エヴァリーの涙
瑪々子
前編
ある街角を、一際人目を引く美しい男女が寄り添いながら歩いていた。
道行く人々は、上質な装いに身を包み、絵になるような容貌の彼らに思わず見惚れて、微笑み合う彼らをちらちらと振り返った。
そのうち幾人かは気付いたかもしれない。
少しウェーブのかかった金髪を腰まで伸ばした、すらりとした女性は、この王国でも由緒ある侯爵家の一つ、ラナロワ侯爵家の長女、ルイーズだった。少し吊り上がった目尻を、長い睫毛が彩って独特の色香を醸し出している。美人揃いとの呼び声の高いこの侯爵家の姉妹の中でも、とりわけその美貌で知られる彼女は、隣にいる男性に嬉しそうに腕を絡めていた。
その隣で輝くような笑みを浮かべる男性は、これもこの王国で長い歴史を誇るザクレフ侯爵家の次男のカルロスだった。彼はルイーズに腕を差し伸べながら、彼女を見つめて頬を染めている。
そんな時、建物の陰から飛び出して来た1人の女性の姿があった。女性は掠れた声で必死に叫んだ。
「ああ、カルロス様。ようやくお会いできました…!」
声に隠し切れない喜びを滲ませる彼女とは対照的に、ルイーズはあからさまにその女性の姿に顔を顰めた。
「まあ、何て醜いのかしら。みすぼらしいわ…」
その女性は、まるでヒキガエルのように茶褐色にくすんだ、ざらざらと爛れた肌に一部包帯を巻き、少し彎曲した背中でよろよろと近付いてくる。くすんだ中にも見て取れるその顔色の悪さから、きっと重い病に侵されているのだろうと思われた。落ち窪んだその目元の奥には、真っ赤な瞳が爛々と光っていた。
しかし、その背中になびく艶々とした黒髪だけは、とても美しかった。
ルイーズは眉を寄せて、カルロスの顔を見上げた。
「この方、カルロス様のお知り合いなのですか?」
カルロスはその女性を見ると少し青ざめ、苦虫を噛み潰したような表情で、ぽつりと呟いた。
「ああ、彼女は私の古い知人なのです。
…申し訳ありませんが、少しお待ちいただいても?」
汚らわしいとでもいうように、目を細め、立派な扇で顔の下半分を覆ったルイーズを背にして、カルロスはゆっくりと彼女の所に近付くと、彼女の耳に低く小声で囁いた。
「エヴァリー、もう君には会えないと、そう伝えたはずだ」
エヴァリーは、カルロスをじっと見つめると、その赤い瞳を何度か瞬いてから、少し首を傾げた。
「カルロス様のお屋敷に伺う度、カルロス様はお仕事でお忙しくしていらっしゃると、それでお目に掛かることは叶わないと、そう伺ってはいましたが…」
カルロスは険しい顔で首を横に振った。
「…君が昔、僕に長い間寄り添っていてくれたことには、心から感謝しているよ。
それだけでは不満かな?
必要ならば、金ならいくらでも用意させる。
だから、…わかってくれるね。もう、君には会えないんだ」
ひくりと顔を引き攣らせ、俯いたエヴァリーは、震える声で続けた。
「では、貴方様が成人なさったら、わたくしと結婚してくださるという、あの約束は…」
カルロスは眉を顰めると、呆れたように首を竦めた。
「あれは、遠い昔の、単なる子供の戯言だよ。まさか、君が本気にしていたとは思わなかった。
あまり面と向かって君を傷付けたくはなかったから、あえて君を避けていたんだが。
…よく考えてみてくれ。君と、この僕が釣り合うと思うかい?
