第8話 グラディアートル
部活対抗乱闘控室にて俺達はたった二人であったが闘志を漲らせて、今すぐにでも破裂しそうな感情の昂ぶりに身を窶すし目を血走らせていた。
鮫島は世話しなく貧乏ゆすりをして緊張している様子であった。
対する俺は初めてではないにしろ、
「緊張するな。鮫島」
「……うん。死んじゃいそう」
「ここで死ぬなよ。友達の葬式なんて爺になってからで十分だ」
部活対抗『乱闘』と称するぐらいだからそこそこの舞台を用意するとは思っていたが、俺の思う様な小ぢんまりした体育館とか使ってやる物だと思っていた──しかし実際はそれを優に越す大舞台だった。
何百人も収容できそうな観客席付きの六角形のフェンスで囲まれた五十人程度なら余裕で入るであろう闘技場を用意され、審判着きの、まさしくコロッセオの様相を呈している。
観客もそれほど集まらないであろうと、鮫島は言っていたが、観客席から聞こえる騒めきの大きさから少なくとも五十人以上の観客が来訪していることは明白であった。
「たった二つの部活の乱闘に観客を入れるかね」
「部長が大掛かりに宣伝したんだ……スカウト部の不正がないように」
「目を多くして不正をしずらいようにね。ステゴロじゃねえし光り物出されちゃこっちも命はねえからな」
覚悟を決めろ。戻るしかないのだ、あの頃の俺に。
呼吸が少しだけ早い。立場を理解しろ俺──これは弱い者イジメではない。
懲悪断罪の処刑だ。正義は俺達にある。大義のない暴力などいくらでも振るえる、だが大義のある暴力は数少ない。
独善偽善と呼ばれようとそれはそれでいい。こいつは俺の覚悟だ。俺がただ俺が正しいと思っただけの事だ。
硬質ゴムの棒を手に持って素振りをして体を戦闘状態の持っていき、体の隅々まで構造が変わって行くような感覚を感じる。
ロボットの
いつも唐突に背後から、目の前から、敵は飛び込んできて喧嘩、いや、殺し合いの火蓋は切られていた。
覚悟なんて決める余裕はないはずだ。しかし今回はその時間がある。
万全な御膳立て、これぞ茶番。
「準備はよろしいですか」
評議員会の一人が控室に呼び込みに入って来て俺達は無言の頷きで応じ動き闘技場へと赴いた。
一歩一歩を踏み出すのに、何かが絡まりついてくるような重みがあった。
今迄感じた事のない重みが全身を押し戻そうと押してくるようなそんな圧力が俺の体に感じられた。何の圧力なのか──そう考えた瞬間にすぐに答えに辿り着いた。
喧嘩の最中の脳が弾けるようなあの興奮と緊張の感覚だったのだ。
そうか。もう喧嘩が始まっているのか。
ブルリと全身に伝う鳥肌と武者震いに、気がおかしくなりそうだった。
「────ッ」
歓喜とも違う興奮。酷く酷く醜い興奮に俺体は支配されている。
会場入りは今まさに──。
歓声と共にスポットライトに照らされたリング。外野の席には生徒たちで千客万来の観客席が俺達の闘争を求めていた。
外野だからいくらでもヤジは飛ばせる。聞こえるのはすべてスカウト部を応援する声と、俺達ワンゲルを蔑むような嘲笑の笑い声。
とある一角ではプロレス覆面の二人組が手持ち黒板に番付表を叩いて賭けを促し、その反対側には三河の取り巻き衆が似たように賭けを催促するように手を叩いて客を呼び込んでいた。
本当にここは学校なのか? そう思えるほどに異常な空間。
これはもはや御伽噺で語り継がれる剣闘士のそれではないか。
身震いがヤバい。バイブバイブの驚きのバイブレーション機能が俺の体にはあったようだ。
