【期間限定公開】此処は四辻、出口は此岸。
夜ノ間
第1話「猫の通い路」
知らない道。細い裏路地。
もしも通るならば、日の昇っているうちにするといい。
何故ならそこは、猫の通い路かもしれないのだから。
◆◆◆◆
夏休みも過ぎ、一学期の頃と比べると通い慣れた中学校の帰り道をひとりで歩く。
仲のいい友人は気が付けば全員が部活動に所属しており、帰宅するときはいつも一人だ。本当は部活動に入りたい気持ちもある。しかし、入学当初に入部せず出遅れたため、今更入っても妙な居心地の悪さを感じてしまいそうで、未だにどこにも所属出来ずにいた。
「……元々の理由はそれだけじゃないけどな」
独り言つ自分の言葉に眉根が寄る。
家に帰るのを何よりも優先していた理由は他にあった。あったという過去形だ。
帰ると玄関先でいつもこちらを見上げるあのブルーの瞳も、自分の「ただいま」という声に「みやぁん」と返事をするどこか間の抜けた鳴き声も夏休み前に永遠に失われている。
あの時の帰宅早々に見た母の蒼白な顔と声が蘇り、偶然足に当たった石を蹴飛ばす。
「……馬鹿だな、俺」
立ち直ろうと藻掻くばかりで昔を思い出してしまう自分が、情けなくてしょうがなかった。変わることも出来ず、今も足は家へと歩を進めている。そんな今までと同じ自分の行動に溜息を吐く事しか出来ない。
考え事にふけりながら、帰り道を歩いていると、耳に何かが届いた。
負のループに陥っていた思考を切り上げ、耳をそばだてて聞く。どこからか猫の鳴き声がしているようだ。何度も聞こえるその鳴き声が気になり、鳴き声を頼りに、猫がいるであろう場所を探す。
「おかしいな。確かここら辺から聞こえたんだけど」
呟きながら周辺をうろうろとしていると、建物の隙間から何かが見えた気がした。
足を止めてよく見ると、建物の影と同化するように黒猫がいた。
黒猫はこちらと目が合っても逃げたりはせず、こちらを見上げながら「なぉん」と小さく鳴いてしっぽをゆらりと振っている。
「餌なんて持ってないぞ」
そう言いつつも餌をねだるにしては妙だな、と違和感を覚える。
幸い、ギリギリ人一人が通ることの出来そうな場所だったこともあり、入り口付近に鞄を置いてゆっくりと近づき、猫が何故鳴いているのか確認することにした。
少し近づいて初めてわかったが、黒猫は妙な座り方をしていた。まるでどこかを庇っているようだ、と思いながら黒猫の鼻先に指を近づける。人慣れしている猫のようだが、いきなり近づきすぎると逃げてしまうこともある。ゆっくりと猫のペースで匂いを嗅いで危険のない人間だと判断してもらうまで待つことにした。
こちらの意図に気付いたのか、黒猫はすんすんと匂いを嗅ぐとそのまま俺の手に顔をすりつけ始める。思った以上に友好的な様子にほっとする。鈴のついた赤い首輪をしているため、もしかすると飼い猫かここら辺で可愛がられている地域猫なのかもしれない。
「こんなところで何度も鳴いてどうしたんだ?」
語りかけながら艶やかな黒い毛並みを撫でていると、途中でべたべたとした何かが手に付く。気になってよく見ると、それは乾ききっていない血だった。
「おまえ、もしかして怪我して動けないのか⁉」
慌ててどこを怪我しているか確認するが、体毛が黒いこともあり傷の大きさがわからない。断りを入れつつ、負担がかからないように抱き上げると建物の隙間から出る。そして入り口に置きっぱなしだった鞄から入れていたタオルを出して黒猫に巻くと、一番近くにある動物病院がどこにあったかを必死に思い出しながら歩き出した。
◆◆◆◆
どうにか見つけた動物病院で見て貰った結果、黒猫はそこまで酷い傷ではないことがわかった。このまま様子を見ながら安静にしていれば後遺症もないらしく、獣医からその言葉を聞いた俺はひどく安心した。
ただ、何かが刺さっていたのか傷口は思ったよりも深かったらしい。当分の間は安静にしていた方がいいと言われた。また、つけた薬を舐めないためにもエリザベスカラーをつけての生活が望ましい、とのことだった。