僕はそこにいるルイーズ様と婚約することになったんだ。
…僕のことは、もう忘れてくれ。
そしてもう二度と、僕の前には姿を現さないでくれ」
傷付いた表情のエヴァリーの両瞳にせり上がる透明なものから目を背けるように、カルロスは足早に踵を返した。
その胸には、疼くような痛みと共に、遠く幼い日の記憶が蘇った。
***
カルロスは、まだ10歳にも満たない時に重い病に侵され、長いこと病院に入院していた。
身体中の皮膚が爛れ、内臓も病に侵され、様々な部位に腫瘍の転移が見られたカルロスに、医者はさじを投げた。どんな薬も効かないし、どんな手術をしても治らないでしょう、手の施しようがありません、と。運が良くてあと1年といったところだと、余命の宣告もなされていた。
カルロスの家族は嘆き悲しんだけれど、どうしようもないと悟ると、彼のことを見放し、そっと距離を置いた。ザクロフ侯爵家の跡継ぎたる長男でなく、このような不運に見舞われたのが次男でまだよかったではないかと、そう家族が話しているのを、カルロスは聞いてしまった。
彼は絶望の淵にあった。そして、彼は孤独だった。
身体中が軋むような痛みを訴える中、ただ1人ベッドの中で、自らの命の炎が燃え尽きていくのを感じながら、カルロスは心の中で叫んだ。
「誰でもいい、誰か、僕を助けてくれ」
と。
うとうとと痛みの中で微睡んでいたカルロスが夢から覚めて重い瞼を上げると、1人の少女がベッドサイドに座り、彼の顔を覗き込んでいた。
…それは、可憐で人形のように整った顔立ちをした、美しい少女だった。年の頃は、カルロスと同じくらいだろうか。雪のような白い肌には、ルビーのような真っ赤な瞳が輝き、墨を流したような黒髪が光を弾いて背中に流れていた。
カルロスは、彼女を見て、昔読んだある絵本を思い出した。彼女を形作る色合いが、絵本に出て来る魔女にそっくりだったのだ。王を助け国を救ったという、物語の中の善き魔女に。
「君は、誰だい?」
カルロスはようやくそれだけを言った。言葉を発する度、顔に巻かれた包帯が引きつって痛かったのだ。
「私は、エヴァリーよ。どうして、あなたは泣いているの?」
カルロスは驚いた。自分が泣いていることにすら、気付いていなかった。どうやら、絶望に沈んで涙に暮れていたらしい。
エヴァリーと名乗った少女は、白く華奢な指先でそっとカルロスの目元を拭うと、励ますように優しく彼に微笑んだ。
カルロスには、それで十分過ぎるほどだった。
彼女が誰であろうと、構わなかった。一人ぼっちの自分のことを、ただ1人気に掛けてくれたのが、彼女だったのだから。
カルロスの元を立ち去ろうとする彼女に、彼は勇気を振り絞って声を掛けた。
「あの、エヴァリー。
君は、誰かに会いにこの病院に来ているの?
…また、君に会えるかな?いや、僕は、君にどうしてもまた、会いたいんだ。
明日、また来てもらってもいいかい?」
きっと、この病院に入院している家族か友人の見舞いに来ていて、自分の病室に迷い込んだのだろう、そうカルロスは思った。
我儘とも言えるカルロスのそんな言葉に、エヴァリーはにこりと笑って頷いてくれた。
「だって、あなたに呼ばれたから私は来たんだもの」
そんなことを呟きながら。
それから、毎日のようにエヴァリーはカルロスの病室を訪ねて来た。
エヴァリーは口数は少なく、自分のことを多くは語らなかったけれど、とても聞き上手だった。カルロスがこれまでに経験してきたことや、病気が治ったらやりたいと思っていること、将来の夢、そういったものに、彼女は熱心に耳を傾けてくれた。彼女が辛抱強く彼の言葉を聞き、相槌を打ったり微笑んだりする度、カルロスは、長らく忘れていた幸せを味わった。そして、そんなエヴァリーに救われ、生きる力をもらっていた。
次第に、カルロスは、彼女こそ自分の人生にはなくてはならないものだと、そう感じるようになった。
ある日、彼は意を決してエヴァリーに尋ねた。
「君に、お願いがあるんだ。
…将来、僕が大人になったら、僕のお嫁さんになってくれる?」
一瞬、エヴァリーは驚いたように目を瞠ったけれど、ふわりと嬉しそうに笑った。
「…ええ」
「本当に?…僕、夢を見てるんじゃないのかな」
「夢なんかじゃないわ、本当よ。約束するわ」
「じゃあ、僕が成人したら、指輪を持って君を迎えに行くからね」
エヴァリーは頬を染めてくすくすと笑うと、こくりと頷いた。
カルロスは、久し振りに両親が彼を見舞いに来た時、エヴァリーという少女がよく自分を見舞いに来てくれること、彼女と婚約したいことを話した。幼いけれど、自分は本気なのだと伝えた。
