第2話 「白昼夢」
夢というものは、己の記憶を整理する中で作られるものだと言われることもある。
もしも行ったこともない場所の風景を繰り返し見るならば、注意した方がいい。
それは、貴方が忘れ去った遠い彼方の記憶の風景かもしれないのだから。
◆◆◆◆
夢をよく見る。
それもほとんど同じ内容の夢だ。いつから見るようになったのかは思い出せない。
気が付いた頃には週に何度も見るようになっていた。
夢のはじまりにある風景は、いつも最初違うものだ。まわりが着物ばかり着て、建物も日本家屋ばかりの時もあれば、現代と同じようにビルなどが立ち並ぶ風景の時もある。
そして夢の中の自分はそんな風景に疑問を持つこともなく、いつもどこかへ向かっていた。
少し不思議なのは途中まで周辺の景色も道もいつも違うのに、ある場所から急に同じ場所になっている点だ。
閑散とした川沿いの道を歩き、その先の四辻を右に。そのまま裏路地を奥へ奥へと進むと、決まって趣深い古本屋がある。
その店で入口近くの本を眺めていると、いつも綺麗な女性が奥から出てきて声をかけてくれるのだ。
その女性の名前は確かに聞いたのだが覚えていない。だが、その姿はしっかりと覚えている。
長く艶やかな黒髪に桜色のリボンを結び、レースの細かい装飾が綺麗な白いブラウスの上から着物を着ていた。ぱっちりとした大きな目に薄くリップを塗った顔は大変な美貌で、まるでファッション誌にいるモデルや有名な女優の様にとても綺麗で存在感のある人だった事も一因かもしれない。
そんな彼女は僕が店先にいると決まって声をかけて、楽しく会話に花を咲かせてくれる。
それだけではなく、もっとゆっくり話をしたいからお茶とお菓子をご馳走すると言って店の奥へ招いてくれるのだ。
しかし、店の奥へ行く途中やちゃぶ台に座ってお茶を出して貰う間に、何故か決まって邪魔が入る。
邪魔をしてくるのはその古本屋でいつも店番という名の昼寝をしている青年だ。女みたいに伸ばした髪を赤いリボンで結わえており、顔はそれなりに整っている。恐らくだが、制服を着ているためまだ学生。つまり自分より年下の可能性が高い。
彼女との関係が気になり、直接聞いたこともあるが、別に恋人でも何でもないらしい。
だが、奴は毎度イラついた顔で「帰れ」と僕の背をぐいぐいと押し、店の外まで追い出し無理矢理帰らせるのだ。もしかすると片思いをしていて僕のことを邪魔だと思っているのかもしれない。
彼女との時間はただでさえ至福のひとときだというのに、お茶を飲みながら語るという最高の時間を毎度のごとく奪っていく。思い出してまた腹が立つ。
「ほんとに何なんだあいつめ……」
次に会ったら覚えてろよ、と何度目かわからない決意を心の中でした。
◆◆◆◆
休日の朝はテレビをつけながらコーヒーを飲むに限る。
ここのところどうにも疲れが取れないからか常に眠く、すっかりコーヒーが手放せなくなってしまっていた。香りも味も好きだが、飲みすぎないよう気を付けなければと思いつつも嚥下する。
空になったコップを眺めながら、することもないのでよく見る夢のことを考える。何度も同じ夢を見るのは一体どうしてなのだろうか。ぼんやりとしながらも考えていると、つけっぱなしのテレビから気になる言葉が聞こえてきた。
『つまりですね、夢というのは脳が寝ている間に記憶を処理している過程で見るものなんです!夢の中で見たことがない風景に出会ったとしても、それは大抵行ったことがあるのを忘れているか、写真や映像で見たものが出てきていることが多いんですよ』
フリップを手に持った男が説明する内容に思わず息をのむ。
「行ったことを忘れている……」
その言葉に何故かわからないが納得する自分がいた。
写真や映像で見たにしては自分の夢は随分とリアリティがあった。川沿いの道までは道順が違うものの道が繋がっていないだとか曖昧ということもない。
何より肝心の古本屋周辺の道は起きている今でも簡単に脳裏に思い描くことが出来る。武家屋敷のような古い門構えの家や滅多に見かけない木製の電柱に丸いポスト、他にも裏路地にある看板。どれもが現地に赴いたことがある以外、説明のしようがない程に鮮明だった。