その後、流れるように会計まで済ませたところで、はたと気が付く。怪我をしていることに気が動転して忘れていたが、飼い主に許可も取らずに治療してしまった。もしも薬品の副作用が出やすい体質や何らかの病気の治療中だったらどうしようかと血の気が引く。
とにかく飼い主へ連絡し事情を説明しようと、エリザベスカラーをつける時に外した首輪をポケットから取り出し確認する。
しかし、予想に反して首輪には何も書かれておらず、連絡先が登録されているマイクロチップかと思った鈴もただの飾りでしかなかった。
「……さっきの場所に戻って、住んでいる人に聞いてみるか」
それで駄目なようであれば、交番に事情を説明して、探している飼い主がいないか確認しよう。
腕の中でタオル越しに大人しく抱かれている黒猫は、唸る俺をきょとんとした表情で見上げていた。
◆◆◆◆
「だめだぁ~~~」
遠くの空が夕紅に染まる中、公園のベンチで頭を抱える。病院から出た後、黒猫を見つけた周辺に住む人に声をかけてはみたものの、誰も飼い主を知っている人はいなかった。
最寄りの交番へも行ってみたものの、入口の扉には『巡回中』と札が下げられており、どうやら誰もいないようだった。待たせてもらおうかと考えもしたが、怪我をした猫の体力も心配だった。
「もういっそ、家で一晩面倒見た方がいいかもなあ……」
ベンチの上で不格好に丸くなり寝息をたてている黒猫を見ながら、どうするのが最適か、ああでもないこうでもないと思案する。
結局、五分ほど考えたが結論は出なかった。いい加減疲れていたこともあり、ここで少し休憩しながら考えようと、すっかりぬるくなったスポーツドリンクを呷る。渇いていた喉には嬉しい水分だった。
「それにしても、今日一日で色々あったなぁ……」
せわしなく歩き回る羽目にはなったが、家に帰って鬱々と部屋に籠もることもなく、こうして過ごすのは久しぶりのような気がする。
それもこれも全部、黒猫にあったおかげだった。黒猫は福を呼ぶ、だなんて言われているが案外本当かもしれない。そう思いながらベンチの上を見ると、先程まで寝ていたはずの黒猫がいなくなっていた。
「───っ⁉」
どこに行ったのか、と焦っていると足元から「なぉん」と鳴き声が聞こえる。どうやら足元にいつの間にか移動していたようだ。
「おまえなぁ、安静にしてなきゃダメなんだぞ?ほら、こっちおいで」
怖がらせないようにしゃがんでから抱き上げようとするが、黒猫はするりと腕をかいくぐると公園の出口の方へそのまま進んでいく。
「ちょ、おまっ……‼」
ベンチの上に置いていたタオルと鞄を急いで抱えると、こちらの呼び声も無視して公園を出ていく黒猫を追いかけた。
公園を出た後、黒猫に着いていくような形で住宅街の道を走る。
黒猫は曲がり角や視界の通りが悪い道では時折立ち止まり、まるで追いかけて来ているのを確認するように、じっとこちらを見つめる。しかし、俺がある程度の距離まで近づくと、また好き勝手に進み始めていった。
その後もずっと走り続け、喉から喘鳴が聞こえるまで追いかけ続けていると、最初に黒猫と出会ったあの裏路地の前まで来ていた。
あたりはすっかり暗くなり、僅かに残った夕日の光も西の空から消えかけていた。完全に夜になれば黒猫は景色に同化してしまい、追いかけるのは難しくなってしまう。
なんとしてもすぐに捕まえなくては、と路地裏へ入っていく黒猫を追う。
しかし、重たくなった足では、もはや歩いているのと変わらない状態だった。黒猫はじっとその様子を見て、数歩先に進んでは止まるを繰り返しながら奥へ奥へと進んでいった。
裏路地は不思議と明るかった。おかげで見失うことこそなかったが、ついていくのが精一杯だ。吹き出る汗が鬱陶しくてしょうがなかった。
