ある聖女の初恋
瑪々子
前編
とある二国間の国境線上で、停戦協定が破られ、戦争の火蓋が切って落とされていた。
その最前線では、鎧に身を包んだ歩兵たちが、槍を手に持ち、大振りの盾に身を隠すように膝を屈めながら、一列に並んで少しずつ敵陣に近付いて行った。敵軍からは雨のように矢が浴びせられ、防ぎ切れなかった矢に、1人、また1人と居並ぶ兵士が倒れていく。
最前線に配備された兵士たちは、いわば敵に対する盾の役割を果たす捨て駒とも言え、十分な訓練を積んでいないままに戦に放り込まれた、奴隷や身分の低い階層の出身者たちが多かった。
けれど、彼らはその胸に希望の光を宿しながら戦いの場に赴いていた。大きな癒しの力を持つ聖女シエナが彼らの軍に加わると、専ら噂になっていたのだ。
敵からの矢を受けて倒れた前線の兵士の1人に、孤児院出身のウィルがいた。
鎧の隙間を縫うように深く突き刺さった矢に、ウィルは、燃えるような痛みを感じていた。
(…遠くからでもいいから、最後にシエナを一目見たかったな…)
幼い頃から人生の大半を孤児院で過ごしてきた彼には、ウィルという名前の他は、財産らしい財産も持っていなかったけれど、彼には大切な思い出があった。
だんだんと薄れていくウィルの意識の中で、走馬灯のように、今では遠い存在となった聖女と過ごした過去の記憶が鮮やかに浮かんだ。
***
僕がシエナに出会ったのは、僕がいた隣国との国境沿いに建つ孤児院に、幼い彼女がやって来た日だった。
俯いて震える彼女は、折れてしまいそうに華奢で、肌の色が抜けるように白くて、とても儚げに見えた。僕よりも2、3歳ほどは年下だろうか。
孤児院にいる他の子供たちと比べても、身体が小さくて、口数も少ないシエナは、周囲に馴染むのに苦労しているように見えた。
食事の時だって、もたもたしていると、十分とは言えない量の食事はあっという間に大皿の上からなくなってしまう。シエナは、遠慮からか気後れからか、あまり食べ物も口にできてはいないようだった。
僕はそんなシエナを放っておくことができなかった。
我先にと食事に手を伸ばす子供たちを、その背後から眺めるシエナに、僕は何とか確保した食事を乗せた小皿を差し出した。
「…はい、これ。どうぞ」
シエナは驚いたように、ライラック色の瞳を大きく見開いたけれど、僕の手からおずおずと皿を受け取ると、微笑んだ。孤児院に来てから、彼女が初めて浮かべたその笑顔は、小さな蕾がふわりと花開いたようだった。
「ありがとう。
…あの、あなた、お名前は?」
「ああ、僕はウィルだよ。よろしくね」
「こちらこそ、よろしく。私はシエナって言うの」
「…うん、知ってるよ」
シエナは、彼女の名前を僕が知っているというだけで、ぱっとその顔を輝かせた。それまで暗く沈んでいた表情が、ようやく年相応のものになったことにほっとする。
どうやら、僕はそれからシエナに懐かれてしまったらしい。彼女は、いつでも僕の後をついてくるようになった。僕が歩いていると、僕の手にその小さな柔らかい手を滑り込ませてきた。夜も、うなされているところを、同じ布団に入れてあげたらよく眠れたようで、それから僕の布団に毎日潜り込むようになった。
きっと、僕を兄のように慕ってくれていたのだろう。
僕の名前を毎日繰り返しながら抱きついてくるシエナは、僕にとってもとびきり可愛くて、まるで妹のようだった。
家族を戦争で失った僕にとって、手を差し伸べてくれたこの孤児院自体が、貧しくはあったけれど温かな場所だった。人のよい孤児院の院長は、分け隔てなく、道端に座り込んで途方に暮れている孤児を見付ける度に、この孤児院に連れて来ては居場所を与えていた。
けれど、数多くいた孤児たちの中でも、本物の家族に近い特別な愛情を感じるのは、僕にとってはやはりシエナだった。彼女が僕を必要としてくれたことで、僕の心に開いたままになっていた傷口は、どれだけ癒されたことだろう。