「仮に行ったことがあるとすると、少なくとも近所じゃないよな」
自宅周辺は駅からほど近く、それなりに開発も進んでいる。町内会の付き合いでごみ拾いなどもしたことはあるが、日本家屋や川沿いの道は見た覚えがない。
だが町内にないとしても心当たりが一つだけある。幼少の頃に家族と住んでいた隣町だ。おぼろげな記憶だが、木造住宅や日本家屋など古い建物が多かったように思う。
「そこまで離れていないし、散歩ついでに行ってみるか」
テレビを消し、早速出かける準備をすることにした。
◆◆◆◆
隣町まではそこまで離れておらず、電車に揺られて三十分ほどで到着した。
久しぶりに降り立った駅は改築され、見た目も随分と変わっていた。今の場所へ引っ越してから、この町には一度も来ていない。まぁ、改築もされるよな、と納得した。
同時に嫌な想像もしてしまう。夢で繰り返し見た光景が本当にこの町にあったとして、駅と同じように改築されていないだろうか。いや、改築だけならまだいい。道も見失わないだろう。仮に更地になって消えていたらどうしようか。祈るような気持ちで改札を出て、以前住んでいた方向へ足を進めた。
幸い、駅前から以前住んでいた家周辺への道は目印となる建物があったことでほとんど迷うこともなく歩くことが出来た。曖昧な記憶でも案外どうにかなるものである。
更にそこから日本家屋が見え、知らない道ながらも見に行ってみると、ぽつりぽつりと点在する日本家屋を見つけることが出来た。どうやらあまり開発のされていない区域までやって来ることが出来たようで、立派な門構えの家やレトロチックな洋館もあった。
「この調子で辿って行けば、案外すぐ見つかるかもしれないな」
計画もせず歩き回っているが今のところ順調だ。今日中に見つかるのではないかと楽観的な考えも浮かぶ。
だが、その考えがいけなかったのかもしれない。
古い石畳のある洋館や景色を眺めながら、見覚えのある風景がないかと歩いているうちに奥まで行きすぎたのか、だんだんと細い道が入り組んだ場所へ迷い込んでしまった。
周囲の高い塀に遮られ、目印にしていた建物も見えない。普段そこまで人通りのある道でもないのか、少し経っても誰にも出会わないため現在地もわからない。八方塞がりの状態に頭を抱えそうになる。
しょうがないのでこの路地裏のように光がほとんど差さない場所を道なりに歩き、太い道路を目指すことにした。太い道路の電柱には大抵、番地や看板が貼ってあるので、現在地がわかるかもしれないという考えもあった。
しかし、悪いことは重なるものである。
「真っ昼間のはずなのに霧が出てくるなんて、ついてないな」
自分の周りはある程度見えるため歩くことに支障はないが、五十メートル先は完全に乳白色に覆われてしまっていた。
ただでさえ迷っている状態で見通しも悪くなり、焦る気持ちからか自然と早歩きになる。
それから歩いて、歩いて、歩き続けて二十分ほど経った頃だろうか。霧も薄れ、ふいに視界が明るくなった。閉塞感もないことから、どうやらあの細い道を抜けたらしかった。もしや太い道路に出たのではないだろうか。それならば電柱を探そうと霧で足元ばかり見ていた僕は顔を上げ、そして目に入った光景に思わず息をのんだ。
そこは、夢で見た川沿いのあの道だった。
思わず川に近寄って景色を確認する。鉄製の洒落たデザインの欄干に川沿いの道に街路樹として植わっている柳の木。木製の電柱。円柱状のポスト。武家屋敷のような立派な門構えの日本家屋。全てが夢で見たままの風景だった。
まさか、と思いながらも夢で見たとおりにまっすぐ川沿いを進んでいく。しばらくすると憶えていた通りの四辻があった。
「やっぱり、本当にある場所だったんだ」
ようやくたどり着けた実感から口角があがる。先程まで迷っていた不安や疲れがどこかへ飛んでいくような気持ちになった。
確信に変わったことで足取りも俄然軽くなる。四辻を右に曲がり、そのまま日の差さない路地裏に入る。裏路地の割に広い道の奥には、記憶の通りに趣深い古本屋があった。
やはり、ずっと昔に何かで訪れた事を忘れて、夢の舞台になっていたのだろう。そんなことを考えながら古本屋に近づく。入口のガラス戸は半分ほど開いており、どうやら営業中のようだった。