やるしかない。やるしかない。ビーファイターカブトのオープニングだって言ってたじゃないか。って俺はいったい何年前の事を思っている。俺は健全な一七歳だ。
産まれる前のスーパーヒーローの言葉なんて知るか! 。
『レディー&ジェントルメン。さあ始まってまいりました! ボーイスカウト部VSワンダーフォーゲル部! 実況は放送部北山さおりがお送りします!』
勝手に実況を始めやがるし、もう本当に見世物だ。
俺らは現代の剣闘士。ヤらなきゃヤられるガチンコの勝負だ。
「シャオラぁッ!」
俺は声を張り上げて叫んで観客の声援、嘲笑の全てを背負った。
鮫島は隣で相変わらずのへっぴり腰だが、練習の成果か、それとも持ち前の度胸か。体に芯が通っている。覚悟も十分、俺達は勢いだけなら一騎当千の戦士だ。
『オオっと! ワンゲル部部員気合が入っております! 声を上げているのは昨日入部したばかりの轟タケル──轟タケル! 入学二日目に爆川あかねとやり合った勃起大魔神の轟タケルだ!』
「勃起大魔神言うなボケぇッ!」
放送部の連中に中指を立てて黙らせて俺は敵を見た。
ちょっとした群集団。誰も彼もがツラはお綺麗な女受けしそうな所謂『イケメン』たちであり、その中に混じる大醜男。
真っピンクでクソ長い髪の毛でカマっ気全開の面構え、汚い面に化粧で誤魔化しているのだろうが。いくら残飯に金粉を振ったところで残飯は残飯だ。
「おい鮫島。あのブサイク誰だ」
「ボーイスカウト部の部長だよ。喜島幸男。現『A』ランク35位の上位者だよ」
「へぇ……あれがねえ」
あんな汚いのを世に放つなど俺なら出来ないね。見た目の矯正も教師の務めだと思うが、
「たったの二人! ホントうにこの勝負を受けて自分は出てこないなんて薄情な部長を持ったわねぇ!」
甲高い声で騒ぎ出した喜島に俺は小指で耳をほじって指先についた耳垢を吹いて飛ばす。
「てめえは大変賑やかでいらっしゃるが、数でしか物を語れねえお可哀想なお頭でちゅねえ」
売り言葉に買い言葉を返す様に俺はサムズダウンと裏ピースのハンドサインで応じて舌を突き出して挑発を更に熨斗つけて返し、連中の敵意をさらに煽る。
ちょっとした心理戦だ。そんな気はなく、ただ単に相手を煽って楽しんでいるだけなのだが、これもれっきとした心理戦だ。
相手を煽り立てて冷静さを失わせる。獣のような闘争は冷静さ欠きその動きを単調にする。
大剣豪宮本武蔵が佐々木小次郎を馬鹿にして勝った話は有名だろう。それと同じだ。
「あらあら、山懸は貴方のような人にキチンと躾けていないのね。それに比べてうちの部活の子たちはしっかりしているわ。私の躾の賜物ね」
「そうであらせられますねぇ。ハドリアヌス様」
これを分かれば中々の歴史家だ。俺はほんの少しだが歴史が好きだ。特に古代ローマが。
喜島に向かって言った『ハドリアヌス』の意味、即ち──ホモ野郎という意味だ。
まあそんな事このクソ馬鹿に分かる筈もなく、機嫌よくなっていくばかりだった。
「様づけなんて。案外といい躾けしているのかしら。ハドリアヌス? 偉大な偉人かしら」
「あぁそうだ忌まわしきローマ皇帝様だぜ。ハドリアヌス様よぅ」
片手に持った硬質ゴム棒を肩に担ぎ直し俺は顎を突き出して見下す様に手を招いた。
「早く始めようぜ。俺らだって暇じゃねえんだ」
「喧嘩といえどエレガントにやらないと美しくないわ。ですから一対一でやらないかしら?」
「あ”? 何言ってんだ?」
スカウトの一人が前に出てきた。
「一対一、番勝負にしましょうよ」
「ハっ──くくっ……くはははっ」