だんだんと元気を取り戻していったシエナは、少し人見知りなところはあるけれど、とても優しく、そして美しい少女に育っていった。自分より後に孤児院に入ってきた、幼い仲間たちの面倒もよく見ていて、皆に慕われていた。
ある時、近くの市場の馴染みの店に、食材を分けて貰いに孤児院の外を歩いていると、その帰り道、近所のやんちゃな少年たちに運悪く見付かってしまった。僕たちの貧しい身なりを馬鹿にしたり、手を出して来たり、ちょっとたちの悪い奴らだ。
彼らがにやにやとしながら僕らに近付いてきたので、困ったことになったと思っていると、案の定、彼らは言い掛かりをつけてきた。
僕らの手に持っている食材の袋を見て、盗んだのだろうと難癖をつけ、石を投げてきたのだ。
僕はシエナを庇いながら、彼女の手を握ると走って逃げた。下手に言い返したりすると、後々面倒なことになるのは知っていた。
息を上げながら孤児院に辿り着いてから、シエナが悔しそうに、僕の額を労るようにそっと触った。
「ウィル。…ここ、血が出てる。
痛いでしょう。さっき、私を庇った時だよね?」
僕は笑顔で首を横に振った。
「大丈夫、何てことないさ。唾でもつけときゃ治るよ」
シエナは僕の傷をじっと見ていたけれど、もう一度触れると、小さく呟いた。
「痛いの、痛いの、飛んで行け…」
「ははっ、本当に大丈夫だよ。心配してくれてありがとう、シエナ。
…あれっ?」
何故か、額の痛みがなくなっている。
僕が驚いて、石をぶつけられた筈の額を触ると、額の傷は綺麗に塞がっていた。
「シエナ、今のって…?」
シエナ自身がどうやら一番驚いたようだった。僕の額と、そこに触れていた自分の手を交互に見ながら、目を幾度も瞬いていた。
「わからないわ。…何が起きたのかしら?」
それが、きっかけだった。
シエナが、孤児院の他の子供たちの怪我にもその手を翳してみたところ、擦りむいた膝や、挫いた足首といった軽いものなら、すっとかき消えてしまうように治った。
だんだんと、孤児院の近隣の住民たちにもシエナの噂が広まり出した。
医者に診せるほどのお金のない、怪我や病気の住民がシエナの元を訪れ、彼女に癒されてから笑顔で帰って行くようになった。
シエナも、人の役に立てていることに嬉しそうだった。住民たちは、お金の代わりに、感謝の気持ちを込めて、パンや果物、チーズや日用品などをお礼にと置いていった。シエナは、当然のように、もらったお礼は孤児院の皆で分けた。孤児院の子供たちにも笑顔が増えて、院長も嬉しそうにしていた。
…思えば、あの頃が一番幸せだったのかもしれない。
シエナの存在は、彼女の想像以上に、次第に広く知られるようになっていたようだ。
ある時、身なりのよい数人の男性が、1人の少年を連れてシエナのところにやって来た。
僕と同い年くらいに見えるその少年は、びっくりするほど整った、綺麗な顔立ちをしていた。重い喘息なのだろうか、苦しそうに咳を繰り返していたけれど、もし表情が動かなかったら、人形のように見えたのではないだろうか。小さな色白の顔に淡い金髪がかかり、深い海のような碧眼が、目の前のシエナを探るように見つめていた。
シエナがそっと彼に手を翳すと、淡い光が少年の喉元の辺りに吸い込まれるように消えていった。
少年は、驚いたように自分の喉をさすると、何度か呼吸を繰り返して、その目を輝かせた。そして、よく通る声で、シエナに一言「ありがとう」と礼を述べると、彼女に美しく微笑みかけた。
少年の側にいた男性たちも、目の前の出来事に驚いたようだったけれど、今までに見たことのないような多額の金品をお礼にと置いていった。
シエナは、彼らの後ろ姿を、いつもよりも長い時間、見送っていたように見えた。
その数日後だっただろうか、シエナが胸に一冊の本を抱き締めながら、僕の肩にことりと寄り掛かってきた。
「初恋って、実らないって本に書いてあったの。でも、そんなことないよね、ウィル…?」