しばらくそんな状態が続き、迷路のように入り組んだ裏路地もずいぶん進んだ頃、霧が出てきたのか前が見えにくくなってしまった。それを察してか、黒猫はこちらの手が届かない、けれども見失わない絶妙な距離で歩いていた。
「完全にもてあそばれている気がする」
なぉん、と返事が返ってきた。意味は分からないがどこか不服そうな鳴き声だ。
「それにしても、寒いな……」
ぶるりと体を震わせる。この季節の夜にしては寒く感じた。汗をかいたこともあり、指先はずいぶんと冷たくなっている。
手を閉じたり開いたりして温めながらその後も歩いていると、唐突に裏路地から外へ出た。
等間隔で並んだ街灯のおかげで、ここは川沿いにある道なのだとわかった。石畳の敷かれた足元は先程まで雨でも降っていたかのように濡れており、街灯の光を反射していた。
見覚えのない場所に戸惑っていると、少し離れた場所から「なぉん」とまた黒猫の声が聞こえる。慌てて視線をそちらに向けると、街灯の明かりの下でまるでこちらを待つかのように座っていた。
小走りで黒猫の元へ向かうと、黒猫はまた少し先を行くように走っては止まった。そのまま川沿いの道をそのまままっすぐ進み、途中で右に曲がる。その先に続く道は少し太めの裏路地になっているようだった。
黒猫はその路地に入ると急にスピードを上げ、突き当りにある建物の入口からそのまま中へ入って行ってしまった。慌てて追いかけ、入口の前で立ち止まる。
その建物は何かの店らしく、ガラス戸の横には「はざま堂」と書かれた行燈が置かれていた。ガラス戸は猫が通れる程度に開いているものの、内側は分厚いカーテンが閉まった状態で営業中なのかがわからない。
日も落ちていることから、閉店しているかもしれない。しかし、カーテンの隙間からは僅かながら明かりが見えた。
もしかしたら残っている人がいるかもしれないと考えた俺は、とりあえず確認しようとガラス戸に手をかけ、外から呼びかけることにした。
「ごめんください」
返事はない。
「ごめんください!」
先程より大きな声を出すが、やはり返事はない。
「すみません!聞きたいことがあるんですが!」
声を張り上げて呼びかけるが、誰も出てこない。
一時的に留守にしているのか聞こえていないのかと考えたその時、奥の方から何か重たいものが落ちる音が続けざまにした。誰かいるようだが、こちらへ来る気配はない。聞こえていないのだろうか。
どうしようかと逡巡する。今いる路地に入る前に通った先程の道には立派な日本家屋が何軒か建っていた。近くの住人ならばこの店の事情を知っているかもしれないが、明かりもなく誰かいるようには思えなかった。
「中に入ってもう一度声かけるしかないよな……」
黒猫を追いかけて闇雲に来てしまったため、現在地もわからない。黒猫もお店の中に入っている今、他に方法を思いつかなかった。
「し、失礼します」
申し訳ないと思いつつ、ガラス戸を引き中へと足を踏み入れる。カーテンをかき分けて薄暗い店の中を見渡すと、沢山の本棚が目に映った。おそらく本屋なのだろう。
本棚は普通の店とは違う並び方をしていた。誰かいないかと進んではみるものの、まるで迷路のように蛇行してなかなか店の奥へたどり着くことが出来ない。
どうしてこんな並べ方をしたのかと呟きながらも歩いていると、どこかで嗅いだことのある匂いが鼻をかすめる。どこか懐かしく、甘く上品な匂いだった。
ようやく本棚の通路から抜け出すと、物がごちゃごちゃと置かれた空間に出た。何が置かれているのかと見ると種類は多いもののどれも時計だった。足元や本棚の空いた場所、壁、天井……所狭しと多種多様な時計が針を動かして並ぶ光景は、まるで時計屋のようだった。
それだけではなく、本棚の置かれていない壁にはこれまた大量にカレンダーが貼られていた。こちらも日めくり方式のもの、月ごとのものそれぞれが大量にあった。どれも書かれている日付はバラバラで、本当の日付を探すのが大変な状態になっている。
「本屋じゃなくて骨董品店なのかな……」
