そんな海の日After
見上げれば群青。太陽はほとんどの光を失って、地平線の彼方に消えようとしていました。
どうしても遊ぶような気分になれず、暑さにうなだれながらパラソルの下でうとうとしていたわたしは、砂を踏みしめて近づいてくる二匹の足跡に気付いて、耳をそばだてます。
「大漁♪大漁♪」
それは、ニシシ、と満足げに笑いながら釣竿を担いでいるねこままさんと、へとへとになりながらも最後の根性でクーラーボックスを抱えているといった感じの、例の若者の姿でした。
「うーん、全身塩まみれだわ!」
岩場の釣りでよほど海風に吹かれたのでしょうか、ねこままさんは歩きながらしきりにぺろぺろと自分の毛皮を舐めています。
困ったことに、ねこままさんの薄い舌が胸元や脇の下をなぞるたびに、若者のあぶなっかしい足取が、ますますあぶなっかしくなるのでした。
まるで見ていられません。横目でチラチラ視線を送っているの、ばれてないとでも思っているのでしょうか。
しまいには、あなたにも毛繕いしてあげようか、と若者をからかいだすねこままさんなのでした。
真っ赤になって早歩きになった猫の若者は、そのままねこままさんを追い越して、わたしの居るパラソルの元にやってきます。
よほど余裕がないのか、こちらに目だけで会釈をすると、地面にどっかりとクーラーボックスを置いて、おおきく肩で息をしはじめます。
クーラーボックスからはぴちゃぴちゃと生きたおさかなの音がして、どうやら、先程の大漁の掛け声は大袈裟ではなかったようです。
それよりも驚いたのは、若者がわたしを一瞥すると、口元に指を当てるジェスチャーをしたことでした。まるで、余計なことは言ってくれるなよ、と、懇願するように。
そしてまた、近づいてきたねこままさんに涼しい顔を装いながら、何やらわたしの知らない打ち合わせをすると、よろよろとどこかに歩き去ってしまいます。
「じゃ、私は休んでるから、いってらっしゃいね♪」
ねこままさんは、若者へにこやかに雑な見送りをすると、わたしの隣に腰をかけます。
「良い仔そうでしょう?」
半日付き合ったねこままさんならまだしも、わたしにはそんなに一瞬で獣柄を見分ける審美眼はないので、返答に困ってしまいます。
「いえ、なんというか、根性のありそうな方でしたね」
ねこままさんは、わたしの感想がよほど面白かったのか、てのひらをこちらにひらひらと振りながら、カラカラと大笑いをします。
「たいへんだったのよ、痩せ我慢しちゃって」
曰く、クーラーボックスを背負ったまま崖を転がり落ちて、さいごには荷物だけ釣竿で引き上げたこと。崖を転がりながらも、クーラーボックスは抱えて死守したこと。
ねこままさんは、しっぽを楽しそうにゆらゆらさせながら、ひとしきり"彼"の武勇伝を並べ立てたところで、最後にぽつりとこぼします。
「でもね、あの仔のやりたいように、してもらうことにしたの」
その困ったようで親しみがこもった声音に、わたしたちのねこままさんが、急にどこの魚の骨ともわからない若者にとられてしまったような気がして、複雑な気分になってしまいました。
辺りは薄暗く、群青とだいだいの境目はわたしたちからますます遠ざかっていきます。
尻尾を抱えて押し黙ってしまったわたしに、日暮れの空を見上げながら、ねこままさんがなんでもないように語りかけます。
「何かあったのかしら」
応えなければ、と思ううちに、自然に言葉が出てきていました。
多分、知らないうちに、胸の奥でずっとつっかえていたのだと思います。
「どうしたら、ねこままさんみたいに……」
ひとこと言葉に、形にしてしまったら最後、堰が切れたように、感情が溢れ出してきます。
「ねこままさんみたいに、色んなことが楽しめるようになりますか?」
それは、海に来る前から、ずっと不思議に感じていて、それが今は羨ましく、ともすれば妬ましいとさえ思っていたかもしれないことでした。
「わたしも、ねこままさんと同じで、休んでいたら声をかけられましたけど、連絡先だけ交換して、追い返してしまいました」
わたしは、自らの罪を告白するように、おもむろに口を開きます。
「その時は……気分が悪いと嘘をつきました。いえ、嘘じゃないんです、おとこのかたを見るとなんだか、色々と思い出してしまって、気分が悪くて」
気付けば、わたしは相手の顔も思い出せませんでした。もしかすると、そもそも一度もまともに見ていなかったのかもしれません。
かわりに、ざらざらとした砂が奥歯にはさまってしまったような、そんな不愉快さが蘇ります。
閃光のように脳裏に浮かぶのは、不慣れな夜の街、怪しいネオンの光。そして、なんだよ、ここまできてそれはないだろ!という怒号。
