後編

シエナのいなくなった孤児院は、僕にとっては灯りが消えたように寂しくなった。


シエナのことは、その後、風の噂で伝え聞いた。

彼女の癒しの力は非常に強く、この国の聖女として認定された、と。

そして、それから程なく、彼女はあの第三王子の婚約者となった、とも。孤児の中から聖女を見出し、自らの婚約者に据えた第三王子の話は、美談として伝えられていた。


僕は、最後にシエナを見送った時のことを思い返していた。


…出来ることなら、シエナを引き留めたかった。

第三王子がシエナを迎えに来た時、彼女は戸惑っていたようだったけれど、思い掛けず迎えに来た初恋の人が王子とわかって驚いたのだろう、そう思っていた。

だから、僕なんかが邪魔をしてはいけない、と。

そして、第三王子と婚約したと聞いてからは、ちくりと痛む心に蓋をして、ただシエナの幸せを願った。



けれど、あれから3年程の歳月が流れ、シエナの聖女としての力が更に強まったという話が聞こえ始めた時、同時に不穏な噂も流れ始めた。

しばらく停戦中だった隣国と、停戦協定を破棄して戦争を再開する、というものだ。

しかも、その理由は、更に高まったシエナの力を利用すれば、勝算が高いからというものらしい。

隣国との戦争の陣頭指揮を取るのは第三王子で、この戦争に勝利すれば彼が王位を継ぐのではとも、まことしやかに囁かれていた。


確かに、長い時を経て現れた聖女の存在に、国内の士気は非常に上がっていた。

そして、昔から幾度も領土争いを繰り返していた隣国に対しては、多くの国民にも根深い怨恨感情があった。…僕が家族を亡くしたのも、僕がほんの幼い頃になされた、隣国との戦争によってだった。


長い戦争の歴史を繰り返してきた以上、互いに対するもつれにもつれた深い恨みを解くのは一筋縄ではいかないし、それぞれの正義は異なるのだから、正当性を主張し合うままでは、いつまでも議論は平行線だろう。


でも、僕はそれを無理矢理に力で解決しようとする戦争は嫌いだ。どんな理由があったとしても、同じ人間同士が殺し合うなんて、僕には嫌だったし、誰かにとって大切な命が失われれば、また恨みの連鎖を生んでしまう。

…鎧を脱いで、武器を置いて、一対一の人間として話せば、互いにわかり合い、良き友人になれるかもしれないのに。


そして、僕はシエナのことが居ても立ってもいられないくらいに心配になった。

心優しいシエナは、自分の力が戦争の引き金になっていることを知ったら、どれほど傷付くことだろう。

それに、シエナは…。


そうこうするうちに、国からの命令が下り、武器を振るう気はない僕も一兵士として、戦争の前線に向かうことになったのだった。


***

遠のきつつある意識の中で、懐かしい声が聞こえた。


「ウィル、お願い、目を開けて。

ねえ、ウィル…!!」

「ん……あれ、シエナ…?」


僕が薄く目を開くと、ライラック色の瞳と目が合った。

忘れる筈もない、何度も会いたいと願ったシエナの姿が、僕のすぐ目と鼻の先にあった。

彼女は、僕の記憶にあるよりも、さらに大人びて美しくなっていた。


僕は思わず目を擦った。夢を見ているのかとも思ったけれど、目を擦っていた手を下ろして、もう一度顔を上げても、確かにシエナはそこにいた。

シエナは涙目になりながら、僕に両腕を回して抱きついて来た。


「ウィル、会いたかったわ…!

