#10 それぞれの決意

 結婚式翌日、ルパートはいきなりパリに行くという。そしてソフィーたち姉妹はロンドンの町中の屋敷に移ることになった。ソフィーは強気を装うが、ルパートと離れることは寂しかった。そしてルパートにも隠された思いがあった。


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 翌朝、ソフィーが目を覚ましたときには、もう日が高くなっていた。となりに寝ていたはずのルパートはいない。いったいどこへ行ったのかと身を起こすと、バスルームから水音が聞こえた。先にシャワーを浴びにいったのだろう。

 目は覚めたが、体は気だるくなかなかベッドから出る気にはならなかった。やがて、寝室のドアが開いてバスローブ姿のルパートが入ってきた。ソフィーは恥ずかしくて、まともに彼の顔を見られなかった。

「今ちょうどバスに湯をはったところだ。ゆっくり入ってくるといい」

「ありがとう……」

 ソフィーはルパートの心遣いをありがたく思った。彼と入れ違いにバスルームへ入る。

 ソフィーはゆったりと長いバスタブに体を預けた。横の棚に並んだバスオイルの中から、シトラスの香りを選んで数滴湯に落とす。さわやかな香りが周囲に広がった。

 鳥の声と風が木を揺らす音が聞こえるだけで、周囲は静寂そのものだ。昨日のにぎやかなパーティが、遠い昔のことのような気がする。ソフィーは目をつぶって、湯のあたたかさを味わう。じんわりと体の内部までそのぬくもりが伝わるのを待った。

 今、私はとても幸せなのかもしれない。両親が亡くなってから、ずっと不安につきまとわれていたけれど、今はこうしてゆっくりと体をあたためることができる。きっとこの先も穏やかに暮らしていける……。

 

 着心地のよいバスローブを身につけてバスルームを出ると、小さなダイニングでルパートが紅茶をいれてくれた。礼を言って席に着き、カップを手に取った。静かで穏やかな時間が流れている。しかしその静寂を破るように、ルパートが言った。

「ソフィー、僕は今日の夕方にはロンドンに戻らなくてはならない。そこからパリに回るから、一週間ほど帰れないだろう。あとのことは執事のヘンリーと、新しい屋敷を取り仕切るジェラルドに任せてあるから、君たち姉妹はその間にロンドンの屋敷に移っていてくれ」

「え? パリへ?」あまりにも思いがけない話に、ソフィーはとまどいを隠せなかった。

「ああ。新しい事業を始めるめどがついた。先方と直接交渉をして話を詰めてこなければならない」

「そう……」

 どこかがっかりしている自分に、ソフィーは気づいた。だが、プライドにかけても、ルパートにそんな顔は見せたくなかった。

「それは何よりね」

 自分で思ったよりも事務的な口調になっていた。

「戻るときには、君にもいい話を持ってくる。楽しみに待っていてくれ」

 ルパートは軽く片眉をあげてそう言うと、立ち上がって彼女の頬にキスをして、出て行ってしまった。


 一人残されたソフィーは呆然とする。私たちは結婚したばかりなのに。

 新婚の夫が、花嫁を置いて仕事に行ってしまうの? 

 いくら便宜上の結婚だとは言え、いつのまにか、心のどこかでルパートからの愛情めいたものを求めていた。そう思うと、これからの生活がどうなるのか、また新たな不安にさらされていく。

 紅茶を飲み終わるころ、呼び鈴が鳴った。ルパートが戻って来たのかもしれない。少し期待して出てみると、家のメイドの一人が立っていた。

「後片付けのお手伝いにまいりました」

「そう……じゃあ、入ってちょうだい」

 やはりルパートは行ってしまったのだ。

 メイドは家の中に入り、キッチンまで来るとソフィーに向かって言った。

「奥様は昨日おつけになったアクセサリーだけお持ちになって、母屋へお戻りください。あとは私が整えておきます」

 奥様と呼ばれたことに、一抹の気恥ずかしさと違和感を感じる。

「ああ、そうね。すべてベッドルームにあるから、ちょっと待ってて。用意ができたら呼ぶわ」

「かしこまりました」

 ベッドルームに戻ると、まだベッドは乱れたままで、昨夜、脱いだ服や下着も置きっぱなしだ。ソフィーはあわてて下着を集めて隅に置いてあったランドリーバスケットに入れ、ベッドを軽く直すとその上にドレスを伸ばして置いた。