足元に気を付けつつ奥へ進むと大量の平積みにしてある本に囲まれて、校長室で見るような立派な社長机と妙に目立つ赤いデザイナーズチェアが床に直接置かれていた。机の上も散乱しており、平積みのほんの一部はバランスを崩したのか足元に落ちている。
机の側に置かれた背の高いシェードランプのおかげで、本棚付近に比べると店の中がよく見える。しかし、相変わらず人の姿は見えない。
先程の物音は一体何だったのだろう、と考えながらもう一度あたりを見渡す。すると、本に埋もれるようにして、机の上に人の頭があった。
驚きで叫びそうになりながらも、どうにか声を喉に押し留める。深呼吸をしてゆっくりと息を整えてから改めて確認する。どうやら机に突っ伏して寝ているだけのようだった。
ようやっと見つけた人の姿に安心しつつ、とりあえず起きてもらおうと、そっと呼びかけた。
「あのー、すみません」
気持ちよさそうに寝ている。しょうがないので、本を崩さないように気を付けながら肩を叩いて呼びかける。
「すみません、ちょっと起きて下さい」
微動だにしない。遠慮せず揺すらないと起きないように思えた。
「すみません!起きて下さいっ!」
ゆっさゆっさと肩を揺する。これで起きないないようならばどうしようかと思案していると、唸り声が聞こえてきた。もう一度声をかけると、寝ていた人はようやっと頭を上げた。
「……えーと、お客さんかい?悪いんだけど、今日はもう店仕舞いの時間なんだ」
目を閉じたまま間延びした声で言った人はそれなりに顔の整った青年だった。長い髪を後ろで結んでおり、背が低ければ女の子に見えそうだ。どうやらお店の人で合っていたらしい。
「勝手に入ってすみません。あの、この店の方、ですよね?」
「うん、そうだねえ」
半分夢の中にいるような声色に寝落ちしないかひやひやしながらも、事情を説明することにした。
「営業時間外にすみません。本を買いに来たんじゃなくて、その、怪我をした猫が逃げ出して、追いかけていたらこの建物の中に入ってしまって。それでお邪魔させてもらってます」
俺の言葉が意外だったのか、ぱちりと目を開けて青年は聞き返す。
「猫……?」
「はい、猫です。この位のサイズの黒猫で、怪我をしていて……って、いた!」
店の中でまったく見かけないと思っていた黒猫は、青年が寝ていた机の上にあるクッションの上でエリザベスカラーを少し邪魔そうにしながらスピスピと鼻息をたてて寝ていた。
俺の視線に気が付いたのか、青年が口を開く。
「あぁ、クロのこと?」
「え、ここの猫なんですか」
思わぬ飼い主宣言に驚く俺をよそに、青年はクロと呼んだ黒猫を眺めつつ言葉を続ける。
「そうだよ。・・・・・・もしかして、怪我していたのを病院に連れて行ってくれたのかな。ありがとう」
治療代いくらした?と続ける言葉にこたえつつ、帰り道のことを思い出して青年に質問する。
「あの、この店の近くの駅ってどこですかね?実は、追いかけるのに必死で途中の道まったくおぼえていなくて。日も暮れたので家にも一応、連絡入れたくて」
スマホは充電が切れてしまったのかうんともすんとも言わない。可能であれば電話も貸してほしい旨を伝えると、青年は少し困った表情になった。
「申し訳ないけど、電話は置いてないんだ。駅に行くにも慣れない場所で、しかも夜道だなんて危ないだろう。君のわかる道まで送って行く事なら出来ると思うけど、どうかな」
「それで大丈夫です」
連絡が入れられないのは残念だったが、親切な人で助かったと思っていると右手を差し出される。
「とりあえず、何か住所わかるものないかな?道を調べておきたいんだけど……そうだな、学校か家の住所書いてあるものないかな。あ、学生証とかある?」
確かあるはずだと鞄のポケットを探し、奥の方に入っているのを見つけた。入れたままにしていて助かったと思いながら学生証を出し、家の住所と学校の住所が書かれているページを開いて目の前の彼に渡した。
