第一章 詩乃 20X3年

(1)


 運命が決まる瞬間が訪れた。

「よし……」

 昼の12時ジャスト、パソコンを起動させると、ネットブラウザを立ち上げる。ブックマークしたサイトに即飛ぶと、更新がなされていたことを確かめた。

 今年度合格者番号

 息をのむ、震える指でマウスポインタをあてて、なんとかクリック、一斉に並んだ数字の羅列が目に入ってきた。


 10732……。10732……。


 全身で冷や汗をかきながら、探しているのは自分の受験番号に他ならない。無心、明鏡止水の境地で必死に数字を追う。


 10662……。10689……。107……。


「あ……」

 そこには、

「う……ああ!」

 確かに10732番が記されていた。見間違いではないかとページを拡大して、何度も照らし合わせるが相違はない。

「や、やった……」

 脱力して、椅子の背あてに全体重を預けた。顔をくしゃくしゃに揉むと汗だくになっていたことに気づいた。


 20X3年、2月中旬、桜庭 さくらば綜士 そうしは私立嶺公院高校への合格を果たした。偏差値、大学進学実績共に、ここ日之崎市でも最難関であり全国的にも知られた名門校である。去年までの自分の実力に見合うようなところではなかったが、総士にはどうしてもここに入らなければならない事情があった。

「詩乃に……!」

 虚脱していた意識を奮い起こして、充電中のスマートフォンを手に取った。まだフワフワと夢心地で安定しない意識のまま、コールする。相手は、

「はい……!」

 一瞬で出てくれた。待っていてくれたのだろう。

「う、詩乃……俺……だけど……」

「う、うん……」

 電話の向こうでも向こうが緊張している様子が見て取れるようだった。

「うーーーかったっー!」

 大声で大喝してみせた。


「ほんと!」

「ああ!」

 誰が見ているというわけでもないのに、飛び跳ねて、喜びを全身で表す。

「よ、よかった……よかったねぇ」

 どこか涙ぐむような声で彼女も祝福してくれた。

「ハァ……どうにかなったよ……」

 正直、自信があったとは言えない。だが、

「うん……この1年ほんとにがんばったよ、すごい……これで同じ高校だね」

 そのために死に物狂いで取り組んでこられたのだ。既に、恋人の詩乃は推薦でここへの合格を決めている。しかし、もし総士が落ちたなら同じすべり止めの公立に行くと言ってくれた。そんな彼女の足を引っ張るような真似は絶対したくなかった。


「うん、この後学校で会お。えっと、隆臣たちと瑞樹も今日来るかな?」

 ドアが開かれた音がして視線を移す。4才の弟、桜庭 伊織 いおりが目を丸くしてこちらを凝視していた。綜士が奇声を発したので驚いてやってきたのだろう。来い来い、と手振りで伊織を引き寄せる。