もう、声の震えを誤魔化すことができませんでした。
「連絡先を交換したのだって、罪悪感と、ただその場をやりすごすためですっ!」
気分が悪いならせめてもと押し付けられたスポーツドリンクの容器は、口をつけられないまま、レジャーシートの片隅で、すっかりぬるくなっています。
わたしは、頭をかかえるようにぎゅっと自分の耳を掴んで、塞ぎます。
「わたしには何もないし、何も始まりません。このまま誰にも好かれないまま歳をとっていくのかなって、怖いんです」
感情のまま吐き出してしまってから、わたしは、はっとしてねこままさんを見ます。
「ごめんなさい……」
軽率な――と言いかけたわたしを、ねこままさんが優しく抱きしめて、ぽんぽんと背中をさすってくれました。
まるで、それ以上言わなくていいよ、と、言ってくれたみたいでした。
わたしをあやしながら、ねこままさんはゆっくりと口を開きます。
「そう見えているならうれしいわ」
でもね、とねこままさんは続けます。
「無理に生き急がなくてもいいのよ。いまのあなたに見合った、楽しいことはいっぱいあるわ」
ねこままさんは、ただ、わたしの頭をゆっくり撫でながら、そう穏やかに声をかけてくれました。
「それとも、私が言っても説得力ないかしら?」
わたしは、慌ててふるふると首を横に振ります。笑ったような気配がして、それがねこままさんなりの冗談なのだと、やっと気が付きました。
「私にはあなたの気持ちが痛いほどわかるわ。でも、だからこそ、あなたには、私のようになって欲しくないわ……」
それから、静かになったねこままさんが、どんな表情をしているのか、急にわからなくなりました。
ただ、やわらかな肉球が、わたしの髪を撫で付けるために往復をする感触があるだけです。
わたしの首に回されたほうのねこままさんの腕に、ぎゅっと力が込もります。
聞こえてきたのは、びっくりするほど、か細い声でした。
「私ね、海を見ると、寂しい、悔しい」
いまだかつてねこままさんが、わたし達にこんな姿を晒したことはありませんでした。
まるで、いつもみんなのお姉さんであるねこままさんが、弱々しい子猫に戻ってしまったみたいでした。
「あの仔だってそう。来年、いえ、半年後には、私なんか見向きもされないかも。おばちゃんって呼ばれちゃうかもしれない」
「!!」
その発言は衝撃的でした。わたしにとって、ねこままさんは無条件に皆から、そして異性から好かれる存在であると思っていたからです。
ですが、ねこままさんの今にも消えそうなくらい所在なさげな様子は、さまざまな葛藤と無縁であるとはとても思えないものでした。
「若い大切な時間を私なんかに使うべきではないわ。……ううん、どちらにせよ、いつかは彼もそれに気付くの」
それは望みの中で発せられる弱音というより、静かな諦めに近いものでした。
ねこままさんが、最初からぜんぶ消えて無くなることを確信しているのだと気付いたとたん、まるで、底の見えない虚を覗き込んでしまったような怖気を感じます。
だというのにどうして、ねこままさんは、そんなどうしようもないものを抱えながら、あの若者とあんなに楽しげに笑っていられたのでしょうか。
次の瞬間、何もかも色褪せて、価値を失ってしまうかもしれないのに。
その瞬間が恐ろしくないことなど、ないはずなのに。
それとも、全部強がりで、ただわたしの願望を写しただけのものだったのかと、抱きしめられた腕の中で、じりじりと胸の辺りまで絶望感が這い寄ってきます。
だって、ねこままさんでさえ誰かと通じ合うのがそんなに難しいのなら、その戸口にすら立てていないわたしにとって、それはひどく困難に思えたからです。
でもね、と。
ねこままさんは急にわたしを解放すると、夕日に引き寄せられるように、一歩、二歩と、海へと歩み寄ります。
そして、波打ち際に映った自分の姿を一瞥すると、最期の太陽の中でくるりと振り返って、わたしに向かって憂いを帯びた表情で笑いかけるのでした。
「昨日の自分に叱られたり、明日の自分に気を遣い続けてばかりじゃ、疲れちゃうでしょ?」
それは、なげやりのようにも、諦観のようにも、どうにもならない世の中に反抗しているようにも聞こえました。
しかし、そこにはもう、あの弱々しい子猫の気配は微塵もありません。
天幕を下ろすように、あっという間に陽が落ちて、今はただ、波と、遠くから響く虫の音色が、薄闇に響いています。
ねこままさんは、暗がりの中に、ぼすん、と腰を下ろして、気の抜けたように笑いだしました。
「久しぶりに楽しかったわ!好かれているのは素直に嬉しいし、私が仲良くなっちゃだめだとかとはまた別、別!」