俺はわらけて仕方がなかった。こいつは本当に頭の中に発泡スチロール並みにスッカスカの物しか詰まっていないようだった。
前に出た部員に俺はその目にメンチを切る──ことはなかった。
『ああっと! いきなりこめかみを武器で殴りつけた! 容赦ない! この男に慈悲の心はないのか!』
同意どうこう、了承どうこうの前に俺はゴム棒を振り上げてそいつのこめかみに強烈な一撃をくれてやった。
パコーンっといい音が響き、つんのめってそいつは俺の足に縋るように倒れ込んだ。
部活対抗乱闘のルールは事前に鮫島に聞いていた。
基本的乱闘には禁じ手が三つ存在し、それは『殺傷道具の持ち込みの禁止』と『殺傷技に(目潰し、背中、金的の三つ)使用禁止』を示していた。
そしてもう一つ──『脳震盪を起こしている相手への追撃の禁止』だ。
これはキチンとした意味がある。『セカンドインパクト症候群』の阻止のためだ。
短時間で二度の脳への衝撃は脳内出血や、脳挫傷の可能性が50パーセントを越え、下手をすると死んでしまう為だ。喧嘩は推奨しているが殺人は極天地は推奨していない。
他にも『パンチドランカー』という言葉を知っているだろうか。某有名ボクシング漫画にも描かれているが、慢性外傷性脳症と言い度重なる脳への衝撃で生じる、認知障害だ。これは慢性的に受ける脳への衝撃である種の健忘症を併発する病だ、頸への衝撃を受けるボクサー、プロレス、フットボールなどの選手が良くなることからこの極天地の喧嘩もセカンドインパクトとパンチドランカーなりやすい条件が揃っている為だ。
追撃の禁止──それは俺に科せられた法であり、同時に救済でもある。
相手が脳震盪を起こしたと判断された時、それは退場を意味していてボーイスカウト部の戦力が減ることを意味していた。
審判に評議員会、風紀員会、そして保健委員会の三組織が見ている。
普通は評議員会と保健委員会の二組織だけらしく、評議員会は勝負の決着を決め、保健委員会の委員が脳震盪の有無を判別する。
保健委員会はスポーツ医学に特化しており、怪我の状態、症状など多岐に渡り喧嘩の負傷を見分ける目を養われているらしく、俺の仕掛けたこの一撃も脳震盪と判断して旗を上げてそいつを回収していった。
「馬鹿正直にお行儀よく決闘をしてやれるか。……泥臭く、容赦なく、慈悲なく、懸かってこいやぁ!」
俺は声を張り上げて、煙草を咥えて火を付けた。
会場を見渡すと俺の容赦のない攻撃に騒めき、歓声、どよめき、そして悲鳴の声に支配されていた。
貴賓席であろう席をチラリと見ると、見慣れない生徒の中に混じるあの女──爆川あかねの姿もあった。俺の喫煙に大変怒り心頭と言った様子であったが、口出ししてこないと言う事はこの乱闘には手出し無用と言う事であろう。
「貴方という男は……。とことん躾がなっていないようね」
「ケダモノに躾は聞かねえよ。ライオンがサバンナの王者であるのと同じ、サメが人の血を嗅ぎつけて食い漁るのと同じ──猛獣に理性を問う方が頭おかしいよなぁ!」
俺の紡ぐ言葉の端々に鏤められた感情は理性ある人の言葉とは程遠いと自ら理解できるほどの悪意にも似た闘争心に満ちた罵声。
笑え嗤え哂え──こいつはもう理解無用の喧嘩なのだから。
「いいわ。──じゃもぉやってお終いお前たち!」
乱闘の名前に相応しい形相で俺達の闘争の火蓋が切って落とされた。
「豪胆というべきか、剛毅というべきか。根性が据わっているねぇ彼」
部活対抗乱闘会場貴賓席で彼はそう言った。
