後編
カルロスの視線の先で、やはりエヴァリーは肩を震わせて涙を流していた。
大粒の涙が、ぽろり、ぽろりとその目尻から溢れている。
そして、その涙は溢れ落ちる度に微かな光を放つと、エヴァリーの頬を濡らすだけでなく、エヴァリーの顔全体をふわりと照らした。
呆然と、カルロスはエヴァリーの顔を見つめた。
彼女の顔を覆っていた爛れた皮膚は、彼女の涙が零れると、ぴしり、ぴしりと音を立てるように剥がれ落ちていった。その奥からは、白磁のような、しみ一つない張りのある肌が現れた。落ち窪んでいた筈の目元は、くっきりとした二重の大きな瞳に変わり、すっと通った鼻筋に、花びらのような赤い唇が形のよい小さな輪郭に収まっている。そして、艶やかな黒髪が風に靡いていた。
カルロスが初めて彼女に出会ったとき、成長したらどれほど美しくなるだろうと夢想した通りの女性が、すぐ目の前に立っていた。
いつしか、曲がっていた彼女の背はすっと真っ直ぐに伸び、細く長い手足が華奢な彼女の身体をさらに儚げに見せていた。
ただ、変わっていないのは、青白い顔に浮かぶ彼女の悲しげな表情だけだった。
カルロスは言葉を発しようとしたけれど、うまく声を出すことができなかった。
その喉からひゅっと音が漏れたとき、エヴァリーの横に長身の男性がつかつかと歩み寄った。明け方の空のような群青色の髪に、端正に整った顔には明るい金色の瞳が気遣わしげな色を浮かべている。彼の姿を見た群衆からは、より一層大きなざわめきが起きた。
彼はエヴァリーの腰をそっと抱き寄せると、大きな溜息を吐いた。
「君が心配で、ここに来てみてよかったよ。
…エヴァ、だから言っただろう。
そんな男はやめておけ、早く忘れろ、と。
一番苦しい時に君にあれだけ寄り添ってもらいながら、君が辛いときにはなしのつぶてだ。そして、君が苦労をしてようやく会いに来たというのに。
…君にあれだけの恩を受けながら、その礼がこの仕打ちか」
冷ややかに自分を見つめるその男性に、カルロスも思わず息を飲んだ。
ちらとカルロスがルイーズを見やると、彼女も凍り付いたようにその男性を見つめている。その唇がぽつりと呟いた。
「オーブリー第二王子様…」
明らかにエヴァリーを気遣うこの王国の第二王子とエヴァリーとの親しそうな関係が、カルロスにはまったく理解できなかった。
結局、彼女の出自や家柄といった細かいことは聞けず終いだったのだけれど、彼女はいったい何者だったのだろうか。
はっと我に返り、慌てて王子に頭を下げようとした瞬間、ぐらりと身体のバランスを崩したカルロスは、そのまま起き上がれずに地面に倒れ伏した。
カルロスは、自分に何が起きているのかわからなかった。身体中が痛み、力が入らないのだ。
「…ルイーズ様、すまないが手を貸していただけないか」
ようやく掠れた声を絞り出すも、彼の元へと駆け寄って来たルイーズは彼の顔を見た途端、小さな悲鳴を上げて飛び退いた。
「嫌っ…!」
カルロスは、震える右手で自分の顔に触れた。触れた部分の、爛れてひび割れた皮膚が痛かった。
昔経験したことがあるから、彼にはわかった。つい先程まで、エヴァリーがしていたのと同じような皮膚を、自分はしているのだろう、と。
「いったい、これはどういうことだ…?」
カルロスの口から漏れ出たその声に答えたのは、オーブリー第二王子だった。
王子は冷たく淡々とした口調で言った。
「今更言っても仕方のないことだが、最後に教えておいてやろう。
…彼女は、君の病を背負ったんだよ。君の代わりに、ね。
もし、エヴァの思いやり深い心に君が本当に感謝して、彼女との約束を守り、彼女と婚姻を結んでいたならば、彼女の病は癒えて、君の元に病が戻ることもなく、君たちはきっと幸福に暮らせたことだろう。
…だが、残念ながらそうはならなかった。
昔から王家に伝わっていたのは、約束が守られた場合の結末だけだ。だから君のように約束を違え、裏切った場合にどうなるのかは、僕も初めて知ったのだが。
君は、君自身の驕りによって身を滅ぼしたんだ。今の君が本来あるべき君の姿で、君の行いの報いなんだよ」
オーブリー第二王子は、腕の中にいるエヴァリーに顔を向けると、カルロスに対する口調とは打って変わって、優しく穏やかに話しかけた。
「さあ、もう行こう、エヴァ。ここは君がいるべき場所じゃない。
…僕は、君の心の傷が癒えるのをいつまでも待っているよ。君のことは、これからは僕が必ず守るから」
エヴァリーはようやく少し口角を上げると、王子の差し出した手を取った。
「ありがとうございます、オーブリー様。
…わたくしがあのような姿になっても、わたくしを見捨てず、ずっと心に掛けてくださったのは、貴方様ただお一人だけでしたわ」
エヴァリーは、カルロスを振り返ることなく、オーブリー第二王子に付き添われ、王家の紋章の付いた立派な馬車に乗り込むと、その場を後にした。
王子の話は、どこかで聞いた記憶があると、カルロスはぼんやりとそう思った。
彼は、遠ざかって行く馬車の姿を眺めながら、昔読んだ絵本の筋書きを思い出していた。
もし自分がエヴァリーの手を取っていたならば、王の病を身を呈して引き受け、王と国を助けた魔女が、王と手を取り合って幸せになったあの物語と同じように、幸福な結末を迎えられていたのかもしれない、と。
***
カルロスはルイーズから婚約破棄を言い渡され、病室に戻って動けない身体で毎日を過ごしていた。
どんなに時を戻したいと願っても、もう幸せだったひと時は戻らない。
身内からは白い目で見られ、もう見舞いに来る者もいなくなっていた。
彼の頭に浮かぶのは、熱い視線を浴びながら楽しく過ごした学園生活や、華やかなルイーズとの時間ではなく、自分のことを心から思いやり、労ってくれたエヴァリーと過ごした病室での時間ばかりだった。
あと一度でいいからエヴァリーに会いたいと、そして傷付けてしまったことを謝りたいと、心の底から願ったカルロスだったけれど、彼がエヴァリーに告げたその言葉の通り、彼女はその後二度と彼の前に姿を現すことはなかった。
エヴァリーの涙 瑪々子 @memeco
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