「来ると思う。今日は学区の高校のほとんどで合格発表やるから」

「それじゃすぐ行くよ」


 伊織を強引に抱き寄せて頭を左手で撫でまわす。本人は困惑の体だがお構いなしに猫の頭のようにくしゃくしゃにした。

「お母さんたちにも知らせるね。よかったら今日はうちでお祝いしようか」

「ああ、ありがとう。それじゃ学校で」

「うん」

 同じタイミングで切った。

「よーし」

 伊織を解放するとクローゼットを開けて制服を出す。学校に結果を報告しに行くのだ。


「おにい」

「おやおや、お前も祝ってくれるかブラザー」

 着がえながら弟と戯れる。

「いいことでもあったの?」

「ああ、すっごくすっごくいいことでっせ」

 靴下を通して、合格番号がしるされたページをプリントアウトした。

「これで時間取れるようになったよ。今度遊園地にでも行くか」

「まじで?」

「どこでそんな言葉覚えた?」

 顔がにやけてくる。

 意気揚々とドアを開いて階段を下った。リビングへ向かうと、


「あんたなに変な声上げてんのよ」

 母親の桜庭 杏佳 きょうか、椅子に腰かけながら新聞を切り抜いている。仕事で使うのだろうか。

「はいこれ」

 印刷したページをテーブルに置いた。

「なにこれ? ……ああ」

 要領は呑み込んだようだ。

「ふーん、よかったじゃない」

 なんでもないことのようにあっさり流されたが、わずかに母も口元がほつれているのを見逃さなかった。


「学校に知らせに行ってくる。今日は詩乃のところに行くから夕食はいらないから」

「そう、でもあまり図々しい真似しないでよ」

「しないよ」

 テーブルにあったサンドイッチを頬張りながら冷蔵庫から冷やしておいたカフェオレを取り出した。

「二人でお祝いのどんちゃん騒ぎでもするんでしょ。月坂さんとこは、今お祭りの準備で忙しいんだから、邪魔になるようならうちでやりなさい」

 詩乃の家はこのあたりでも古くからの名士で通っており、今でも地域の催しを取り仕切ることがある。

「小学生じゃないんだから」

 咀嚼物をカフェオレで胃に流し込むと、時計に目をやった。12時17分。そろそろ行くか、と思ったところでテレビが臨時ニュースを流した。


『……にわかに緊張が高まっている南シナ海で中国が大規模な軍事演習を突発的に行いました。これを受けてアメリカ国務省は、火に油を注ぐ行為だと激しく非難し……』

 などといった、綜士にとってはどうでもいい国際ニュースだった。

 玄関まで向かうと、伊織がテクテクと歩いてくる。

「ほんじゃ、行ってきやす兄貴」

 しゅたっと手を挙げて、弟に出立を伝える。向こうも手振りのようなものを返してきた。

 玄関を開けると、2月の寒風に全身を包まれたが、その冷気も今はどこか心地よい。


 おそらく……。


 ポストに手を伸ばす。

「あった……」

 合格通知書が既に投函されていた。入学書類等は追って郵送すると記載されている。丁寧に鞄にしまうと道路へと踏み出した。

ここ日之崎 ひのさき市緑山区 元柳もとやなぎ 町は高台にあり、アッパークラスの邸宅がところどころに立ち並んだ高級住宅街となっている。綜士の家もさほどの富豪というわけではないが、祖父の代からこの地で始めた商社がそこそこの規模となり、桜庭家もここの一角に住居を構えるられようになったのである。


 軽快な足取りで詩乃との待ち合わせの公園前まで向かった。空は晴れ渡っており、綜士の心には虹がかかっていた。軽く。ステップを踏むような足で割った地面の霜が冬の匂いをかもしだした。

 目的地近くで彼女の姿を認めると。足早に近づいた。彼女もこちらに気づいたようだ。


「あ……」

 第一声をどうすべきか思案していたところ、

「おめでとう……」

 透き通るような声とどこか儚げな微笑で、そう言ってくれた。

「ありがとう……」

 二人の間には、余計な言葉などいらないのだと再認識した。

 月坂つきさか詩乃うたの、綜士と同じ日之崎第一中学の3年生、小柄な体型とショートヘアの少女。綜士とは2年の夏から付き合い始めた。


「これだよ」

 合格通知書をそっと手渡す。詩乃が一読すると安堵したように大きく息を吐いた。いつくしむようにその紙を両手で包む。相変わらず大仰な仕草だなと思えど、これから先の道が一致をみたことに綜士も感激の吐息を抑えきれなくなった。

「行こうか」

「うん」

 手を強く握り合いながら学校に向かう。


「ご両親にはもう言った?」

 会話の種が見つかったように詩乃が聞いてきた。

「ああ、今日は母さんが家にいたから」

 母は父の会社に勤務しており、家を空けることが多い。伊織も大抵職場近くの託児所に連れていく。綜士に関しては、中学以降はほぼ放任主義で通している。

「そう……お家のほうでなにかやる?」

「いやなんにも、親父らは俺の進路なんかで喜んだりなんかしないよ」

 仕事戦士、ワーカーホリックの二人である。どこを受験するのか、すら聞かれなかったが、模試を始め諸々の費用は全面的に協力してくれた。そのことについては素直に感謝してる。そういった事情は詩乃も熟知してくれている。


