が立ち上がる瞬間、胸元に目がいってしまったが、詩乃は察知しなかったようだ。

「ふう……」

 仰向けになって天井を凝視する。


 どうしたんだ俺は……。試験が終わって……。


 受験の重圧から解放されて欲望が噴出するのを抑えきれなくなっているのでは、と推量したが馬鹿々々しさだけが胸に去来した。


 詩乃との関係は焦ったりなんかしてない……。


 そう思い直した。


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