見た目の事を言うのならまさしく『天使』と形容するに相応しい麗しい見た目の青年が楽しそうにそう言った。
「アタシはそうは思わない。ただの愚か者だ」
アタシはそう言い。この乱闘の行く末を見る事に徹した。
轟は私たち風紀員も挑発しているのかぷかぷかと煙草を吹かしながら乱闘を始めて。嬉々としてその戦いを行っている。
それが当たり前のような、板に付いた喧嘩姿は明らかに喧嘩慣れしていた。
「アタシはあれを好きになれない」
何故だろうか。ただ単にその性格が挑発的だからか? それとも粋がった男の典型例だからか? 。
いや、きっと他に何かがあるのだろう。私の気づきえない何かが。
「そう言うものじゃないよ。人は醜美一体、どれだけ醜かろうと美しい所があるよ。爆川さん」
にこにことした表情でそういう青年。あまりにも軽率な、その軽薄な言葉の軽さにいつもながら嫌になる。出会ってからずっと感じているこの人の主観的な意見は『無関心』から絞り出された意味のない意見なのだ。
この青年こそこの学園の頂点にして喧嘩ランク『S』の1位の座を占めているのだから、何をしでかすか分からない。
挑戦者を悉く蹴落としその姿から『
「審議はキチンとしてくれ」
「勿論さ。どっちかが勝ったらね」
アタシの喧嘩で培われた気配を読む感覚からでも、この男の真意は読み取れなかった。
読み取るというよりも、読み取る前にその中身が空っぽなのだから読むことは出来ない。空気に文字が刻まれていないのと同じで、この男もある種の『空気』なのだ。
この学園の校則を是とする『空気』そのもの。弱肉強食の空気を作り出した張本人なのだから。
「あ、まただ。ねえねえ爆川さん。あの轟くんて子。もう一人の子をやけに気遣ってるね」
「ええ、Cランク99位の鮫島キリトにはこの勝負は荷が重すぎますからね。──実際ここまで善戦できるとはアタシも思っていなかった。きっと轟が喧嘩の手解きをしたのだと……」
「ふぅん。でも見た限り──喧嘩じゃないよねあれ」
楽し気にそういい。そして確信を付くように言い放った。
「やっぱり彼のやり方は、喧嘩じゃなくて。『殺し合い』だね」
「──オラぁッ!」
敵入り乱れる乱闘に勇猛果敢、孤軍奮闘とはこういうことを言うのではなかろうか。
観客の歓声ももう遠く、耳に響くのは相手の息遣いと己の心臓の高鳴り。
全身を隈なく広がる衝撃は俺が殴りつけた時のインパクトか、それとも俺が殴られたインパクトなのか。どっちだっていい。これは喧嘩だ。
「お手手がお留守でありますよ! ええッ?! どうだ!」
一人集団から僅かに外れた一人を見つけ出し、そいつの髪をふん捕まえ力一杯の力で顔面を棒で殴りつけた。肉の弾ける感触に、骨の硬さまで棒を通して感じ取れる。
力一杯。それこそこいつの頭を叩き割らんばかりの力で、目一杯の力でこめかみをシバいた。
相手の目がぐるりと反転し白目を剥いているのが分かる。だがそれ以上にこれ以上できない事が悶々とナニの知らない小学生の持て余した性欲のように心の底に降り積もっていく。
多勢に無勢なのは目に見えていた。だが、それでこそ俺は燃えて仕方がない。
こんなの勝ち目がない。嗚呼そうだ勝ち目はない。──でもよお、これで勝ったら最高に盛り上がるってものだろう。
相手も必死になってステゴロで挑んでくるが、数で押してきてビビるほど俺の肝っ玉は小さくない。むしろ嬉々としてツッコんでいくタイプだ。
第一に、一人に対して集団で挑むのはそれこそ一騎当千の練度が必要だ。