青年はそのページを確認した後、目を細めて唸り始める。
「あの、わからない地名でしたか」
「いや、どうにかわかりそうなんだけど……。何かいい目印はないかな?お店でも目立つ家でも、なんでもいいんだけど」
その言葉に学校帰りに通る道にある家を思いつく。
「少し離れたところに外壁がピンク色の家があります」
「それは目立つね。あまり行かない方面だけど、その家を目印にすれば多分大丈夫だと思うよ」
言いながら彼は椅子から立ち上がり、椅子の肘かけに置いていた羽織を着た。
「ちょっと戸締りとか支度をするから、少し待っててくれないかな」
「わかりました」
俺の返事に頷くと、彼は部屋の奥の方にある一段高くなった座敷にあがってどこかへ向かっていった。
支度を待つ間、何をするでもなく店の中を眺める。
あたりに飾られた大量の時計は、そのどれもがばらばらの時間を差しており、今が何時なのか全くわからない。だが、日が暮れてからそれなりに時間がたったことを考えると7時は過ぎているだろう。帰ったら何か言われるかもしれない。
家に帰ることを考えると、途端に気分が曇っていく。帰らなければいけないが、帰りたくない。そんなことを考えているうちに床がきしむ音と共に彼が姿を現す。支度が終わったらしい。
「それじゃあ、行こうか」
「はい。よろしくお願いします」
先導する彼の背を眺めつつ、僕は鞄を持ち直してついて行った。
◆◆◆◆
外に出てから支度をしたという彼の格好をあらためて見て、何とも言えない気持ちになる。学生服のような服装に着物の羽織を上から羽織っているのはまだわかるが、腰にはベルトに丸い金属製の何かをつけており、おまけに真っ赤な和傘を雨も降っていないのに差している。手持ちの明かりも懐中電灯ではなく提灯だ。
もしかすると、ちょっとセンスのズレた人なのかもしれない。先程までいた店の内装を思い出しながら、斬新だなぁと呟いていると彼に声をかけられた。
「あ、そういえばさ」
「は、はい」
「実は僕、あんまり目が良くなくて。部屋の中ならともかく、外だと君のこと見失っちゃうかもしれないんだ。だから、話をしながら歩いてもいいかな」
耳は悪くないから安心してほしい。そう言って微笑んだ彼の言葉に驚きつつも
「そうなんですか、わかりました」
とどうにか返事をした。
歩きながら話して気が付いたが、彼は存外色々な事を知っていた。理由があって学校には通っていないそうだが、頭も良く、宿題でわからない問題について話した際は、すらすらと答えを口にした。
そんな他愛のない話をしながら二十分ほど歩いた頃、彼は唐突に立ち止まった。
どうしたのかと声をかけると、少しの間をもって彼が口を開いた。
「……同じところをさっきからぐるぐる回っている」
「え、それは迷ったってことですか?」
「そう、だね。それに近い」
「じゃあ、近くの交番とか通りがかった人に声をかけて道を聞きましょう」
彼の煮え切らない言葉に疑問を持ちつつも提案するが、ゆっくりと首を横に振られた。
「……そんなもの、此処にはないよ」
「えっと、近くにないんですか」
「違うよ。存在しないって意味」
存在しないとはどういうことだろうか。彼のいた店に行くまでにも交番には行っている。存在しないということはありえない。
何故そんなことを言うのか疑問に思っていると、彼は盛大に溜息を吐いてからこちらに向き直る。
「できれば君には何も知らせず、戻ってもらおうかとも思ったんだけど。しょうがないか。ここには交番も普通に通りがかる人もいないよ。───あの世に近い場所だからね」
「はぁ?」
本格的に理解が追いつかない。中二病を患っているのだろうか。
「まぁ、信じられない気持ちはわかるけど一応言っておくね。君はあの世とこの世の間に迷い込んでいるんだよ。道案内してくれるお巡りさんも偶然通りかかる人もいない。いたとしてもよくないものだろうね」
ちなみに、と彼は続ける。