折角だしどんな古本があるのか見ていこう。わくわくした気持ちで入口近くの本を眺める。どうやら幅広いジャンルを取り扱っているようで、随分と古い海外小説の翻訳本もあれば最近のドラマのノベライズ版もある。よく見ればライトノベルと呼ばれる本まであった。古書には詳しくないが、探せば絶版本や希少本もあるかもしれない。
他にはどんな本があるだろうか、と考えながら今度は入口より奥にある本棚を目で追う。何か面白そうな本があれば購入しようと探していると、ふいに横から声をかけられた。
「こんにちは。お会計は奥で承っております。もしも良い本と巡り会えたら、机がある所までいらして下さいね」
にこり、という効果音が似合いそうな柔らかな笑みを浮かべて、一人の女性がこちらを見上げて立っていた。
その姿と声に瞠目する。
艶やかで長い黒髪。ぱっちりとした目元。レースがふんだんにあしらわれたブラウスに大柄の着物。
──それはまさしく、夢の中で何度も出会った彼女に間違いなかった。
驚きのあまり動きの止まった僕をよそに彼女は何か話しかけてくる。が、正直耳に入ってこない。しばらく頭の中で実は都合の良い夢なのではないか、と考えていると眉を下げしょんぼりとした彼女が申し訳なさそうに頭を下げた。
「あの、驚かせてしまったようで申し訳ありません。ここのお店は本棚で通路を作っているので、入り組んでいて……。お会計の場所をお伝えした方がよろしいかと思ったものですから」
その姿にはっとし、慌てて自分も頭を下げる。何か言わなければと口を開く。
「こちらこそ黙ってしまい申し訳ない。その、あまりに綺麗な方だったので……」
するりと口から出た言葉に頭を抱える。気持ち悪がられたらどうしようかと内心慌てていると「ふふ」と笑い声がする。おそるおそる頭を上げると、彼女は両手を口元にあててころころと笑っていた。
「ふふ、お上手ですね。ありがとうございます」
とてつもなく可愛らしいその姿に胸がときめく。
最初は夢だけの存在だと思っていたが。折角目の前にいるのだ。もっと会話をして、彼女のことを知りたいと願った。叶うならばずっと話していたい。
そう考えたところではっとする。今までの夢のパターンから考えると、彼女からお茶に誘われるまでに必ず奴の邪魔が入る。
ならば、先手を打ってお茶に誘われる時間を先延ばしにすればいい。そうすれば長く話せる。そう考えた僕は早速声をかけることにした。
「古書店に来るのは久しぶりで。どういった本があるのか教えていただいてもよろしいでしょうか?えーと、なんとお呼びすれば」
「柳本櫻子と申します。どうぞ、櫻子と呼んでくださいませ」
「では、櫻子さんと。僕は石立祥真と言います」
「では石立様。……今見ていらっしゃる棚は国内の著名な方が書かれた本が多いですね。同じ本でも版数が違ったり、時代によって文字表現を直していたりするものもあります。たとえば……」
白魚のような指が変色した背表紙をなぞり、二冊の本を棚から抜き出す。そしてそれぞれのページをぺらぺらとめくると片手に一冊ずつ持ち、こちらに見えるようにかざした。
「石立様から見て右の旧版は執筆当時の古い本なので、漢字や送りがなは以前のものを使用しています。セリフの言い回しも発表当時のままですね。そして、左の新版にも同じ内容が書かれていますが、言葉遣いも含めて変わっていますでしょう」
「本当ですね。同じ本の読み比べはしたことがないので驚きました。櫻子さんは古書店で働いていらっしゃるだけあって、知識も豊富なんですね」
「買い被りすぎですよ。お客様もあまりいらっしゃらないので、たまに私も読んでいまして。そのなかで偶然見つけたのです」
少し恥ずかしそうに彼女が告げる言葉に成程な、と心の中で頷く。蔵書数は凄いが駅から随分離れているし、おそらく穴場なのだろう。
「静かな場所でゆっくり本を選べるので、古書店としてはぴったりの場所ですね」
是非また来たい。そう続けると櫻子さんの顔が輝く。
「あまり繰り返しいらっしゃるお客様はいないので、とても嬉しいです。その時にはまた話し相手になって下さいね」
「勿論ですよ」
「ありがとうございます!」
