#04 押し寄せる不安
両親が亡くなり、ソフィーは厳しい現実を目の当たりにすることになった。屋敷は抵当に入っていて、多額の借金があることがわかったのだ。このままでは屋敷も失い、落ちぶれていくのを待つばかりだ。ソフィーは途方に暮れた。
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それからは何もかもがあわただしく進んだ。両親の葬儀には近隣の貴族たち、そしてスコット・フランクやルパート・ビーチャムらも来ているのに気づいた。そしてアンディ・ウィルキンソンが婚約したばかりのメアリーと連れ立って来ていた。
葬儀のあと、メアリーは真っ赤な目をしてソフィーの手を握り、震える声でこう言った。
「なんて悲しいことかしら。私に何かお手伝いできることがあったら何でも言ってちょうだいね」
それはおそらく本心で、ソフィーが何かを頼んだら、メアリーはなんとしてでもその願いをかなえようとするだろう。彼女は誰に対しても悪意を抱くようなことはない。心から友人たちのことを考えている。しかしメアリーのその親切心も、そのときのソフィーにはただ重苦しいだけだった。
「ソフィー、僕にも何かできることがあれば、いつでも声をかけてくれ」
アンディが、気づかうようにそっとソフィーの手をとった。
「ありがとう、アンディ」
幼いころから心を隠すことなくぶつけることのできたアンディの言葉に、ソフィーの心は揺れた。でも、この人は私と妹たちを支えてくれるわけではない。もうすがることはできないのだ。その事実が、さらにソフィーの心を苦しめた。
執事のヘンリーをはじめ、代々仕えている使用人たち、そして両親が信頼していた弁護士のおかげで、法律的な手続きについては特に問題は起こらなかった。ところがようやく葬儀の後片付けが終わったころに、顧問弁護士であるアンダーソンから思いがけない話があった。
「なんですって! この屋敷が借金の抵当に?」
応接間でアンダーソンは、何もわかっていない娘たちだ、という表情でソフィーとビクトリアを見回していた。一番年下のフリーダは両親の亡くなった日から体調を崩し、今も自分の部屋で休んでいる。
「ええ。返済期限はまだしばらく先ですが、このまま何も手を打たないと、いずれここを出ていかなくてはならなくなるでしょう」
この屋敷だけならなくてもやっていけるだろう。湖水地方には別荘もあるし、住むところはある。
けれども借金というのは何なの? なぜ借金をする必要があったの?
父も母もそんなことは何も言っていなかった。
「借金って、いったいなぜ? それほどぜいたくな生活はしていなかったはずなのに」
「申し上げにくいのですが、最近の貴族の生活はレベルの差こそあれ似たようなものです。もともと貴族の生活を支えていた地代収入が大幅に下がり、いわゆる仕事としての労働をしている人は少ない。ですから
両親を失っただけでなく、住む家も、家族同様に思っている使用人たちさえも失うことになるのかもしれないと聞いて、ソフィーの胸は早鐘のように打ち始めた。
「それで借金を……」
「五年ほど前にこの屋敷の大規模な修繕をしたこと、そしてこの十年で購入した五頭の馬も大きな出費でした。しかし最大の問題は投資の失敗です。世界的に株式が好調なので伯爵もさまざまな投資を行なったようです。結果的にそれがうまくいかず借金がふくれあがったということです」
アンダーソンは淡々と、事務的に説明していく。
弁護士の言うことをソフィーはほとんど理解できなかった。自分が大好きな馬。馬は自分にとっては家族だ。それなのにアンダーソンから見ると、借金のもとになった投資の対象でしかないのだ。
「いったいどうすればいいの……」
横にいたビクトリアがおろおろしきって言う。すぐにこの屋敷を出て行けと言われたような顔をしている。
「オブライエン伯爵もなんとか借金返済のあてを作ろうとなさっていました。スコット・フランク氏やルパート・ビーチャム氏に事業の相談をなさっていたようです。それで……スコット・フランク氏はすでにある程度の借金を肩代わりされています」
「フランク氏が?」
ソフィーは衝撃を受けた。このところ彼がよく出入りしていたのは、そういうことだったのか。外見はさえないが、一代でスーパーマーケットの店舗を全国に出したのだから、事業の腕は確かだと父は見込んでいたのだろうか。
