#18 はりめぐらされた罠

 ソフィーの仕事ぶりにルパートは満足していた。ある日、彼は同業者の社長から、中国経済界の大物がお忍びで来ていると、ディナーの招待を受ける。何かうさんくささを感じ、ソフィーも同行させようとするのだが……。


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 翌日、ルパートは自分の会社のオフィスで書類に目を通しながら、妻のことを考えていた。最近の彼女はますます美しく輝いている。努力して成果をあげ、自信をつけたおかげだろう。自分の選んだ女性がこうして大きな花を開かせるのを見ているのは、この上ない喜びだ。

 そして、昨日のソフィーの様子には、嫉妬心が見え隠れしていたように見えた。思い過ごしかもしれないが、彼女の心が手に入りかけているのかもしれない。そう思うと、重ねた手を引き寄せたときに冗談めかさず、そのまま口づけてしまえば良かったのに、と考えて苦笑した。やれやれ、これではまるで初めての恋に舞い上がった若造わかぞうのようだ。

 ふうと息を吐き、あらためて仕事の状況に思いをせた。ビジネスの世界は油断がならない。特に大きくなればなるほど、落とし穴にはまることもあるし、他人から妬まれることも増える。常に気が抜けない世界だ。


 ルパートは半月ほど前の、ある出来事を考えていた。あの日は運輸省官僚のナンバーツーに呼び出された。つい最近、就任したばかりなので挨拶に行くのは当然といえば当然だ。港湾を押さえている運輸省との関係は、物流会社や商社にとって特に重要だ。しかし政治家や官僚には、思った以上にたちの悪いのがいる。その新しいナンバーツー、ジェラルド・グレアムもその一人だった。これまでも官僚との付き合いはあったが、あれほどあからさまに賄賂わいろを要求してきた男は初めてだった。あからさまとはいっても言葉で具体的に要求したわけではない。言葉の端々に、そして表情に、官僚とビジネスマンにしかわからない呼吸、無言の脅しというものがあるのだ。たとえ会話を録音したとしても、贈賄の要求としての証拠にはならないだろう。

 ビジネスの世界の人間が官僚にさからうのは得策ではない。しかし万一それに従ったとして、贈賄がばれて罪を問われれば会社は壊滅的な打撃を受ける。それを避けるためには自分で自分を会社から切り捨てなければならなくなる。そんなリスクを負うつもりはなかったので相手にしなかった。それでどのような報復があるかはわからない。けれども何があろうと、切り抜ける自信はある。

 そう考えているときデスクの上のインターコムが鳴った。受話器を取ると秘書の声が聞こえる。

「ノーマン・コネリー様からお電話ですが」

「コネリーから?」

 ライバル企業の副社長が、就業時間中にわざわざ電話をかけてくるとは珍しい。いったいなんだろうとルパートはいぶかしんだ。

「やあ、ルパート。忙しいところすまない。このあいだ奥方の店ではだいぶ散財させられたが、妻はすっかり満足しているよ。さすがだな。その後も店は順調らしいじゃないか」

「ああ。それで用はなんなんだ? わざわざ買物の礼を言いに電話をかけてきたわけじゃないだろう?」

「それはそうだ。しかし悪い話じゃない。中国最大の商社、ファーストチャイナを知っているだろうな?」

「あたりまえだ」

「そこの社長が今イギリスにお忍びできている」

「何かこちらでやろうというのか?」

「いや、表向きは純粋な家族サービスだ。しかし政府の重鎮やら実業界の大物やらとも、内密に会っているらしい。それで僕にもある筋から連絡がはいった」

「うさんくさいな」

「ああ。しかし形は社長のチャン氏からの招待だ。あくまでプライベートで、今夜ホテル・ロイヤルパレスの個室でディナーだ。紹介者がいるものしか入れない。他に呼ぶべき人はいないかと聞かれたので、君の名前をあげておいた。ついさっきだ。もうすぐ正式な招待状を持った東洋人の男がそちらに行くはずだ。行って損はしない話だと思うぞ」