「そういえば、このお店の名前って何ですかね?実は散歩中に見つけたので寄らせていただいたんですが、道に迷いながら来たもので。次に来るときのために教えていただければと思いまして」
頭を掻きつつ伝える。すると櫻子さんは持っていたメモ帳にペンでさらさらと書いてこちらに見せながら口を開く。
「お店の名前は、はざま堂ですよ」
「憶えやすくていい名前ですね」
「私もそう思っております。それにしても、迷いながらだなんて大変でしたね」
「いやぁ、まあ。でもおかげで素敵なお店を知れたのでよかったです」
談笑しつつ本棚を見上げていると、ふと気になった事を思い出した。
「そういえば、このお店の本は櫻子さんが集めたんですか?」
その言葉に櫻子さんは首を横に振る。
「いいえ。ここの本はほとんど店長さんが集めて持って来て下さっているそうですよ。古い家屋などで保存されていたものを買い付けされていると聞いたことがあります」
「どうりで古そうな本や珍しい本があるわけですね」
「えぇ。ただ、私は価値がわからないので、買い付け後の本の値付けはいつもキリサキさんに全てお願いしているのです。たまに大量に入ってきては、頭を抱えながら作業しているんですよ」
その情景を思い浮かべているのか、彼女はくすくす笑う。
「櫻子さん以外にもここで働いている方がいらっしゃるんですね」
「私は働いているというよりお手伝い程度ですけれどもね。やっていることも本の並べ直しやお掃除だけですし。考えてみれば、このお店の正式な店員はキリサキさんだけじゃないかしら」
「その、キリサキさんという方はいまどちらに?」
最低限の明かりしかない薄暗い店内は自分達の話声しか音がせず、僕と櫻子さんしかいないように感じた。もしキリサキがいなければもっとゆっくり話せると思い、思い切って聞いてみる。櫻子さんはきょとんとした後に苦笑いした。
「キリサキさんはいつもお店の奥で店番をしながら寝ているのです。石立様がいらっしゃる前も気持ちよく寝ていらしたので、おそらくまだお休み中でしょうね」
「昼間から櫻子さんに仕事を押し付けて毎日寝ているなんて……」
何て奴だ、キリサキ。そう思ったのが顔に出ていたのか、櫻子さんは慌てて笑顔でかばい始めた。
「元々長時間起きていられない方なのですよ。いざというときはちゃんと起きて対処もして下さいます。あ、後おすすめの本を教える力はピカイチです。後で起きたら是非聞いてみて下さいませ。本当に凄いのですよ」
「そ、そうなんですね。後で聞いてみます」
恐らく夢の中でいつも邪魔をしてくるあの青年はキリサキという名前なのだろう。ただ、邪魔をしてくる奴のことをこれ以上聞いてもしょうがないので、適当に返事をして話題を切りあげることにした。
その後も櫻子さんとの立ち話は続いた。
彼女は大正浪漫と呼ばれる装いをしているだけあり、大正文化がことのほか好きらしく、当時流行ったものにもとても詳しかった。女性の、しかも大正時代の文化はまったくわからなかったが、きらきらと瞳を輝かせながら話す彼女に時折相槌をしながら話を聞いているだけで、とても楽しかった。
しばらくすると、おもむろに櫻子さんが溜息を吐く。どうやら沢山喋って疲れたようだった。
「こんなに自分の好きなことを誰かにお話しできたのは久しぶりで。私ばかりお話ししてはしゃいでしまい、申し訳ありません。石立様はお疲れでないですか?」
「僕は大丈夫ですよ。櫻子さんの方がお疲れでしょう。ずっと立ちっぱなしでしたし」
僕のその言葉に櫻子さんはほっと胸を撫で下ろし、ついで何か思いついたのか僕の袖を引く。
「確かに立ち話は疲れてしまいますね。お時間よろしければ、座って続きをお話ししたいのですがいかがでしょうか」
「勿論、大歓迎ですよ。時間も大丈夫ですよ」
明日も休日だし大丈夫だろうと返事をすると櫻子さんはことさらに喜んだ。
「それでしたら喉も渇きましたし、お茶を入れますね。奥の座敷で一緒に飲みながらお話しましょう」
和菓子もあるのですよ、と彼女が微笑みながら先導して歩き始める。
俺はその言葉に「楽しみです」と返しながら彼女について行った。
迷路のように入り組んだ本棚の間を歩きながら、随分と長い間櫻子さんと話せたことに小さくガッツポーズする。