「最近になって、ビーチャム氏とも接触していますね。まあ、ビーチャム商会はもともと金融業から出発していますから、事業資金の調達という意味ではごく自然かもしれません」
「父はいったいどんなビジネスをやろうとしていたのかしら」
「さあ、そこまではわかりかねます。おそらく資金調達のめどがついたら、お話されるおつもりだったのでしょう。私はあくまで必要な手続きをするだけですから」
「そうね……」
「フランク氏からはすでに連絡が来ています。一度あなたがたを交えてお話がしたいと。それで私の独断で申し訳ありませんが、一週間後の金曜日の午後にお会いする約束をいたしました。こちらの屋敷に来てくださるそうです」
「わかりました」
ソフィーは素直にうなずく。とにかく状況をはっきりさせなくては。これまでいかに自分が家のことを知らなかったかを痛感する。自分たちがどうやって生活しているか、そのお金がどこから入ってくるのか考えたことはなかった。すべてがうまくいっていると思い込んでいたのだ。けれどもそんな生活が終わりを告げたことを、ソフィーは悟った。
「ソフィーさまには、これから警察署に行っていただきたいのですが……」
「ええ、聞いています。調書が完成したので目を通してほしいということでした」
結局あの事故は反対車線の車が飛び出してきて、前方の車に衝突し、うしろからついていた車数台が連鎖で追突したという単純なものだった。両親の車はその真ん中にいたのだ。そのときの状況を思い浮かべると、ソフィーの胸は痛む。父や母はそのとき何を思ったのだろうか。
運転手に車を出させて警察署へと向かう。もしかしたら、こうして運転手を雇うこともできなくなってしまうのかもしれない。いいえ。車を持ち続けることさえ……。
警察署に着くと、帰りはタクシーを使うからと言って、運転手を先に帰した。周囲に気づかれないようにそっと一つため息をつき、入り口に立っている警官に軽く会釈をして中に入った。広々としたロビーにはソファと低いテーブルがいくつか並んでいる。そこだけを見れば警察署であることを忘れそうな
ソフィーは目をそむけて受付に向かおうとしたが、「ミス・オブライエン」と、低いがよく通る声で呼ばれ、振り向かざるをえなくなった。
「ミスター・ビーチャム。奇遇ですわね」
「奇遇なんかじゃない。僕はここで君を待っていたのだから」
ソフィーはどきりとする。
「あの交通事故の件で。今日は君も来ると署長から聞いていた」
そういえば彼の会社の車も同じ事故に巻き込まれていたことを思い出した。
「ミス・オブライエン」
ルパートが深刻そうな声で話し始めた。
「このたびは本当にお気の毒だった。君たち姉妹がどれほどつらい思いをされているか、何も聞かなくてもわかる」
いきなり悔やみの言葉を言われて、ソフィーは胸がいっぱいになってしまった。思えばあの事故のニュースを聞いたとき以来、ずっと緊張していたような気がする。ルパートに役立たずと叱責されてから、ずっと涙を抑えていたのだ。それなのに今度は慰めの言葉をかけるなんて。
「いいえ……葬儀のときは、わざわざ来ていただいて……」
途中で声が震えだし、それまで抑えていた感情がほとばしるように噴き出てきた。抑えようとすると低い
「まだ泣けてないのだろう? 泣けるときにはゆっくり泣けばいい。そうすればまた前に進んでいける」
そう言って、ルパートは彼女を抱きしめそっと髪をなでた。ソフィーの目からはあとからあとから涙があふれてくる。彼の腕の中はとても温かい。初めて会ったときの強引で無礼な態度に反発を感じていたが、今はやさしい毛布に包まれているような気がする。ソフィーは相手が何者なのか、そしてここがどこなのかも忘れて、彼の胸に顔をうずめて、声を殺して泣き続けた。
警察署では、なぜかルパートと一緒に、事故の経緯について再び説明を受けた。事故の原因となった車の運転手はすでに拘束され、いずれ裁判にかけられて罪状が決定されるだろうということだ。警察官の淡々とした説明を、ソフィーはぼんやりと聞いていた。
「加害者はそれなりに地位のある人物で、弁護士を立てて交渉を進めようとしています」「え……事故を起こしたことは、はっきりしているのでしょう?」