だからね、と、ねこままさんは私の耳元で、こっそり秘密をうちあける少女のように囁きます。
「いまは、さびしいのも、かなしいのも、みないふり」
思わず、どきりとしてしまった私を尻目に、ねこままさんはあっけらかんと続けます。
「どこにも答えなんてないの。それに、もったいないじゃない。今のあの仔はあんなに楽しそうなのに」
そう言ってねこままさんが目配せした先では、さっきの若者が嬉しそうに破顔しながら、駆けてくるのが見えました。
「ねこままさん!バーベキューの道具!貸りられましたよ!!」
ねこままさんは四足で立ち上がってのびをすると、最後にわたしにウィンクをします。
「だから、私に、もう少し強がりをさせてね」
そのまま、若者が苦労しながら炭やら何やらを広げてるところにちょっかいをするべく、駆けて行ってしまいました。
その天真爛漫さはまるで、猫の体のようにしなやかな強さです。
心のどこかでねこままさんを多少なりとも憐れんでいた気がして、わたしは、それが恥ずかしくなってきました。
すっかり深みを増した闇の中で、わたしは一匹、悔しそうに不平を言います。
「あーあ。やっぱりねこままさんはずるいです」
ひょっとすると、その顔はちょっと、笑ってしまっていたかもしれませんね。
海の家にコネがあったらしい若者の取り計らいで、わたしたちは急遽、夜の浜辺でバーベキューと洒落込んでいました。
「わ、素敵な浜焼きですね!食べる前に撮っても良いですか?」
是非どうぞどうぞと、若者がどこまでも得意げなのが面白くてたまりません。
三匹で囲む炭火のグリルの上には、ねこままさん達が獲ってきた豪華なお魚達が並んでいて、それをカシャリと、携帯のカメラ機能で写真に収めます。
美味しそうな姿が、食べたらなくなってしまうのが悲しくて、いつもなんとなくやっていることでした。
誰かに送ろうにも、数少ないわたしの友達(言っていて悲しくなりました)であるノルちゃんは、海辺でナンパされて以降、忽然と姿を消してしまいました。どうやら今はお楽しみの真っ最中のようで、さっきから「まるでお城みたい!」「鏡張のお風呂がある!」など、いかがわしい実況がメッセージアプリで流れてきます。既読スルーします。
いえ、ちゃんと生存報告も兼ねてるみたいなので、それはそれで安心するのですが。
メッセージアプリで、昼間わたしに声をかけてきた雄のプロフィールをしばらく眺めて、閉じます。何かメッセージを送ってきているみたいですが、今は見なかったことにしてしまいました。
代わりに、今は疎遠になってしまった友人に、この光景を送りつけてみます。
なんの前触れもなく、無言で。
すぐに既読がついたのに慌てて、気の利いた言い訳をチャット欄に打ち込んでは消してを繰り返してるうちに、件の友人から着信がかかってきて、驚いて携帯を取り落としそうになります。
しばらく聞いてなかった友人の声は、不思議と昨日会ったばかりみたいに、耳に馴染みました。
『あ、ごめん、まだお楽しみ中だった?』
火から離れて暗がりに移動してから、ねこままさん達をちらと見ると、熱々の串焼きをフーフーして若者に食べさせようと夢中のようです。
「ううん、全然大丈夫」
なんか今ため息とかつかなかった?という友人の追及をかわして、お互いの他愛もない近況を交換しあいます。
『いいじゃんバーベキュ〜〜!!今度そっちに帰ってくるから、来年はアタシも誘ってよ!』
「うん!」
友人が心からはしゃいでいる様子が電話越しに伝わってきて、なんだか憑き物が落ちたように心が洗われていく感じがします。
『やった!ルウムと海なんか高校の時ぶりだよなあ、楽しみ〜!』
「うん!!」
友人に連れられて、初めて学校をサボって海に行ったのを思い出します。
学校とは反対の電車に一緒に乗ったこと。
駅のトイレでこっそり持ってきた私服に着替えたこと。
果てしなく青い空と海。
急に友人が恋しくて、懐かしくなって、涙が溢れそうになります。
彼女はいつでも、何事にも及び腰だったわたしの手を握って、外の世界に連れ出してくれました。
『野郎と行くとやれビーチバレーだスイカ割りだとか落ち着きがないからさ、浜辺でのんびりしたいんだよね!』
「うん!!!」
涙声なのがばれてしまいそうで、頷く以外に声を出すことができません。
友人の、なにかあった?どうかした?という追及を、泣き笑いでどうにか誤魔化しながら、電話を切りたくなくて不器用に話題を振り続けるわたしなのでした。
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