聖域のファミリア
夏野南
Ⅰ
序章 20X4年
(1)
声が聞こえる。深く沈んだ、光さえ差さない闇の底、そこで誰かが叫んでいる。自分の、名前を……。
「……の……」
「……え?」
俯いていた顔を上げた。目に入ったのは、
「
見知った顔、同級生、同じ合奏クラブの
「ごめん……私、寝ちゃって……」
部活中に不覚を働いたようだが、他の部員たちに特に咎めるような顔はない。事情を汲んでいるからにほからならないが、こうなる度に情けなさで消えてしまいたくなる。
「そんなのいいの。もう部活終わったよ」
「うん……ごめん……」
「ここはサークルみたいなもんなんだから」
呪わしい思いで、机の上の譜面を片づけ始めた。右も左もわからなかった自分だったが、日常的なことはようやく一人でできるようになってきた。それも、この学校のみんなが好意から力を貸してくれたからに他ならない。どれだけ感謝してもしきれないと思っている。
それでもやはり人並みにやっていくことの難しさを克服するのは容易ではない。これもすべてあの事件が……。
「やっぱり……怖い?」
「え?」
喜美子が心配そうな視線を寄せてきた。
「ほら、あの男……」
一瞬、表情が凍りついた。
「……平気だよ」
普段から弱弱しい声音しか出せないのが、輪をかけて虫の調べのようなか細いそれとなった。ここ最近、自分を恐怖させ、仲間たちを怒らせるもの。
「脅しに来たのか悪ふざけなのか知らないけど心配いらないよ。先生たちにもちゃんと伝えてあるから」
「ごめん……私のことで」
「いいの、今日もみんなで送ってくから、矢本くんたちも昇降口で待ってるって」
「ありがとう……」
荷物をまとめると鞄を手に持った。
二階の廊下に出ると、窓から差し込んだ西日が辺りを橙に染めていた。
「……」
「今度、汐浦でハロウィンコンサートやるんだって」
「うん」
南港区汐浦町、この市では、開発から取り残された貧しい地域、と聞いていた。
「詩乃も……うん? なんだろあれ」
喜美子が手を額にかざして前を見る。数名の生徒が集まっていた。
「なにかな……?」
近づいてみると、
「またあの野郎か!」
怒鳴るような声に、思わず身が縮んだ。窓の外から下、校門付近を威圧するようににらみつけている。
「警察呼んだ方がいいんじゃないか?」
あ……。
その言葉で察してしまった。今、問題になっているのは、あの男だろう。
「ちょっと!」
喜美子がヒステリックに叫ぶと男子たちが一斉に振り向いた。
「……⁉」
詩乃がいたことに気づいて全員が凍結した。しばしの硬直を経ると、一人の男子生徒が詩乃の前に立った。
「あ……矢本くん……」
「月坂、ちょっと待っててくれ」
「あ、あの……」
こちらの言葉も待たずに、身を翻した。
「矢本! 公式戦前だぞ、暴力沙汰は……」
大きな背丈の男子、バスケ部キャプテンの天都啓吾が隆臣の肩に手を置いた、がすぐに振り払われた。
「あれは俺が対応します」
敢然とした口調となにかの意志を帯びた声音でそう言うと、強い足取りで下に降りていく。何人かの男子が後を追った。
「隆臣!」
一人の女生徒が、彼の背中に呼びかけるが止まる気配はなかった。
「ああ……」
女生徒が両手で額を覆った。
「瑞樹! またあいつなんでしょ⁉ 詩乃に付きまとってるあの変なやつ!」
「……詩乃……」
「瑞樹ちゃん……」
瑞樹が困惑したように目元を泳がせる。
「ごめん詩乃、私もちょっと行ってくるから」
と言うと瑞樹も階段に向かったが、
「待って……!」
「あ、ああ」
震える足をなんとか動かし、瑞樹の手を取った。
「あの人なの……?」
「……うん」
気まずそうに視線を落とす瑞樹、処理できないなにかを押し殺したような瞳、
どうして……?
「私も行ってくる!」
喜美子が飛び跳ねて、男衆の後に続いた。
「瑞樹ちゃん、あの人ひょっとして……」
聞くのが怖い、でも聞かねばならない、自分の、
「私を知ってるの……?」
過去に関わっているのかもしれないのだから。
「……そんな、そんなこと、気にすることないよ……」
瑞樹が背を向ける。触れてほしくないのだろう。詩乃もそれ以上は踏み込めなかった。
あの人は一体……。
わからない。ただ、なぜわからないのかはわかっている。
私には……。
一年半より前の記憶がないのだから。
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