ずっと、ずっとあなたに会いたかったのよ…!」


信じられないような思いで、僕はシエナをぎゅっと抱き締め返した。


「僕だって、君にどんなに会いたかったか。

…シエナ、僕のことは、君が治してくれたの?」


シエナが僕の腕の中で頷く。

ついさっきまで、僕の身を焼くようだった痛みはいつの間にか消え去っていた。


けれど、はっと意識が現実に引き戻された。

ここは、最も危険な戦の最前線の筈だ。シエナがこんなところにいたら、巻き込まれてしまう。

慌てて、シエナを庇うようにしながら身体を起こした。


「シエナ、ここは危険だ。君はこんな場所からは逃げないと…!」


シエナはふふっと微笑んだ。目の前の彼女のなぜか余裕の笑みに、僕は目を瞬いた。


「……?」


ようやく周りを見回すと、この国の兵士と隣国の兵士がちょうどぶつかっていた場所に、淡い光を放つ膜のようなものが出来ていた。

地表から遥か高く立ち上がっているその膜は、どこまで続いているのか、首を上げて見上げてもよくわからなかった。


敵軍から飛んで来ていた筈の矢は、今はその光の壁に阻まれている。

自国の兵士たちも、隣国の兵士たちも一様に、呆然とした表情で、不思議な光を放つ膜を見つめていた。


その時、一頭の騎馬が近付いてきた。馬上には、一際立派な鎧に身を包んだ美しい将校が跨っていた。

彼は、僕のことを射殺しそうな冷たい目で睨んでいる。その姿には見覚えがあった。


「シエナ、よくやった。…だが、その男からは早く離れろ。

すぐに、敵軍とは決着を着けるからな」


シエナは、彼の言葉を聞いてくすりと笑った。


「…ロベルト様、ようやく、あなたにお別れを言える時がまいりましたわ。

こちらにいる兵士たちは、既に皆回復させております。ですから、これで私はもうお役御免にしてくださいませ」

「シエナ、君は、何を言っているんだ…?

君のお陰で、敵軍の攻撃は防げている。このまま奴らをひと叩きするだけだ。我が軍の方がずっと規模も大きいし、君もいる。もう勝利は目前なんだぞ」


シエナは黙ったまま首を振ると、僕の手を取って敵軍の側へと歩いて行った。


敵軍との境界に立ち上っていた光の膜をシエナと一緒に通り抜けると、シエナは身構えている敵軍に何かを大声で話し掛けながら、彼女の手を負傷している兵士たちに翳した。


柔らかな光が彼女の手から流れ出し、傷を癒された敵軍の兵士たちからは、わっと歓声が上がった。


シエナが背にした、第三王子側の軍からは、戸惑いと失望を映す大きなどよめきが起きる。


彼女が敵軍の兵士たちに向かって口にした言葉は、僕には聞き取れなかったけれど、彼女が隣国の言葉で喋ったのだということはわかった。

…そう、敵国というよりも、彼女にとってはその母国である、隣国の言葉で。


シエナは第三王子の方を向き直ると、強い瞳で声を上げた。


「もう、争いはこれでお終いにしてください。私は、私の生まれた国に帰ります。


もしあなたが攻撃なさっても、この壁が阻むでしょうし、あなたの行動によって軍に負傷者が出たとしても、私がその怪我を癒すことはもうありません」

「ふざけたことを言うな…!」


声を荒げて、馬を駆りシエナの方に向かって来た王子は、光の膜に弾かれて馬の背から転げ落ちると、悔しそうにシエナを見つめた。


「君が隣国の出身だとは、知らなかったが。そうだとしても、この戦に勝てば、君はこの国の王妃になれたのだぞ?

それを、どうしてこんな男と…」


シエナは王子をきっと睨み付けた。


「こんな男、じゃありませんわ。

私にとって、ウィルは世界で一番大事な人です」


シエナの僕の手を握る掌に力が込められる。

僕は頬にかあっと血が上るのを感じた。


「シエナ…」

「さあ、行きましょう、ウィル。

…あなたにとっては、こちらは敵国になるかしら。それでも構わない?」


僕も、シエナの手をぎゅっと握り返した。


「君のいる場所が、僕のいたい場所だよ。それが例えどこの国だとしても、僕は構わない」


シエナと僕の背中を、王子が目で追っているのを感じながら、僕たちは手を取り合ってその場を後にした。


***

「ウィル。やっぱりあなたは、私が隣国の人間だということに気付いていたのね…?」


幼かったシエナの姿を思い出しながら、僕はシエナの言葉に頷いた。


「ああ。君に会ったばかりの時は、君は、この国の言葉をほとんど話せなかっただろう?


それに、はじめは僕たちのことをひどく警戒していたからね」

「そうね。

…戦争の混乱から逃げて、彷徨い歩いているうちに、知らず知らず国境を超えてしまっていたみたい。あの優しい孤児院の院長に拾われなかったら、私はまず間違いなく命を落としていたわ。


でもね。敵国の人ばかりの孤児院が、はじめ、私にはすごく怖かった。見た目は変わらないけれど、私の家族の命を奪った敵国の住人は、悪魔のような人たちなんだと、私はそう思っていたのよ。それに、私が敵である隣国から来たとわかれば、どんなに酷い仕打ちをされるのだろうと、想像するだけで怖くて堪らなかったわ。


…けれど、ウィルは私にいつでも優しく手を差し伸べてくれて、私に興味も示してくれた。私の名前を覚えてくれていると知った時、嬉しかったわ。

それに、孤児院で皆と過ごすうちに、生まれた国は違っても、皆同じ人間なんだなって、そう感じるようになったの。


ウィル、あなたも戦争孤児でしょう?