「僕は生きている人間を見ることが出来ない。あの店は特殊だから中に入ってきてもらえば見えるのだけど。だから今は、声を頼りに君の位置を確認している」
彼はつらつらと続ける。
「生きている人間が見えない代わりに僕の目はちょっと特殊でね。『視る』ことで色んな事情を把握することが出来る。この帰り道も君のことを『視て』一番安定したマシな道を探り当てて、君の学校近くの道に出るように案内していたんだよ。それなのに、途中から堂々巡りになった」
赤い和傘を差したまま彼が近づき、紫色の瞳が俺を刺すように『視る』。
「───君、家に帰りたくない理由があるんじゃないのかい」
思ってもみない言葉に思わずたじろぐ。図星だった。会ったばかりの見知らぬ、それもちょっと怪しい存在に言われたことに驚いて何も言えずにいると、彼が再度口を開いた。
「まぁ、僕は怪しいだろう。けど、笑わないし誰にも言わないから、言ってほしい。君が帰りたいけど帰りたくないのも、真剣に悩んでいることも歩いた道の具合から察するぐらいは出来るから。ゆっくりでいい。君の言葉で教えてくれないかな」
声色は程よい柔らかさだった。彼の表情はとても真剣で、何故だか彼が言っている荒唐無稽な言葉が真実なのかもしれないと、そんな風に思えた。
そして、誰にも言えずにいた言葉が口から溢れた。
「……猫を飼っていたんだ。目が青くて、全身が黒くて、足と尻尾の先だけが白い猫。家族みんなで可愛がっていた。俺に一番なついていて、いつも一緒にいたんだ。だけど、昔から一緒にいたから……二か月前に老衰で死んじゃってさ。そうしたら、何にもやる気が起こらなくなった」
虚無感が胸を占める。帰っても玄関先にあの小さな相棒の姿はない。廊下にも部屋にも『ここにいた』という痕跡が散らばっているのに、どこにもいない。
「そうしたら、家にいるのが辛くなったんだ。でも、部活に入ってるわけでもないし、趣味もない。何もする気力が起きなくて、家でもぼんやりしてた。そしたらさ、親が俺に言うんだ」
こみ上げる涙をこぼさないよう、しゃくりあげながら俺は続ける。
「『あの子もいつまでもあんたがそんな状態だと浮かばれないでしょ。気持ちを切り替えるためにも、別の子を飼わない?』って!」
町内会の回覧で回ってきた、生まれる予定の子猫の引き取り先を募った記事を掲げてあいまいに微笑む母の顔が浮かぶ。その言葉にも態度にも言いようのない怒りが胸中に渦巻いて仕方がなかった。
「あんなに皆で大事にしていたのに、死んだら俺しか悲しんでいないように思えてしょうがなかった。そんなことないって頭ではわかってるよ。でも、俺以外の家族全員があいつのいない生活にどんどん慣れていくのが哀しくて。……そしたら段々、親と顔を合わせるのも辛くなった」
耐えきれなくなった涙がぼろぼろと落ちる。
「俺は、あいつのいない家に……帰りたくない」
止まらない涙を乱暴に拭っていると、彼は何も言わずにハンカチを差し出してくれた。それで涙をぬぐい、少しだけ落ち着いた頃、彼が静かに口を開いた。
「君は誰よりもまっすぐに、その猫に向き合っているんだね」
それだけ愛されたら猫冥利に尽きるだろう、と長い髪を揺らして彼は微笑んだ。
その言葉にまた涙腺が緩みそうになる。その気配を察してか、彼は言葉を続けた。
「少し寄り道をしていこうか。しばらく落ち着いて、帰る気持ちになったら家の近くまで送るよ。寄り道先を案内してくれる子がいないか探すから、ちょっと待っていて」
彼は持っていた赤い和傘を目印だと言って俺に持たせるとすたすたとどこかへ向かって歩きだした。十分ほど経ち、少し心配になった頃、ようやく戻ってきた。
「お待たせ。ちょうどいい子がいたから行こうか」
傘を俺から受け取りながら、彼は視線を下に向ける。
足元を見ると、小さな光がふわふわと地面すれすれで浮きながら俺の足にじゃれついている。驚いて動けない俺には気付かず、彼はにこにこと笑顔で小さな光を撫でていた。
ここがあの世に近いという言葉を急速に思い出し、思わず天を仰ぐ。