「なぜライバル会社の社長に? 他に同業者を誘わなければ、いずれ向こうがイギリス進出という段になったとき、一歩先を行けるのに」

「僕はそれほどけちな男じゃない。それに……あそこまででかい会社だと、一社で交渉するのは不利だ。特にむこうは国家規制が厳しいからな。政府に話を通すためには、物流業界全体がまとまらなくてはならない。交渉が始まっても泥試合は目に見えている。そこにおまえも引っ張り込んでやろうと思ってるのさ」

「なるほど……」

 ルパートは少しの間、思案しあんしたが、やがてはらを決めた。

「わかった。参加するようにしよう」

「ああ、それじゃ、あとで」

 電話を切ってルパートは考えた。ノーマンの言うことには一理ある。しかしやはりどこかあやしい気がする。用心に越したことはない。ここはソフィーを伴って行ったほうがいいかもしれない。何か意図があるにせよ、ソフィーのように若く職業道徳を守る人間がいれば、向こうも用心するだろう。使いの者に二人で出席すると返事をすることにした。だが彼女は今日、夕方までデザイナーのところで打ち合わせて直接帰るはずだから、それまでつかまらない。そこでルパートは家に電話をかけた。電話を取ったのはビクトリアだった。

「やあ、ビクトリア。ソフィーはまだ帰ってないだろう?」

「ええ」

「それなら伝言を頼む。今夜、急な会食が入った。君にも来てもらいたいから、七時にホテル・ロイヤルパレスまで来てほしいと」

「……七時にロイヤルパレスね」

「頼む。大事なことだ」

「……わかったわ」


 ビクトリアは電話を切ってため息をついた。

 これで今日もまたソフィーは遅くまで帰ってこない。

 結婚してから姉は生きがいとも言うべき仕事にめぐりあい、夫婦で毎日、外を飛び回っている。その分、私が家のことをしなければならない。フリーダはまだ学生で、最近はすっかりロンドンでの生活になじみ、わがままさえ言うようになった。両親が亡くなったあと、しばらくベッドから起きられなかったことを思えば大した進歩だが、気づくとその負担は私だけにかかっている。最初はオブライエン家のために意にそまぬ人とでも結婚するという姉がありがたく、何もできないのを申しわけないと思った。しかし実際に結婚したのは、今をときめく若き実業家、ルパート・ビーチャムだった。女性なら誰だって憧れる人だ。そんな男性を独り占めにして、自分も外で華やかに活躍している。

 それに比べて私は……。恋した相手は姉のほうばかりを見て、見向きもされなかった。そしてあの冷たい視線……。そのあとも家に閉じ込められたような生活をおくり、人と会う機会さえない。私はこのままずっとこんなふうに生きていくのだろうか。

 そう考えていたとき、また電話が鳴った。

「はい」

「ああ、ビクトリア?」

「お姉さま……」

「ええ。今日は夕食には家に戻れる予定だったんだけど、急に弁護士のアンダーソン氏から話があるからと呼び出されたの。何か重要なことらしいから彼のオフィスで会ってくるわ。帰りは九時過ぎになると思うから、もしルパートが戻ったらそう伝えておいて」

「わかったわ……」

「それじゃお願いね」

「あの、お姉さま……」

「なに?」

 ビクトリアが黙ってしまったので、ソフィーはいぶかしんだ。

「どうしたの?」

「い、いいえ。なんでもないわ」

「そう。それならいいけれど」

 ビクトリアはゆっくりと受話器をもとに戻す。指先が少し震えていた。


 ファーストチャイナの社長とのディナーに、ソフィーは姿を見せなかった。

 いったいどうしたのだろう。伝言が伝わらなかったのだろうか。

 少し不安を感じたが、ディナー自体は特にどうということもなく終わった。とりあえずの顔つなぎといったところだ。出席したのも十人ほどで、ほとんどが顔見知りだった。何か不穏なものを感じたのは、自分の考えすぎだったのだろうか。しかし何事もなく終われば、それに越したことはない。

 社長が去り、ルパートは最後に部屋を出た。そこにいた誰もが、広く顔を知られた実力者たちだ。公式の集まりでもない限り、あまり集団で動いていると、マスコミに目をつけられる。そのためできるだけ離れているのが暗黙の了解だった。

 一階まで降りてロビーに向かおうとするとき、「ミスター・ビーチャム」と声をかけられた。振り返ると運輸省の顔見知りの下級役人が立っていた。ルパートは眉をひそめてその男を見た。