今まで見た夢ではここまで彼女と話せたことはなかった。もしかするとあの夢は予知夢のようなもので、彼女と長く話すためにはどうすればいいのか、方法を教えようとしていたのかもしれない。そんなありえないことを考えているうちに本棚を抜け、開けた場所に出た。
店の奥には、足元や壁、はたまた天井には大小さまざまな置時計や吊り時計、掛け時計が所狭しに置かれていた。
それだけではなく、カレンダーも壁が見えないくらい大量に貼られている。
何度か夢でも見たことがあったが、珍妙という言葉がよく似合う場所だと改めて思った。
更に珍妙なことがある。よく見れば、時計は時刻がどれもバラバラのまま動いており、カレンダーは年月がちぐはぐのままにされて貼られていた。売り物かとも思ったが、値札も見当たらず、そういうわけでもないらしい。そして、そんな時計とカレンダーに囲まれるようにしてまた異質なものが室内にはあった。床に直接置くには随分と立派な社長机と古本屋には似つかわしくない深紅のデザイナーズチェアである。社長机は足元も机の上も本が山積みになっており、少しでもこちらがぶつかれば雪崩を起こしそうな状態になっていた。そして、そんな危険地帯で腕を枕にうつぶせに寝ている青年が一人。夢で何度も何度も邪魔をしてきたキリサキが惰眠を貪っていた。
随分と深く眠っているのか、寝息さえほとんど聞こえない。あまり大声で話さなければ起きることもなく、櫻子さんとの会話も邪魔されないかもしれない。
起こさないよう足音を忍ばせながら横を通り過ぎる。櫻子さんの元までたどり着くと「お気遣い下さりありがとうございます」と耳元でささやきながら靴を脱ぐよう促した。
足元の靴脱ぎ石に履物を置くと、座敷に上がり、ちゃぶ台の近くに置かれた座布団に座るよう言われた。言葉に甘えて座りつつ、お茶が出来るまでもう少し時間がかかるということなので小声で言葉を投げる。
「何だか駄菓子屋さんみたいな作りですね」
「ふふ、よく言われます。私は駄菓子屋さんにいったことがないのですけれど。そんなに似ているならいつか見てみたいですね」
「では、今度行きましょう!おすすめのお店があるんです」
「まぁ、本当ですか?嬉しい」
抑えながらもはずんだ声色にこちらも嬉しい気持ちになる。
そうこうするうちにお茶を入れ終わったのか、櫻子さんがお盆を持ってこちらへやってきた。目の前に置かれた湯飲みには美味しそうな緑茶が入っており、お茶請けの菓子皿には柘榴を模した和菓子がひとつ置かれていた。
「季節の練り切りです。お口に合うとよいのですが」
微笑みながら俺が食べるのを促す櫻子さんに一礼する。
「甘いものは好きですよ。いただきますね」
黒文字を手にとり、切り分けた練り切りを口に運ぶ。
────瞬間、後ろから手を押さえられた。
「食べるな」
底冷えするような冷ややかな青年の声が耳元で呟かれる。ぎょっとして振り向くと、声の主は眉根を寄せて苦々しい表情をしたキリサキだった。
「な、お前⁉」
あまりにも突然邪魔をしてきたことで驚きと同時に怒りが沸き上がる。どうにか手を振りほどこうとするが、よほどの力を入れているのかびくともしない。
キリサキは僕の事なんてまるで眼中にないかのように目の前の櫻子さんを見つめている。
「……櫻子さん」
「あら、起きたのですねキリサキさん。キリサキさんの分のおやつもありますよ」
キリサキの固い声を意に介さず、櫻子さんはにこにこと笑顔でお茶とお菓子をちゃぶ台の上に載せる。
「今はいりません。後で話があります」
ぴしゃりと言い切るその態度に櫻子さんは困ったように微笑んだまま何も言わない。
そんな姿に溜息をしながらキリサキは紫色の瞳でじっと僕を見つめる。
「お客様、お帰りの時間です。大変申し訳ないですがお菓子とお茶は諦めて下さい」
言葉少なにそう告げると握ったままの僕の腕を引っ張り、ずかずかと歩き出した。どうにか靴を履きながらも引きずられ、遂には店の外まで出されてしまった。
折角、彼女とお茶をしながら会話に花を咲かせられそうだったのに。先程は驚きが勝って出てこなかった怒りが腹の底から溢れ返った。