フレンドリーファイアの危険性を本能で理解できるからだ。今はコイツ、次はアイツ、今度はソイツ。
そんな手加減が無意識に敵を縛り付けているのを俺は知っている。
何回も多勢に無勢は経験してきた。だから分かるのだ、こいつ等は『息』が合っていない。
数を嵩に掛けて、喧嘩ランクという褌を履いているからこそ強さを主張出来ているに過ぎない。実力ではない、だからこそやり易い。
「どんどんこいやぁ! 次に伸びるのは誰だぁ!」
声を張り上げ、まだまだいるスカウト部のあまちゃん共を去なしつける。
いい勉強だろう。これだけの数揃えて何もできないのだから。勉強代はお前たちの悲鳴で釣りがくる。
相手の顎を打ち、こめかみを殴り、鳩尾を蹴り上げる。
金的目穿りは禁止と言われているのが悔しいが、それでも数は確実に減っているのは確かだ。
20人中約半分を俺が片付ける。
「そっちはイケてるか! 鮫島ぁ!」
「うん! 何とか!」
アイツもなかなかやる。たったの二日でそこそこ使える喧嘩屋になった。
冷静に興奮でき、そしてすばしっこく敵を翻弄し、確実に潰している。時間もなく急拵えの戦術だったが、こいつら程度ならこれでいいようだ。
一撃離脱。ヒット&アウェイだ。
敵を懐に入れさせず、一撃を加えて即時退却。これぞ才能ある初心者の喧嘩方法だ。
もう少し時間があればもっと形になった喧嘩方法を仕込む事が出来たが、急場はこれで凌げる十分な戦術だ。
残り9人程度だっただろうか。遂に戦局が動いた。
「もういい。これ以上の流血は見苦しいわ!」
甲高い喚き声に香水臭い匂いを振り捲いて前にそいつが出てきた。
ボーイスカウト部の部長の喜島幸男だった。
「ようやく本命の登場かい。ええ?! 面白くなってきやがったじゃねえか!」
俺は止まらぬ武者震いに脳が痺れる。煙草もまだまだある。喧嘩は続けられる。
上を脱ぎ捨て女になりたいのか、それともボディービルダーになりたいのかよく分からないちぐはぐなその見た目のガタイ。
程よく肉が乗って筋骨隆々とまではいかないモノのマッチョと称するには十分すぎる筋肉がその体には搭載されていた。
『ここで出てきた! 今迄の番狂わせ。阻止なるかボーイスカウト部! 部長の“
騒ぎ立てる放送部の声に、観客も更に歓声がデカくなった。
会場が観客の声で震えている。
途轍もない声の音圧に骨の芯から震えてくる。これだけの歓声、きっとこいつは強いんだ。そう感じえて歓喜した。
強いやつとは何度もやり合った。それこそ死ぬかもしれないと直感できるほどに。
でもこれはそのどれとも違う異質な感覚。挑戦者としての心境なのだ。
殺し合いではない、喧嘩としての初めての俺の挑戦だった。
「エレガントに──そしてビューティフルに!」
そう言った喜島は態勢を低く、にじり寄ってきた。
素早い! 一瞬だが反応が追い付かなかった。だが動きは理解できた。
「ッシ──」
喜島の動きに任せて俺は前蹴りをそこへと置いた。
この速度で来るのなら蹴らなくていい。そこへ足を持っていけば勝手に相手が被弾する。──そう思っていた。
「駄目ッ!」
鮫島の悲鳴にも似た声、そして俺は気づく。
──足が動かない。
「捕まえたわぁ」
「クッソなんだ」
足が動かない。いや、正確には動かせなかった。そこへ置いた前蹴りの足がその空間に糊付けされたように固く縛り付けられた。
このクソカマ男が俺の足を掴んだのか? ──当たらずしも遠からず。
その足を縛り付けていたのは──髪の毛! 。
「うっ、動かねえ」
「当たり前でしょうぉおおおぅウウウウッ!」