「先ほどから実業界の大物たちの姿を何人かお見かけましたよ。何か秘密の会合でもありましたかな?」

 蛇のように何かをさぐろうとする、ねっとりとした目だ。

「いや、あなたがたの興味を引くようなものは何も」

「そうですか。私どもも先日の組織改編から、何かと規制が厳しくなり、仕事がどっと増えてしまいました。自分がいるところの悪口もなんですが、トップが変わると苦労するのは、官も民間も同じです」

「ああ、よくわかるよ」

 それから一、二分ほど世間話をして、別れ際、彼が握手を求めてきた。

「それではまたどこかでお会いしましょう」

 しかしルパートは彼の目をしばらく見ただけで、手は差し出さなかった。男は苦笑して手を引っ込めて去っていった。

 

 屋敷に戻ると、ソフィーはすでに帰っていた。

「ソフィー、今日はどうしたんだ?」

「え……? 夕方、弁護士のアンダーソンから呼び出されたのよ。ビクトリアに伝言しておいたのだけど、聞いていないの?」

「ビクトリアに?」

「ええ……あの子、伝えなかったのね」

 ソフィーが彼の横をすり抜けて妹を呼びに行こうとするのを、ルパートは肘をつかんで止めた。

「いや、いいんだ。特に不都合はなかったから」

「そう?」

「ああ。それでアンダーソンの用事はなんだったんだ?」

「それが……あまり大した話ではなかったの。わざわざ行かなくてもよかったのにと思ったくらい」

「そうか」

「本当に何もなかったの?」

「ああ。心配しないでくれ」

 ルパートが笑顔を見せたが、それはふだんの皮肉っぽい笑顔ではなかった。彼は何か隠している。直感的にソフィーはそう思ったが、そのまま何も言わないでいた。


 それから一週間ほどたち、その夜のことはもう誰もが忘れかけていた。しかしある日、朝食を食べているとき、玄関のベルが鳴った。

「こんな時間にいったい誰?」

 ビクトリアがダイニングのドアに目をやる。

 執事がドアを開けると、すぐに数人のヘルメットのような帽子をかぶった男が入ってきた。

「いったいなんなんですか?」ソフィーが驚いて立ち上がる。

「ミスター・ビーチャム、あなたを贈賄の被疑者として連行いたします」

 ソファーにうつって新聞を読んでいたルパートは鋭い視線で彼らを一瞥いちべつし、ゆっくりと立ち上がった。男たちはルパートの迫力に圧倒されつつ取り囲んだ。

「贈賄? 夫がですか?」

 ソフィーは後から入ってきた責任者らしき男に詰め寄った。

「はい、奥様。先日、ミスター・ビーチャムが役人と密会している現場が写真に撮られています。またある信頼できる筋から、ビーチャム商会の物流部門の裏帳簿の存在を指摘する情報を得ました。現在、彼のオフィスの捜索が行われています」

 ソフィーは青くなった。ルパートが贈賄の罪? 

「夫が役人に会ったというのはいつなんですか?」

「一週間ほど前です。ホテル・ロイヤルパレスで」

 一週間前……。私がアンダーソンと会っていた夜だ。

「奥様にはお気の毒ですが、事態がはっきりするまで、ご主人を拘束します」一番地位の高そうな男が慇懃いんぎんに言い、その部下たちがルパートの両腕を取る。ソフィーは思わず彼に駆け寄った。ルパートは警官の腕を振りほどき、ソフィーの肩に手をやった。

「大丈夫だ。僕は何も悪いことなどしていない」

 そう言ってソフィーの目をじっと見つめる。

「ルパート……。信じているわ」ソフィーも思いを込めて見つめ返す。そう、彼はそんなことなど決してしない。

「ああ。すぐに帰ってくるよ。それまで家を頼む」

「ええ」

 警官のうしろについて家を出ていくルパートを、ソフィーはじっと見送った。集団が完全に見えなくなると、ソフィーはくずおれるように椅子に座りこんだ。

「奥様。大丈夫ですか?」

 執事がピッチャーから水をコップにくんで、ソフィーの前に置く。

「ありがとう。とにかく今の私たちに何ができるかを考えなくては」

 そう言って周囲を見ると、ビクトリアが青い顔をして立っていた。しかしソフィーは何も言わず、考えこんでいた。


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