「きっと喜んでくれてるよ、それじゃやっぱり私の方でお祝いするね」

「うん、ありがとう」

 やることにそつのない詩乃のことである。もうなにか手配しているのだろう。

「後は瑞樹か……」

「ああ、さっき連絡があったよ、合格したって」

 思わず噴き出した。

「ほ、ほんと……?」

「うん、メッセージであっさり、後で話すって」

「そ、そっか……」

 といったところで校舎が見えてきた。日之崎第一中学校、3年間過ごしたこの学び舎とももうじきお別れと思うと寂寥としたものを感じる。


「はぁ……卒業か、なんだかあっという間だったな」

「そうだね、特に3年になってからは」

「……今更だけど、詩乃はどうしてここに?」

 月坂家は国会に政治家を何人も送り込んでいるほどの家である。その子女が一般の公立中学に入るのは、一般的な感覚とはずれている気がした。

「私が入りたかったから……かな。ちっちゃい頃から海外を転々としてて、日本の……その普通の学校っていうのに憧れがあったから」


 詩乃の両親は仕事の事情で欧米を渡り歩いていた、と聞いている。詩乃が中学生になるのと同時に地元である日之崎に腰を据えたようだった。

「お母さんは、隣の区の聖アンナ教学舍に入ってほしかったみたいだけど、やっぱりここを選んでよかった。綜士とも会えて……」

「あ、ああ……」

 頬の火照りが寒気と衝突して顔のあたりがチリチリしてきた。

「俺も……ここで、ぐっ!」

 後頭部になにかが衝突してきた。

「ちーす、お二人さん」

「あ……瑞樹ちゃん」

 後頭部を押えながら振り返った先にいたのは、

「あんたも合格だってー? おめでとさーん」

 赤橋瑞樹、幼稚園の頃からの付き合いで、短髪で快活な少女である。


「あ、ああ、おはよう瑞樹……。それと、おめでとう」

「てんきゅー」

 余裕といった印象を受けるが、

「ふーん、調子戻ってきたみたいね」

「な、なにさ……」

「いや、一昨日ボウリング行ったときは……ふぐっ」

 顔をわしづかみにされた。試験終了後、合格発表までの息抜きと一緒に遊んだが、お互い動揺を悟られまいと、見え透いた虚勢で、凡ミスを連発した。

「瑞樹ちゃん、改めてなんだけど……おめでとう」

 丁寧に頭を下げて、慶祝の言葉を送る詩乃。気のおけない仲でも、礼節を忘れないのは育ちの良さの表れだろう。

「ありがとう、詩乃」


 返礼した瑞樹の頬には赤いものが混じっているように見え、瞳も心なしか水気を帯びているように感じた。やはり彼女も不安とプレッシャーに潰されないよう格闘してきたのだろう。


「これで高校も4人一緒だね」

 嬉しそうに語る詩乃。瑞樹とは知り合い程度の関係だったが綜士と付き合うようになってからは二人も個人的な親友と呼べるほどの関係となっていった。

「そういや隆臣も来るかな?」

「さっき連絡したよ。バスケ部の一般受験組の報告聞くから、今日は学校行くって」

「よし、さっさと伝えてやるか」

 三人で歩き出す。校門近くまで来ると、すさまじい喧騒を目の当たりにした。

胴上げされている男子、泣きじゃくりながら抱き合う女子と、同級生たちがそれぞれに喜びを爆発させている。


「ハァ……すごいね今日は」

 詩乃が辺りを見回して感嘆する。

「辛かったからな……。受験もだけど待っている間って言うのは特に……」

「そうね……」

 二人にとっては痛いほど情動的な共感を覚える場面だった。一方で、

「……」

 沈痛な面持ちで職員室に歩を進める生徒を視認した。力及ばなかったのだろう。これから教員たちと相談して、二次募集を探すのかもしれない。光が強ければ、彼らの影もより暗さを増しているように見えた。

