ねこままさんのそんな海の日(ルウムさん視点)

 波打ち際で、ねこままさんが若い雄に追いかけられています。

というよりも、若い雄がねこままさんに弄ばれていると言ったほうが正しいですね……

 そこには波と砂浜に足を取られそうになりながら、なんとかねこままさんにお近づきになれないかと必死に周りを飛び回る猫の若者の姿がありました。

 いっぽうでねこままさんは、まるで意に介さないというように、しゃなりしゃなりとペルシャ猫のような足取りで砂を踏みしめていきます。

 べつに聞きたくもないのに、わたしの過敏な耳がさざなみの狭間から声を拾います。どうやら彼は、ねこままさんが釣り竿と一緒に抱えている重そうなクーラーボックスを持ってあげたいようでした。『こんなおばさんをからかっちゃだめよ』と苦笑する声音とは裏腹に、ねこままさんの足どりは楽しげで、どこかいじわるです。

 ふつう、ナンパというのは女性につきまとうイメージがつきがちですが、実際、遊び慣れた雄は口説いて振り向かない女性に早々に見切りをつけるそうです。なんでも、こういうことは結局、そういうことを望んだ者同士でないと上手くいかないとか何とか。

 これはビーチを怖がるわたしをなだめるためにノルちゃんから披露された知識なのですが、最近、ノルちゃんのせいで余計なことに詳しくなりつつある自分に頭をかかえます……

 違う、違うの、と呻いてひとしきり誰かに言い訳したあと、水面からの照り返しに目をすがめながら顔をあげれば、若い雄はまだ、ねこままさんのそばでまごまごしていました。さながら、水揚げされたおさかなみたいです。

 案の定、〝そういうこと〟に慣れていないみたいで、わたわたと腕が虚しく空を切っています。おそらくいっしょに砂を噛むような口説き文句を垂れ流しているのでしょう。もう嗅がなくても甘ったるい匂いがするのがわかります。もう二匹の話し声は聞こえませんが、もうすこしわたしの耳が良かったら、頭から海水に突っ込むはめになっていたかもしれません。

 ……そして、若い雄にとっては幸い、いや非常に残念なことですが、ねこままさんは〝そういう〟のが大好きなのです。

 わたしもノルちゃんも知らないフリをしていますが、かつて知らない若い雄がねこままさんの家を出入りしていたのを見たことがあります。

 そして実際、ねこままさんは若い雄猫にとてもモテます。本猫はダイエットしてないから恥ずかしいだの、もう若くないから大胆な水着は着れないなどと時折口にはしますが、ビーチに来てから通りがかる雄猫たちの視線が何よりも雄弁に物語っていました。ねこままさんのそばに居ると、自分に向けてではない浮ついた視線をひしひしと感じます。ともすればちょっと嫉妬してしまうんじゃないかというぐらいに。

 いや、これは言葉のあやで、本当はべつに羨ましくなんかないんですけどね。本当。

 このままでは彼の青春の1ページはねこままさんの太鼓持ちに決定してしまうことでしょう。そうして胸中で合掌しながら様子を見ていたときの出来事でした。

 ねこままさんは若い雄の耳に何やら吹き込むと、抱えていた巨大なクーラーボックスを砂浜に放り出して走り出してしまいました。それこそ脱猫のごとくという言葉がふさわしい、素晴らしい健脚です。

 ぽつんと残された彼は、砂浜に放置されたクーラーボックス——ちょっと年季の入った、魚屋さんがまるごと入りそうな本気なやつです——と、みるみる小さくなっていくねこままさんを慌てて交互に見ながら、ねこままさんの落とし物を抱えて必死に後を追います。

 そんな彼を尻目に、ねこままさんは目にも止まらぬ速さで素早く身を翻すと、釣竿を口に咥えて、あっという間にゴツゴツした岩場の中に消えていってしまいました。すごい、崖を垂直に登ってる!

 こういうところがねこままさんのずるいところです。一回り歳が違うのに、一度スイッチが入るとわたしやノルちゃんより振る舞いが若々しいんじゃないかと思います。ずるい、本当にねこままさんはずるい。

 明らかにアンバランスな荷物をかかえてヨタヨタ転びそうになりながらも、ねこままさんを愚直に追いかける若い雄を見て、わたしは深いため息をつきました。みたところアスレチックは得意ではなさそうだけれど、果たして遊びに本気になったねこままさんについていけるのかしら、と。

 ふと、ねこままさんが海に来た時、一瞬だけど、瞳の中にふやけた藻が浮いているような、どこか遠い目をしていたのを思い出します。

 これまでもおうちで、何かの拍子に海の話題が出ると、心だけはどこか遠くに取り残されたような振る舞いをすることがありました。わたしとノルちゃんの海開きに付き添いにきてくれたぐらいですから、嫌いではないのだと思います。ただ、きっとわたしと同じように、まだ、かさぶたになりきらない過去があるのだと。

 だから、"彼"には申し訳ないけれども、少なくともねこままさんがそんな眼差しをする暇がないくらい、立派なねこじゃらしになってほしいと思いました。

 ねこままさんにも、そんな日があって良いはずだから。

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