両親はすぐに首を縦に振った。…カルロスに成人する未来などはないとわかっているのだから、反対する必要もない。むしろ、自分たちの不在時にカルロスを慰める存在がいたことに、ほっと安堵を覚えていた。
カルロスの胸に希望という光が宿ったからだろうか、それから、奇跡が起こり始めた。
少しずつ、少しずつだったけれど、彼の身体は快方に向かった。そして、皮膚の状態も改善し始め、薄皮が1枚ずつ剥けるように、本来の彼の美しい姿が現れ始めた。
そんな彼の回復を、エヴァリーはまるで自分のことのように喜んだ。
しかし、皮肉なことに、カルロスの回復と反比例するように、今度はエヴァリーが病に侵され始めた。顔色悪く、ベッドに伏せりがちになった彼女の手を握って、カルロスは必死で慰めた。何があっても、僕は君の回復を一番側で祈り、見守るから、と。エヴァリーは、真剣なカルロスの言葉に嬉しそうに微笑んだ。
けれど、カルロスがほとんど全快した時、エヴァリーの身体は酷い状態になっていた。カルロスが昔そうであったように、身体中の皮膚が爛れ、美しかったはずの顔は見る影もなくなっていた。カルロスは眉を顰めて、首を傾げた。彼女が美しく見えたのは、病に苦しむ自分が見せた幻影だったのではないだろうか、と。
カルロスの家族は、彼の奇跡的な回復に諸手を上げて喜んだ。一度は諦めていた次男が、戻って来たのだ。
そして、当然のように、エヴァリーという素性も知れない娘のことは忘れろと言った。
その頃、回復したカルロスは王国の学園に編入し、遅れていた授業に追い付こうと必死になっていた。
カルロスが新しい学園生活に慣れ、その刺激に溢れた毎日を満喫すればするほど、彼の足はエヴァリーの病室から遠のいた。
学園には、美しい令嬢も数多くいた。そして、砂が水を吸うように、あっという間に多くの知識を吸収し、たちまち優秀さで知られるようになった彼は、その見目麗しさも相まって、多くの令嬢から熱い視線を送られた。
カルロスに執心だったそのうちの1人が、ルイーズだった。
ラナロワ家には男児が生まれず、婿養子を取ることになっていた。ルイーズから、自分と婚約してラナロワ家を継がないかという話を持ち掛けられた時、カルロスは信じられない幸運に、そして喜びに身を震わせた。次男の自分が、婿入りをして由緒ある侯爵家を継げるなんて、過去の自分には予想もつかないことだったのだから。そして、彼の家族も口を揃えて彼の幸運を称えた。
いつの間にか、カルロスはエヴァリーの病室にはぱったりと足を運ばなくなっていた。
初めて会った頃には、成長したらいったいどれほどの美しさになるかと思われたその容貌は、今では酷く醜いものに変貌してしまった。そんな彼女との結婚の約束など、彼にとっては思い出したくもない過去のことになっていた。
今では、カルロスは、完全にルイーズの美貌とその地位の虜になっていた。
あの病魔に侵されていた時間から、何かを学ぼうという謙虚な姿勢がカルロスにあれば、そして、彼がエヴァリーに対する感謝の思いを忘れていなければ、また違っていたのかもしれない。
けれど、彼にとっては、あの病室のベッドに横たわっていた時間は、悪夢以外の何物でもなくなっていた。
カルロスは、エヴァリーごと、あの辛く苦しかった過去の記憶の箱の中に閉じ込めて、そっと鍵を掛けたのだった。
そして、カルロスが学園を卒業し、成人を迎える直前に、正式にルイーズと婚約した。
…忘れかけていたエヴァリーが彼の屋敷にやって来たと家臣が伝えてきたのは、ちょうどそんな時だった。
それを伝え聞いた時には、さすがに肝が冷えた。もう、自分にとっては過去の話なのだから、彼女に会うこともない。家臣には、自分には取り継がないようにと素っ気なく伝えた。その意図を、家臣は十分に汲み取ってくれたようだ。それから、家臣から彼女の名前を聞くことはなかった。
だから、カルロスは、あれはもう終わったことだと油断していた。まさかルイーズと一緒にいるときにエヴァリーがやって来るとは、と、彼は唇を噛んだ。
エヴァリーがどんな気持ちで長い時間を過ごしていたのかなど、考えもせずに。
***
エヴァリーにカルロスが背を向けた時、カルロスは、彼女が泣いているのだろうということはわかった。彼女の涙を見たくはなかった。
けれど、見るともなく自分たちに視線を向けていたであろう通行人たちがざわつく気配を感じて、カルロスが思わずエヴァリーを振り返った時、カルロスは目に映る光景が信じられずに、地面から足が生えたように、しばし動けずに棒立ちになったのだった。
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