私が隣国の人間だと知っていたのに、恨む気持ちはなかったの?」

「だって、シエナはシエナだろう。どこの国の人間だとか、そんなことは関係ないよ」

「…ウィルのそういうところ、私、大好き…!」


シエナに急にぎゅっと抱き付かれて、僕は危うくシエナごと転びそうになった。慌てて身体のバランスを取り、シエナを抱き留める。


そして、真っ赤になった僕を見て、シエナは嬉しそうに笑った。


「ウィルは、初恋だって願っていれば叶うって、そう言っていたでしょう?

私、その言葉をずっと心の支えにしていたのよ」

「えっ、君の初恋の相手は、あの王子だったんじゃ…」


驚いてシエナを見つめた僕に、シエナは幼かった頃と同じように、拗ねるように頬を膨らませてみせた。


「もう、ウィルったら。私、何度もウィルに抱き着きながら、大好きって言ったでしょう?

全然相手にしてもらえなくて、寂しかったんだから」

「…家族に対するような好きかと、そう思っていたよ。

それに、あんなに綺麗な王子が君を迎えに来たんだから、きっと君は幸せになったのだろうと、そう自分に言い聞かせていた。婚約したと聞いていたし、ね」


シエナは溜息を吐くと、大きく首を横に振った。


「あの王子…ロベルト様、強引な方で苦手だったわ。


私が王宮に出向いてすぐに、私には見張りが付けられて、自由に出掛けることすら出来なくなったの。

ロベルト様は、自分の言うことを聞けば、自由にしてやると言っていたけれど、私には従う気はなかったわ。婚約だって、彼から一方的に告げられたものよ。ずっと、逃げ出す機会を窺っていたの。


私があまりに反抗的なのに業を煮やしたのか、少し前に、彼に押し倒されそうになったのだけれど、その時、あの光の膜が現れて私を守ってくれたの。あの力を操れるようになったのは、ごく最近のことなのよ」


シエナから聞いた王子の話に、背筋に冷たいものが走った。

僕は、シエナを抱き締める手に力を込めた。


「ごめんね、シエナ。君を手放してしまって、辛い目に合わせてしまって。君の幸せを願ってのことだったのだけれど…。

君が無事で、本当によかった。


君が気付いていたかはわからないけれど、僕の初恋も、…いや、今までに想った女性は唯一、君だけだよ、シエナ。


僕は、君のような美しい聖女に釣り合うものは、気持ち以外は何も持ち合わせてはいないけれど…」


シエナは頬を染めると、僕の胸に恥ずかしそうに顔を埋めた。


「その気持ちだけで、もう十分。

私の王子様はウィルだけなの。私にとっては、強くて優しいウィルが一番格好いいわ。


ねえ、ウィル、知ってる?

昔から、あなたの笑顔はお日様みたいで、世界で一番、温かいのよ」


***

シエナが作ったあの光の壁は、しばらくしてから消えてしまったけれど、あの戦の時以降、両国間の争いは起きてはいない。僕の故郷では、聖女が隣国に去ってしまい、かなり戦意が削がれたようだ。今では、停戦から一歩進めて、和平に向けた話し合いが進められているという。


僕は、隣国では元敵国の人間に当たるけれど、先日の戦争を犠牲者を出さずに収め、国王にいたく感謝をされたシエナが、僕を彼女の恩人として紹介してくれたお蔭で温かな歓迎を受け、今ではすっかり溶け込んで過ごしている。


ロベルト王子は本当にシエナを愛していたようで、あの後何度も彼女を迎えに来ていたけれど、シエナは素気無く彼を追い返していた。


その後、シエナと僕は結婚した。

今は、僕たちが幼い頃に過ごしていたように、孤児や恵まれない環境にある子供たちを引き取り、つつましく孤児院を運営している。シエナは皆の優しい母親で、聖女というよりも、僕には聖母のように見える。

そして、シエナは昔と同じように、貧しい人々を中心に、その力で病を癒している。彼らの笑顔が何より嬉しいのだと、そう彼女は柔らかく微笑んでいた。


シエナのお腹は、だんだんと膨らみが目立って来た。彼女は、時折幸せそうにその膨らみを撫でている。僕も、そしてこの孤児院の子供たちも、新しい家族が来春には加わることを心待ちにしている。


今日も、シエナと僕が寄り添いながら見つめる先で、孤児院には子供たちの明るい笑い声が響いている。

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ある聖女の初恋 瑪々子 @memeco

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