「はい。事故を起こした罪は間違いありませんが、補償交渉ですね」
補償……。加害者側と補償金について個々に交渉しなければならないということだろうか。ソフィーは重苦しい気分になった。するとルパートが硬い口調で言う。
「ミス・オブライエン。君の家にも専属の弁護士がいるはずだが……今回の交渉については、僕に一任していただけないだろうか。僕の会社の社員も被害者の一人だ。決してあなたの不利になるようなことはしない」
彼のその言葉を引き取って、警察官が続ける。
「今日こちらに来ていただいた理由の一つはそのことです。他の被害者のかたがたも含め、こちらのミスター・ビーチャムが代理人として一手に交渉を引き受けると申し出てくださっています。他のかたはすでにそれを了承し、個々の希望を伝えてくださっています」
交渉を引き受けてくれるというのはソフィーにとってもありがたい。アンダーソンに頼むこともできるが、これまでしていたのは主に財産管理だったから、事故の交渉を積極的にやってくれるかわからない。それに……オブライエン家はすでに借金で傾きかかっているのだ。いくら古いつきあいとはいえ、弁護料すら払えるかどうかわからない仕事を引き受けてくれるだろうか。
「わかりました。うちの弁護士の了承を得て、正式にお返事します」
できるだけ不安を表に出さないよう、胸を張って堂々とした口調で言う。ルパートは満足げにほほえみ、一枚のカードを出して言った。
「それではお返事はこちらにいただきたい。わが社の法務部には頼りになる弁護士が何人もいます。何かご希望があれば何なりとお伝えください」
渡されたカードには、ビーチャム商会法務部の連絡先と、担当者の名前があった。
「ありがとうございます。ご厚意に感謝いたしますわ」
それからはじっと説明を聞くだけだったが、それでもソフィーはぐったりと疲れてしまった。自分が一家を代表しているという意識が緊張をもたらす。自分の発するひとことひとことが、オブライエン家の意見となるのだ。
警察署の外に出ると、日差しがやけにまぶしく見えた。曇りがちなイングランドの気候に太陽もすでに傾きかけていて、弱々しい光が届いているだけなのに。
「ミス・オブライエン。車は帰してしまったのかな? お屋敷までお送りしよう」
いつのまに来たのか、ルパートが横に並んでいる。ソフィーはさっき彼にすがって泣いていたことを思い出し、ややばつの悪さを感じて言った。
「いいえ。タクシーを使うからけっこうです」
しかしルパートはさっきのことなどおくびにも出さず、前と同じく、にこやかだが譲るつもりはないという態度で彼女の腕をとった。
「タクシーを拾うには大通りまで出ないと無理だ。この警察署は不便なところにあるので有名でね。そんな
すでに慣れかけているルパートの強引さに逆らう気力もなく、そのまま彼の車に乗せられた。
「ご親切にどうもありがとうございます」
ソフィーは姿勢を正して椅子におさまると、ことさら堅苦しい口調で言った。さっき彼が見せたやさしさに、なぜか危険を感じたのだ。ルパートは苦笑いを浮かべたが、そのことについては特に何も言わなかった。
「フリーダ嬢の容態はいかがですか?」
ルパートが妹のことを聞いたので、ソフィーはちょっと面食らった。
「あ、ああ……。落ち着いてきてはいますが、まだベッドから起きられる状態ではありません。あの子は十五歳で、まだまだ親に甘えたい年頃です。それだけにショックが大きいのでしょう」
そう言いながら、病院で両親が亡くなったことを知らされてフリーダが倒れたときのことを思い出した。あのときもルパートがそばにいて、あの病院にいるという彼の知り合いの精神科医に連絡を取り、フリーダをひと晩、病院に泊めてもらったのだ。薬の助けを借りて眠りにつけたことで、何とかあの子も落ち着きを取り戻せた。あのまま自宅に戻っていたら、フリーダの病状は今よりもこじれていたかもしれない。気づくと、今回もルパートに助けられている。
「あの、ミスター・ビーチャム」