 指輪、ネックレス、バングル、イヤリング……。ルパートが買ってくれたエメラルドの結婚指輪だけをつけて、あとはビロード張りの箱に戻してバッグに入れる。手早く身支度をととのえると、もう一度部屋の中を見回し、誰にともなくうなずき、メイドのいるキッチンにまた戻る。

「それでは外に車を待たせておりますので、どうぞ母屋にお戻りください」

「え、もう?」

「はい。ビクトリア様とフリーダ様がお待ちです」

 玄関を出るとすぐ前に車が停まり、運転手が外に立っていた。同じ敷地内とはいえ、はずれにある離れだ。歩けばかなりかかるはずだ。来るときに乗ってきた車はルパートが使っているのだろう。ルパートらしい心遣いだったが、今のソフィーには、かえってビジネスライクなものに思えた。

 母屋に戻ると、フリーダが二階から笑顔で降りてきた。

「ミセス・ビーチャム! お姉さま、結婚した気分はどう?」

「フリーダ……。あなたこそどうなの?」

「もうすっかりいいわ。昨日ずっとパーティに出ていても大丈夫だったし」

 ソフィーはフリーダを抱きしめた。しばらくしてビクトリアもかたい表情のまま二階から降りてきた。

「あと一時間ほどで出発するそうよ」すでに聞かされていたらしく、ビクトリアが言った。

「え、そんなに早く?」

「ええ、今夜から夕食はあちらの家でとってほしいんですって」

 あきらめたように伝える。

「そう……あなたたちの準備はもうできているの?」

「むこうで使う荷物はもうほとんど送ってしまっているし、こまごましたものはさっき車に積み込んだわ」

「今度の屋敷は街の中心なのよね。学校に行くのも便利になるし、楽しみだわ」

 無邪気にフリーダが言う。妹にとっては両親の思い出が詰まったこの家よりも、まったく別な場所のほうが気分転換になっていいのかもしれない。

 ビクトリアにはまた別の思いがあるようだが。

 屋敷を出るとき、三人は玄関で振り返って自分たちが生まれ育った家を見上げた。

「お姉さま……私たちが出て行ったら、ここはどうなるのかしら?」

 ビクトリアが小さな声で尋ねる。

「わからないわ……まだわからない」

「ミスター・ビーチャムはここを売ったりしないかしら。この家が誰か他の人の物になったりしたら……」

「いいえ! そんなことはさせない」

 ソフィーは自分でも驚くほどきっぱりと言った。

「たとえルパートがそう言っても……私がきっと守ってみせるわ……」

 ソフィーはビクトリアとフリーダを見て、安心させるように答えた。


 そのころルパートは空港に向かっていた。あのままソフィーを抱きしめ、自分の存在を何度でも美しい妻のすばらしい体にきざみつけたかった。ソフィーのいる場所を後にするのは、身を引き裂かれる思いだった。

 ルパートは苦笑した。まさか自分がこんな気持ちになるとは、思ってもいなかった。今は誰も頼る人のいないソフィーならば、優しくすることでこのままルパートのものになっていただろう。だが、そんなソフィーは欲しくなかった。女王のように毅然とし、何者にも侵されることのないエメラルドのような輝き。そして生まれ持ったプライドと自立心。それこそがソフィーだ。ソフィーの体だけでなく心まで手に入れなければ、本当の意味で手に入れたとは言えない。

 やせがまんをしていることは、もちろんわかっている。だが、ソフィーの輝きを失わせるわけにはいかない。

 ルパートはかたく唇を引き結び、あごを引き締めた。ここからが真の戦いだ。愛を勝ち取るための。そう自分に言い聞かせた。


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