 嘉日に余計なこと考えたと首を振ると、


「あ、矢本くん」

 一人の男子が軽く手を上げて近づいてくる。

「おう綜士」

「やあ……」

 矢本隆臣、瑞樹と同じく綜士の幼馴染で、長身の男子生徒。バスケットボールに秀でており、既にスポーツ推薦で嶺公院への進学を決めている。

「えっと……聞いていいか……?」

 遠慮がちに尋ねてくる隆臣に、ニヒッっと相貌を崩して、指でVの字を突き出した。


「そ、そうか……! やったなおい!」

「ああ、なんとかなったよ。そら!」

 お互い拳を突き合わせてグータッチ。

「ああ……瑞樹も受かって、これで4人全員通過だな」

「そゆこと」

 クールに流す瑞樹、隆臣の前ではいつもこれである。

「出獄した気分だよ。今日はみんなでパーッとやらないか?」

「ああ、夕ごろにどこかで飯にするか」

「それなんだけど、さっき瑞樹ちゃんと話して、豊緑亭でやらないかって」

 詩乃が控えめに提案する。歩きながら二人でそんなことを話していたのだろうが、夢見心地なせいで気づかなったことに気づいた。


「ふむ、いいのか瑞樹?」

「まあ、うちなんかでよければ」

 瑞樹の家が経営する洋食店で桜庭家の会社とも取引がある。

「とりあえず、二人は報告に行って来いよ。俺は、ちょっとバスケ部の連中と会ってくるから」

「私も、一度教室に行くね」

「うん」

 喧しい校門前を抜けて職員室隣の進路指導室に向かった。


 瑞樹と共に報告を終える。難関校への合格ということで担任も大いに喜んでくれた。

「後は自由登校だが、遊びすぎんようにな。特に桜庭は節度を守るように」

「わかってますよ」

 詩乃との関係はとっくに見抜かれている。月坂家の令嬢におかしな風聞が立てば、彼が側杖をくらうのは必定であり、この一年神経をとがらせることも多かっただろう。

「清い交際を心がけてますので」

 後ろから瑞樹が煽る。向こうへ行けと念じて手振りで追いやった。

「それじゃあ先生、また卒業式でお会いしましょう」

「ああ、高校でもしっかりな」

 それだけ言うと浮ついた足取りで進路指導室を後にした。


 校舎を出ると大きく息を吐いて手足を伸ばした。見慣れた学校のグラウンド、風が木々を震わせ、葉を宙に舞わせた。

「ここももう時期見納めだな」

「そうね……」

 どこか寂寞とした心地で辺りを一望する。

「ちょっと寂しいな」

「うん、でもまた同じメンツで同じ高校行くんだしあんまりね」

 瑞樹が苦笑する。

「同じクラブの人たちは?」

「ああ、嶺公院は女子ソフト部が盛んじゃないみたいで受けたのは私だけ……」

「ふん……」

 瑞樹は中学に入ってからソフトボールをやっていた。努力家でレギュラーをつかみ副部長なども務めていたのである。


「瑞樹、ひょっとして……」

「なに……?」

 苦労して嶺公院を受けた理由は、と聞こうしたがやめにした。

「いや、もう行こう」

「うん」

 校門近くまで戻ると、詩乃たちも既に戻っていた。そこで華やかな一団が黄色い歓声を上げていた。

「おやおや……」

 隆臣が、後輩の女子生徒に囲まれてお祝いの嵐に見舞われていた。

「おめでとうございます!」

「たまにはここも見に来てください!」

 女子バスケ部の部員だろうか。隆臣が端正な優男とといった顔立ちと高い身体能力で、女子からモテるのは、綜士もよく知るところである。本人は微笑を浮かべながらも困惑の体だが、ますます人だかりが膨れていく。近づくに近づけず、瑞樹と顔を合わせた。

「あいつ、クラブの仲間に言ってなかったのか?」

「そういうとこずぼらなんだから」

 瑞樹が腰に手を当てて嘆息する。

「まあ、そういうの興味なさそうだしね。ストイックすぎると言うか」

「うん……それにまだ……」

「え?」


 とその時、轟音が空に木霊した。


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