チョコレートはそのままに 9

 人生を語るには、人生経験が少々足りないのかもしれない。きっと、誰かに言わせればそれは確かに真実なのだろう。しかし、何だろう。小学校の担任も中学校の校長も、高校の同級生も、大学の先輩も、職場の上司も、両親も、皆が皆、一通りの方法しか試していない。人生は一度しかないから一つしか試せない。当たり前のことだ。一通りしか試していない人が、これはこうでね、そう、正しいやり方はね、違う違う、君みたいな人はね、なんて偉そうな口を利く。一通りしか試せないからだ。一通りしか試せないから、その一通りが正しくなくてはならないのだ。家の庭で採れた野菜が一番美味しいね、なんてあり得ない事実を信じ込んで生きていくしかないのだ。


 この広大で真っ暗な海を、魚は泳ぐ。誰にも知られずに泳ぐ。光を求めて彷徨った魚は、とうとう光に出逢えないままで力尽きる。誰にも知られずに泳いだ魚は、誰にも知られずに分解され、誰にも知られず海に溶けるのだ。そして、誰にも知られないまま、次に泳ぐ魚を暗闇で覆うのだ。

「変わらないなあ」

 カツヤは満員電車の中、誰の顔も見ることなく、窓から見える景色をぼうっと眺めていた。

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