シエナの頬はほんのりと赤かった。
僕は、ははあ、と思った。あの時の綺麗な少年だろうな、と。僕から見ても、まるで彼は王子様のように見えた。
そう言えば、昔シエナに絵本を読んであげた時にも、シエナは、優しくて強い王子様が、お姫様を迎えに来る話が大好きだった。
僕はシエナの柔らかい髪の毛を撫でた。
「ああ、そんなことはないよ。初恋だって、願っていればきっと叶うよ、シエナ」
そして、その時、胸がつきりと痛んだことに、僕は自分でも驚いていた。
いつの間にか、女性らしく成長していたシエナが、妹には見えなくなってきていたことを、僕は自覚した。
繊細な芸術品のように見えたあの少年は、僕とはまったく違っていた。頬にはそばかすが散り、八重歯の目立つ、ひょろっと背が高いだけの僕とは、人種が違うようだった。
その夜、シエナが、いつものように僕の布団に潜り込もうとした時、僕はやんわりとそれを断った。彼女は悲しそうな顔をしていたけれど、折れる訳にはいかなかった。
***
それからしばらく経ったある日、一台の立派な馬車が、孤児院に横付けにされた。
馬車から降り立ったのは、高貴な身なりの美しい少年だった。彼は、この前にシエナが喉を癒した、あの少年だった。
側にいる側近と思しき男性が近付いてくる。彼らと院長との話に耳を澄ませると、驚いたことに、彼はこの国の第三王子のロベルト様だとわかった。
…確かに王子様のような容貌に見えたけれど、まさか本当に、あの少年がこの国の王子だったとは思わなかった。
王子は、孤児院の中を見回してシエナの姿を見付けると、嬉しそうに微笑んで近づいて行き、彼女の手を取った。
「シエナ、君を迎える準備が整ったんだ。さあ、これから私と一緒に、王宮に行こう」
「えっ、あの…?」
驚きに目を瞠ったシエナに、王子は続けた。
「君の力は、特別なものだ。この国には、一握りだけ魔法が使える者が存在する。けれど、癒しの力を使えるのは、私の知る限り、君だけだ。君は、数百年振りとも言われる、癒しの力を持つ聖女に違いない」
「…聖女?」
「ああ。詳しいことは、王宮に行ってから調べればわかるだろう。
君には、何不自由のない生活は保証する。
王宮には何でも揃っているし、君のための部屋も用意した。…美しい君には、もっと美しい場所が相応しいよ」
そう言って、王子はちらとみすぼらしい孤児院内を見回した。無意識にかもしれないけれど、その表情にはどこか侮蔑の色が垣間見えたようにも感じた。
「ですが、私の育った家は、ここなので…」
その表情に戸惑いを浮かべて王子を見つめたシエナの手を、王子がぎゅっと握った。
「何も遠慮することはない。
…それに、これは王命なんだよ。君の力は、この国にとって必要な力だ。
さあ、来てくれるね?」
じり、と王子の背後から近付く側近たちに、有無を言わせぬ圧力を感じた。院長は心配そうにシエナを見つめていた。
ぐいと王子に手を引かれて歩き出したシエナは、誰かを探すようにきょろきょろと辺りを見回している。その視線は、ちょうど僕のところで止まった。
「…ウィル!!」
「シエナ…」
僕には、シエナに掛ける言葉が咄嗟には見付からなかった。
彼女のいない生活は想像がつかなかったけれど、きっと、これがシエナの幸せのためなのだろうと、そう思った。
少し強引さは感じたものの、初恋相手の王子が孤児院まで迎えに来てくれるなんて、まるでおとぎ話だ。
シエナに向かって伸ばし掛けた右手を引っ込めると、僕はどうにか小さく手を振った。
「シエナ、どうか、元気で…」
シエナは何か言いたそうに、もう一度僕の名前を読んだけれど、そのまま王子に手を引かれて行った。彼女は何度も何度も、名残惜しそうに、彼女の育った孤児院を振り返っていた。
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