あらたまったソフィーの口調に、ルパートがハンドルを握ったままちらりと横を見る。「こんな形で申し上げるのは失礼かと思いますが、あの事故以降、あなたにはとてもお世話になっています。それなのにお礼も申し上げないで。病院で私があんなに失礼な態度をとったのに、私や家族のためにとても尽力してくださっているわ。これからも裁判で代理人にまでなっていただけるのは、私たちにとってとてもありがたいのです。心から感謝いたします」
これからのオブライエン家を背負って立つのは自分だ。その気持ちが、あらたまったお礼の言葉となって口から出た。
「そんなこと気にする必要はない。僕の会社も被害者だ。被害者全員を守ることが、わが社を守ることにもなる。それにイギリスは紳士の国だ。僕は貴族ではないが、その精神は尊重している。君のご家族に対して、僕ができることをしたまでだ」
しかしそれはなかなかできることではない。ソフィーはルパートの横顔を失礼にならない程度に見つめた。くっきりとした目を縁取るまつげの濃さがきわだち、あごのシャープなラインが男らしさを強調している。そして形の良い唇……初めて出会った日、私の唇があの唇に触れたのだ……そう思うとソフィーの体がかっと熱くなり、頬が染まるのが自分でもわかった。ソフィーはあわてて窓の外をながめるふりをして顔をそむけた。
しばらく沈黙が続き、車は丘陵地帯に入った。外はもう暗くなりかかっている。ソフィーは彼にもう一つ、聞いておかなければと思った。
「ミスター・ビーチャム、父はあなたに何か事業の相談をしていたのでしょうか」
「おや、どこからそんな話を?」
「弁護士のアンダーソンが、今日そんなことを言っていたので」
「そうですか。いずれ改めてうかがおうと思っていたんだが。僕はおもに融資について相談を受けていた」
「やっぱり……。それではフランク氏は事業のことで……」
「フランク? スーパーマーケットのオーナーのスコット・フランク氏ですか?」
「ええ」
ルパートは名前を聞き返しただけで、あとは特に何も言わなかった。やはり父は新しい事業を始めようとしていたようだ。そうしなければオブライエン家が立ち行かなくなるほど、事態は深刻だったということだろうか。
やがてオブライエン家の正門前に車が到着する。ルパートはさらに進んで玄関の前に車をつけてくれた。
「ありがとうございます。今までは運転手にあちこち連れて行ってもらうのを当たり前と思っていたけれど、車がないとかなり不便な生活を強いられるでしょうね」
「君も運転を習うといい」
ルパートの言葉にソフィーは虚を突かれた。
「……そうね。本当だわ」
ソフィーは自分がハンドルを握って、どこへでも好きなところへ行くことを想像した。以前ならば運転など自分の仕事ではないと思っていたけれど、意外なほど心が
「ミス・オブライエン。今日はお目にかかれてよかった。そして君から感謝の言葉を聞けるとは、望外の喜びだ」
ルパートはそう言うと車を降りて助手席側に回り、ドアを外から開け、手をさし出してくれた。ソフィーが軽く手を置きながら車を出ると、ルパートはそれまでとは違う表情をしている。それは初めて会ったときのような、人をやや小ばかにしたような皮肉っぽい笑顔だった。
「しおらしい君も魅力的だが……僕はアンディが出て行ったドアに向かって皿を投げつける君のほうがはるかに好みだ」
そのひとことにソフィーは頭に血が上った。こんなときになんてことを! やはり彼は無礼な男だ。いくらハンサムで金持ちでも、紳士ではない。
「そうですか。それなら玄関前に並んだ植木を投げつけられないうちにお引取りください」つんとあごを上げ、差し出された手をさっとふりほどくと、さっさと扉へと向かった。
ルパートはにやりと笑ってソフィーの後ろ姿を見送ると、車に戻りすぐに走り去っていった。
呼び鈴を押すと執事のヘンリーが迎えに出てきた。
「タクシーでお戻りですか?」
「いいえ。ミスター・ビーチャムがおくってくださったわ」
ソフィーはそっけなく言った。
「ミスター・ビーチャムはもうお帰りになってしまったんですか? お茶の一杯も差し上げずに」
「彼はそういう習慣はお好きじゃないようよ」
ソフィーはそれだけ言うと、さっさと自分の部屋に戻っていった。
その夜、ソフィーはベッドに横になり
天井が自分のほうに迫ってくるように感じて、ソフィーは毛布をかぶった。
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