「……大丈夫かい?」
あまりにも動かなかったためか、声をかけられる。我に返って前を見ると、彼のポニーテールにして結んだ髪が気になるのか光がふわふわと飛び回っていた。
「どうにか。というか、行くってどこにだよ……ですか」
「無理に敬語でしゃべり続けなくていいよ。まぁ、良い場所だよ」
光が飛んでいく方向に案内されながら細い路地を抜けると広い場所に出た。川沿いの道とはまた別の場所のようで、案内してくれたものと同じような光が沢山行き来しており、随分と明るく賑やかに思えた。
道の端では祭りの夜の屋台のように、何かを売っている。遠目で見る限り食べ物ではなさそうだ。
初めて見る光景に目を凝らしながら観察していると、彼は案内役の光から何かを受け取った。そして、屋台を目で追ううちに探している店を見つけたのか俺に話しかけてきた。
「あのお店にちょっと一緒に行こうか」
「それはいいけど、何を売っている店なんだ?」
「毛皮屋さんだよ。特にここは猫専用」
絶句する俺をよそに、彼は屋台車の向こうに立つ商人に声をかけた。
「久方ぶりかな。場違いな客で申し訳ないんだけど、そこまで長居はしないからここで商品を見ていっていいかな?」
「おやぁ、珍しいお客様だ。キリサキの旦那に人間の坊主とは。いえいえ、貴方様の事ですから事情があるのでしょう。どうぞ存分に見ていってください」
答えた商人は中学生くらいの背丈をした恰幅のいい二本足で立つ猫だった。妙に渋くていい声をしており、日本語を話しているがまごうことなく猫だった。
そして何より気になったのは───
「キリサキって名前なのか、あんた」
「そういえば名乗ってなかったね。うん、そう呼ばれているよ」
呼び捨てでいいよ、と笑いながら彼は屋台の毛皮を見て回っている。
「キリサキは何でここに来たんだ?」
「言っただろう、寄り道だよ。猫を大事にする君に、知らない世界を見せてあげようと思ってね」
その言葉に返事をせず毛皮を見ていると、キリサキは言葉を続けた。
「猫には魂が九つあるだとか2つあるだとか、迷信があるのは知っているかい?ことわざでも『好奇心は猫をも殺す』なんてあるけど、言葉通り猫はいくつも魂を持っているんだ。一度死んだ猫は、記憶は引き継げても体は引き継げないから、次に生まれ変わる時のために毛皮をここで買っていくんだよ。人生の……いや、猫生の一張羅を。それからもう一度現世に行くんだ」
ここは通過点なのだと説明するキリサキの言葉に「初めて知った」と返事をする。猫の毛皮にそんな秘密があるとは思わなかった。
ぼんやりと屋台の毛皮を眺めていると目の前を小さな光が横切る。光は、店主から毛皮を受け取ると大事に抱えるようにして、どこかへと向かっていった。その後ろ姿を目で追っているとキリサキと目が合う。
「ねぇ、君はどの毛皮が好き?この中のどれが一番好み?」
「なんでそんな事を俺に聞くんだ?」
俺の質問にキリサキはつやつやした何かを見せながら答えた。
「実は、先程の案内してくれた猫に毛皮を買ってきてほしい、とおつかいを頼まれていてね。お代もこの通りすでにもらっているんだ」
「なら、キリサキが選んで買えばいいだろう」
なんで俺なんだ。そう言うとキリサキは「僕じゃぁ意味がないんだよ」と笑った。
その言葉に首をかしげる。いったいどういう意味なのかわかるように言って欲しいと頼むと、彼は微笑みながら口を開いた。
「……君が猫を大切に思っていたように、君の猫もまた、君がいっとう大事なんだよ」
「だからわかるように言えって。どういう意味だ」
「今選んでいるのは、君の猫が次に纏う一張羅だよ。君の猫は、君の選んだ毛皮で、君ともう一度出会い、次の一生を君と過ごしたいと願っている」
呼吸が、止まった気がした。
キリサキが、何と言ったのかをもう一度ゆっくりと頭の中でかみ砕く。
俺はその中で先程の会話をを思い出す。キリサキは、案内してくれた猫に毛皮を買ってきてほしいと頼まれた、と言っていた。
