5 試合開始
二人は十メートルほど離れ、相対して正座した。
新陰流に防具は無く竹刀にも鍔はない。両人とも稽古着のままで試合をするのだ。袋竹刀は皮で覆われているために、当たっても大した怪我をするわけではない。だが達人の撃ちは、皮の縫い目が肌からしばらく消えないほど強いと林太郎が言っていた。
袋竹刀を前に縦に置くと、爪甲礼をした。そして右手から竹刀を取り上げ、左手を付けてゆっくりと右足から立ち上がった。
高田が鋭い目で林太郎を睨む。
お互い、まだ竹刀を前に両手で持って垂らしている。新陰流の『無形の位(くらい)』という自然体だ。この構えから縦横無尽な構えに入って行く。
片や、あいつは悠然と無形で高田を見ていた。
目は高田の後ろのもっと遠くを眺めている様だった。
筋肉質の高田は自然体になっていても、どこか猪首でいきんだ様な感じである。対して、華奢に見える林太郎は首が女性のように長く、静かに仏像の様に佇んでいる。
あとで聞いた話だが、この高田という男は、10代の時、林太郎の祖父の道場に入門してきた。粗暴で喧嘩ばかりしていたので父親が引きずって連れてきたのだ。横を向いて不貞腐れて座っている少年に祖父は優しく笑いかけて、儂に打ち込めたら教えることはないので帰って良いと言った。
その気になってすぐ帰ってやると意気込んだ少年は、袋竹刀を渡され道場で祖父と対峙した。結果は少年は散々打ちのめされ、頭を打たれて気絶してしまった。
これはどうにもなりませんな、と祖父は言ったそうな。だが少年は翌日、再度挑戦してきた。何度も打ちのめされ気絶して帰る日々が続き、気づいたら最も熱心な門弟になっていたというわけだ。
高田にも20数年間、必死に祖父を打ち込もうと奮闘してきた気概がある。最近三本に一本は勝ち口(試合ではない組太刀で完全に勝ちを示すこと)を取れる様になったようだが、もう祖父に勝とうという気持ちはなく、無心に稽古をする毎日という。
だから自分よりも20も若い青年が老師の技を継ぐなど信じられず、どうしても確かめずにはいられないのだ。
お互い動かず、どう攻めるか考えている様だ。
最初に高田の竹刀が上に上がり、高い上段となった。
すると林太郎の竹刀もすると持ち上がり、同じく高い上段を取る。遅れて上げたのだが、高田が真上に上げたタイミングとピタリと合う。ごくと生唾を呑む音がまわりでする。
(上段に上段!・・・あいつが前に教えてくれた合撃(がっしうち)の戦いか!)
合撃とは、お互い雷刀(上段)から殆ど同時に打ち合う技である。『殆ど』と言ったのは、敵に先に打ち出させて、遅れて打ち出し、勝つ、という信じられない技なのだ。
俺は最初、林太郎から聞いた時、耳を疑った。
「え・・・遅れて打ち出した方が勝てるのかい?」
「うん、新陰流の極意の一つなんだ。相手の振り下ろす太刀の上に、自分の太刀を乗っけて勝つのさ。重要なのは、打ち出させる前に勝っているという事なんだ。『先々の先の位』っていうんだ」
「?・・・?」
俺には分けが分からなかった。
「兵法では後手必勝が普通なんだ。相手の出方によって対処の仕方を変えることが出来るから。孫子にあるだろ。『奇は無形なり』って」
あいつはコーヒーを啜りながら、くすくす笑って話していた。古武道の神髄を聞こうとする俺を、煙(けむ)に巻くのが楽しいのだ。
「双方とも合撃を狙ってたらどうするんだよ?」
「ああ、そこは難しいね。稽古では、教える人が先に撃ってくれるけど、真剣で戦う時にはそんな決まりはないよね」
俺は一本取ったと思って、得意になって聞いた。
「そりゃ、そうだろう!どうするんだ、そんな時?」
「お互い、牽制して相手を打ち出させようとするだろうな。でも虚を突いて正確に早く打ち出せば、合撃させないで勝つ事も出来る」
「つまり・・・」
「相手にすきを作らせるか、誘い出した方が勝つのさ」
「一方的に攻めて一本勝ちってのはないのかい?」
「それは必ず相手を殺す事になるだろう?それを新陰流では『殺人刀(せつにんとう)』と言うんだ。相手を先に動かすのは、彼に戦いを思い止(とど)まらせる時間を与えるって意味もある。それを『活人剣(かつにんけん)』と言うのさ。新陰流は活人剣を重んじるんだ」
俺には、林太郎が敢えて言わない事が、この試合を見ていて分かった。
あくまでも、冷静に瞬時の判断を行い、己(おのれ)が体得した最高の技を発揮する事が、剣の戦いの勝負を決めるという事を。
そして、それを生死の境で行う『勇気』が新陰流の本当の極意だということを。
勇気を持つには、『死ぬかもしれない』という恐れを超える必要がある。逆に言えば生への執着さえも全て捨て去る『勇気』。・・・人間が本当にそのようなものを持てるのだろうか?
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