力任せに喜島が俺の足に絡みついた髪の毛を手繰り寄せた。
何て力だ。俺の姿勢が崩れて倒れてしまう。
倒れた瞬間──ヒュンと風を鋭く切る風切り音が耳を掠め、次の瞬間だった。
「いっ──てぇえエエエエッ!」
俺の胸板が血を吹いた。
この痛み今迄感じた事がない──殴られた痛みとも違う、刃物の熱い感触とも違う。
この感触は、張り手──いや、それよりも鋭い。
痛みの箇所を見ればドデカイ鯨包丁で切り裂かれたような裂傷が袈裟懸けにあるではないか。
どうやって、確実に人の『腕』では無理だ。これを可能にしたのは。
「うふふふふっ。獣には調教しか手はないわ!」
これも髪の毛であった。足を絡め捕った髪とは別の個所をプラスティックの髪留めで一束にして鞭の如く扱っているではないか。
これを力強く振って肉を打ったのなら──それこそ鞭の威力となる。
鞭を舐めてはいけない。一流の鞭使いの繰り出す一撃、その先端は
その鞭に髪を選んだのは喜島の天稟か、それとも誰かの入れ知恵か。
髪の毛は重量比強度で比較すれば鋼鉄並みの匹敵する強度を持ち、尚且つ引っ張った際の伸縮性は1.5倍と非常に断裂しにくい性質を持っている。
所詮髪の毛、と侮ってはならない。2009年には髪の毛だけで8トン以上ある乗用バスを30メートル近く引っ張ったというギネス記録があるくらいだ。
「く……っそが──っ!」
『押されている押されている! 注目の超新星轟タケルが押されているぞ!』
五月蠅いうるさい。こっちは死ぬほど痛い思いをしているというのに観客というのは本当に呑気な奴らだ。こちとらそんな気も起られねえほど切羽詰まった状態なのに歓声と来たか。
倒れた俺に景気よく振り下ろされる打擲の
腕で顔を固めて体を丸めて防ぐが、この痛みは別格──殴られるのとも切られるのとも違う質の違う痛み。
ジリジリとにじり寄ってそして──。
「到着よぅ……さぁお寝々の時間よ!」
動けない俺を良い事に威勢よくマウントを取ってくる喜島。
こいつ馬鹿か。距離を詰めたなら不利になるのは喜島の方だ。何せ長物の得物である
自ら有効範囲を殺してマウントを取る意味が見えず、俺は歓喜した。
「クソホモ野郎がッ! 死ねぇッ!」
大振りのインフォメーションパンチだが下から俺は腕を振り喜島の顎先を打ちぬいてノックダウンだ! 。
だが──失策。
『決まった。決まり手だ! ボーイスカウト部部長喜島幸男の得意技だ!』
放送部の連中の話をよく聞けばよかったと今にして後悔する。
コイツについた渾名を俺は聞いていたが流していた──。
そう喜島幸男の渾名──。
「眠りなさい!」
──“
締め技に特化していたのだ。
マウントを取ったのも当然の事。この鬱陶しく絡みついてくる髪の毛を武器に俺の頸に素早く巻き付け締め付けてくる。
息が出来ない。顔に血が溜まっていく感覚が分かる。
目が飛び出そうなほど見開いて、気道を確保しようとするが髪の毛が首に食い込んで掴むこともままならない。
ヤバい……落ちる……。
「轟君!」
「貴方は黙って見てらっしゃい!」
超長大な射程距離を誇る
「ぐ……がっ──ひゅ──」
視界の端から明滅する明るいのか暗いのか分からない闇が俺に押し寄せてくる。
異様に頸動脈の脈拍が強く感じ、思考が──さだ──まら──な──。
『落ちた! 超新星ここに落ちた! 注目株の轟タケルこのに撃沈だー!』
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