まさか、まさか───
「さっき、俺たちを案内してくれたのは、あいつなのか……?」
「君好みに着飾って会いに行こうとしてくれるなんて、愛されているね」
キリサキは肯定も否定もしなかった。けれども、その言葉が何よりの答えだった。
毛皮屋の屋台に向き直り、たくさんの毛皮を眺める。一番あいつに似合うものを見つけようと手に取りながら、あれでもない、これでもないと探し続けた。
やがて一つの毛皮に目が留まった。
何故か確信があった。
これなら、きっと一生、気に入って身にまとえる毛皮だと、思った。
震える手で指を差す。
「これにする。きっと、いや絶対これが似合う」
キリサキはちらりと俺の手元を見ると、何も言わずに満足げに頷く。
「店主、勘定をお願いしていいかな。決まったよ」
キリサキは羽織の内側から先程のつやつやしたものを取り出すと店主に渡した。それを受け取った店主はキリサキと目を合わせると俺の方へ向き直り、購入した毛皮を俺に渡した。
「君が渡してあげなさい」
「勿論です」
力強く頷くと、俺はキリサキと共に案内をしてくれたあいつの場所へ戻った。
屋台から少し離れた、他の光のいない場所でぽつんと宙に浮かずに待っていた。
俺はその姿に玄関前で帰りを待ってくれた姿を思い出し、駆けだした。光は俺に気が付くと少しだけ近寄って静止する。
「ミア、お前なのか」
しゃがみながら震える声で聞くと、「みやぁん」とどこか伸びた猫の声が聞こえた。
ずっと聞きたかったその鳴き声にあふれ出た思いが目の前をぼかしていく。
「ミアの、次の毛皮を選んできたんだ。あの、あのさ、ミア……」
最期の時を一緒に過ごせなくてごめんだとか、言いたいことはいっぱいあった。でも、今言わなきゃいけない言葉はひとつだけだと飲み込み、みっともなく泣きながら毛皮を差し出した。
「次も、俺と一緒にいて、くれるか……?」
「みやぁん」
嬉しそうに一鳴きすると、差し出した毛皮をミアはそっと抱えるようにしていた。
「ありがとうな。また、会おうな」
そっと光に触れるとじんわりと温かい。その温かさにまた泣きながらゆっくりと撫でると、ごろごろと喉を鳴らしていた。
しばらくして撫でるのを止めると、ミアは手にすり寄って一鳴きすると、毛皮を抱えたまま、どこかへ向かっていった。他の毛皮を持つ光も同じ方向へと飛んでいく。
ミアの光が見えなくなるまで、その光景をずっと見ていた。
◆◆◆◆
「さて、君も帰ろうか」
キリサキの言葉に頷いて、賑わう通りから別の道へと歩を進めた。
先程通った道を通り過ぎしばらく歩くと、一瞬空気が揺れたように感じた。
周りを見ると、見慣れた通学路とピンク色の家が目に入る。
「随分すんなり帰ってこられたな」
「それだけ君の迷いが晴れたってことだよ」
笑いながら、キリサキは「そろそろ僕も帰らなくては」と踵を翻す。
そこで何か思い出したのか、口を開いた。
「うちのクロを助けてくれた後、追っかけている時知らない裏路地を通ったかい?」
「あ、あぁ。追いかけていてよく覚えていないが…」
その言葉に頷くとキリサキは、一応注意しておくね、と言葉を続けた。
「知らない道。細い裏路地。もしも通るなら、日の昇っているうちにした方がいい。そこは、猫の通い路かもしれないから」
夕方なんて恰好の迷い時だ、と彼は笑った。
そして最後に
「君とミアの縁は結ばれた。そのうち生まれるだろうから、町内回覧はちゃんとチェックした方がいいと思うよ」
と言うと手を振ってどこかへと歩いて行った。しばらく見送っていたが、気が付くとどこにもその姿はもうなかった。
キリサキの姿が見えなくなった後、俺も家へ帰ろうと鞄を担ぎ直す。
とりあえず帰ったら親にどう言い訳をするかと頭を悩ませつつ、見慣れた道を歩いた。
おわり
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