「なんなんだよ!櫻子さんとの逢瀬を邪魔してさ!仲良く話すのがそんなに悪いか⁉別にあんたの恋人でもなんでもないんだろう!」
腕を振り払って怒鳴る。キリサキは眉根を寄せてこちらを見るばかりで黙り込んだまま何も答えない。
「何か言えよ!理由もなくこんな事して説明もないってか⁉」
その言葉に何か思うところがあったのか何か考えるそぶりをした後、キリサキは口を開いた。
「……理由を言っても君は納得しないだろう。だから、もうここには来るなとしか僕は言えない」
「は?」
その言葉に目の前が真っ赤に染まる。思わず殴りそうになるが、拳を握りこんでどうにか抑えた。そんな僕のことは気にせずキリサキは言葉を重ねた。
「君がうちで本を買うだけなら何も言わないさ。櫻子さんと会話するのも……まぁ、目を瞑ろう。でも、飲み食いだけは許せない」
「自分勝手にも程があるだろう!別にお前に迷惑かけているわけでもないだろうが!」
「そうかもしれないね。でも、何度も君の相手をするのも、僕はうんざりなんだよね」
何度もという言葉に違和感を覚える。まるであの夢のことを差しているようではないか。何故夢のことを知っているのか。それとも夢ではなく、現実にあったことなのか。しかし、あの夢は毎度時代も何もかもがバラバラだった。現実のわけがない。
いや、今現実だと思っているだけで、僕は夢を見ているのか。
目の前のキリサキが言っている内容が理解できず、言葉だけが頭の中をぐるぐると回る。
その様子を見てキリサキは面倒くさそうに嘆息する。
「いいから、もう来るな。考えるな。何しても碌なことにならないからさ」
話はそれだけだと言わんばかりにそれきり黙る。そして俺の腕を再び掴むと、そのままずかずかと歩き出す。抵抗する暇なく、僕達は裏路地を抜けた。
急に明るい場所に出たからか視界が真っ白になり思わず目を閉じる。ふいに掴まれていた腕の感触がなくなり、薄眼で前を見る。前にいると思ったキリサキの姿が見えない。慌てて目を開いて周囲を見渡すがどこにも彼はいなかった。
しばらくして落ち着くと、今自分がいるのが隣町の自分が住んでいた家にほど近い道路だということにようやっと気が付いた。裏路地を抜ければ、行きしに通った川沿いの四辻に出るはずだが、あの景色はどこにもない。いまだ昼下がりの住宅街ばかりが目に映る。
「一体どういうことなんだ……」
思わず呟いた言葉に応える声は、誰もいなかった。
◆◆◆◆
古本屋「はざま堂」へ戻った僕は溜息を吐きながら目の前に座る櫻子さんを叱った。
「櫻子さん。僕は何度もだめだって言っているよね」
「……はい」
「生きている人が食べ物や飲み物を口にしたら
「キリサキさんは召し上がってらっしゃるでしょう?」
わざとらしく──まぁ実際わざとなのだろうが、小首をかしげて櫻子さんが潤んだ目で僕を見つめる。残念だがその手には乗らない。
「僕はいいんです。でも他の人は僕がOK出さない限り絶対だめです」
「キリサキさんのわからずや!」
ほっぺたを膨らませながら櫻子さんはつんとそっぽを向いた。
「わかっているから禁止しているんですよ」
そう自分で言いながら、複雑な気持ちになった。僕は櫻子さんのことは一応わかっているつもりでいる。
櫻子さんが生きていたのは大正時代。彼女は許婚だった男性と結婚する前に不幸にも事故で死んでいる。よほど相手のことが好きだったのか、未練があったのか。おそらく両方が理由だが、想いの強さ故に彼女は成仏出来なかった。
そして何年経っても許婚の男性を今もずっと待ち続けている。
死者の念は方向性を変えることは出来ない。年月とともに想いは増し、やがてそれは呪いに変じることも珍しくない。
僕は櫻子さんに生者をとり殺してほしくはないし、生者にもこちら側に関わって死んでは欲しくなかった。面倒事はごめんだ。
「と言うか、櫻子さん。わかっていて、やっていますよね」
この言葉も何度目だろうか。まったく頭が痛くなる話である。
額に手を当てる僕を見て、櫻子さんはうっそりとほほ笑んで言った。
「だって、何度生まれ変わってもあの人は私の
おわり
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