第3話 古井戸の喘鳴

 数分風に乗っただけで、彼女たちは山を一つ二つ乗り越えられる。


 軽快な鼻歌を口ずさめば、ポポの水浴び場なんてすぐそこだ。

 白くけぶって霞む霧をくぐれば、ドーナツ型の淡水湖がお目見えする。


 昼に近い日の光に照らされ映える湖面から、空を彩るように飛翔するいくつもの間欠泉を避け、アルスはポポを放して中央の小島に降り立った。


 ポポはそのまま飛行をやめ、真下の透明な湖に落ちた。水面でくるくると回ったり、回転したり、滑ったり……。辺りに水しぶきを飛ばして遊んでいる。


「ふぁー、気持ちいなぁー」


 ポポの気が済むまで彼女はここで湖風を浴び、ばたっと仰向けに倒れて空を見上げる。柔らかな日差しと湖の上を通った微風が口元を掠めていく。くんくんと嗅いだ。


 ――気持ちいなぁ。

 ――でも、暇だなぁ。


 何もすることのないアルスたちにとって、ポポと一緒にいること自体、飽きることはない。アルスが物心がついたころにはポポがいて、なぜか両親はいなかった。

 お留守番をしても帰ってきたことは一度もなく、一年かかってようやく誰かが来た。近くにある辺境の村に住む青年は一言言って去っていった。


「両親は神隠しにあったんだよ。邪龍に歯向かってしまって、それでね」


 へー。

 

 その事実は幼すぎた彼女の耳から通り過ぎただけだった。

 たとえ捨てられ、はたまたどこかへ去ってしまったとしても、彼女の反応は同様の反応だっただろう。


 だから彼女は両親からの愛を受けたことがない。でも、それもどうでもいいことだと思いなおし、記憶の彼方に飛ばされかけている。


 ポポがいれば何とかなるからだ。

 現に何とかなっているし、いつも一緒にいるほどかけがえのない存在になってきている。

 それに、なぜかアルスにだけはなつき、アルスにだけなぜかついていく。

 そして、彼女のわがままを受け入れて、手厚くサポートするのだ。


 だが……、だからといって何もすることがないというのはもう嫌だ。お留守番なんてもう嫌だ。ポポと家で一緒にいても、やはり心は満たされない。

 だから彼女たちは毎日外に出て、どこかへ探検しにいくのだろう。

 目的のない、長く楽しい気晴らしを求め、アルスは飛び出し、ポポがついていく。それが日常にかわりつつある。


 日差しをいっぱいに浴びた芝生の上に、彼女の長い髪が寝そべる。白銀の髪の毛越しに背中をちくちくする。少し痛い……が、それがいいと思った。家ならばこんな感覚、一生味わうことなんてないから。


 取り留めのないことを想う彼女に向かって、ぴゅーんと綿毛が飛んできた。上体を起こしてキャッチした。


「もう大丈夫なの? ポポ」


 頬ずりしながら聞いた。もふ、もふ、と意思表示をして、また抱き着いてきた。アルスは嬉しそうに笑う。

 朝起きた時よりもしっとりとした触り心地……綿毛のメンテナンス(?)はもうばっちりらしい。


「よし! じゃあ昨日の探検の続きをしよ!」


 ポポを持ちあげて幼女はすくっと立った。そして振り返って見上げた。

 淡水湖に浮かぶこの小島は、小さな丘のように盛り上がっていて、その中央には今はだれも近寄らない放置された古井戸がある。


 近寄らない理由は明瞭だ。

 すぐ近くにはさびついた鎖が主張強めに聳立しょうりつしていて、ひび割れた地面にもぐってしまっている。

 伝承では、この地下には封緘された邪龍がいるらしい――アルスたちには知るよしもなく、ずんずんと近づいていく。



「むー、ここからなのは確かなんだけどねぇー」

『今日の探検』は昨日に引き続き、鎖の真横にある木製の古井戸のなか。


 危険を顧みないアルスが石臼を長くしたような穴に入り、ポポが外からのぞいている。井筒が狭く、少し汚いので敬遠しているらしい。


「『びょー』なのか、『びゅー』なのか……なんなんだろ? この音」


 縦型の堀の底に膝をついて発信源を探す彼女。服が泥だらけになっていっても気にしない性格のようだ。


 昨日の探検で間違いなく古井戸から聞こえてきたのは間違いないのだが、やはり彼女は首をかしげてしまう。

 音が反響してしまっていて、どこから鳴っているのかよく分からなかったのだ。


 しかも件の音は、始終鳴っているわけではない。

 音がある時とない時があり、まるで人間の呼吸のように一定間隔であるのも要因だろう。

 深呼吸をしているようで、一定のリズムで古井戸が鳴動する。


「あ! あった!」


 アルスが大声をあげ、ポポに知らせると、ちらちらと丸い影が動いた。

 まったく喋らないが、どうやら喜びの舞を踊っているらしい。


 彼女は足元付近に指を差す。小さな穴が開いていて、そこから隙間風が吹いているようだった。彼女のスカートをやさしく揺らしている。


「何か、隠してあるかなぁ?」


 彼女はその穴に手を突っ込んで大きくさせる。かなりもろくなっており、幼い彼女の力でも難なくこじ開けられた。


 幼女は地べたに這い、顔を覗かして穿たれた穴を覗く。何かありそうな雰囲気のある穴だ。試しに腕を突っ込んでみる。

 彼女の細い腕は見事に貫通し、ズボッ――という音で、空間はありそうだと気付いた。だが、何もつかめない。意外と深いようで短い腕ごときでは暖簾に腕押し。虚空に手を伸ばしただけだろう。


 今度は近くの石を拾って穴に落としてみよう。

 案の定、いつまで待ってみても、落下音が聞こえない。

 聞こえるのは一定間隔で聞こえる、古井戸の喘鳴ぜいめいだけ……。


「深そうだなぁ……」


 気になる……けど、ここから落ちたらさすがに危険そうだ。戻ろう――と立ちあがった途端、


「うわっ」

 と、声をあげた。隙間風の喘鳴が一層大きく中を響かせ、彼女の足元を震わせる。尻もちをしてしまった。

 さらに不運なことに……その衝撃が痛恨の一撃だったのだろう、ベキリっと不穏な音をあげて底が抜けてしまった。


「うにゃぁー」


 変な声をあげてしまう。

 アルスは反射的に片手を伸ばしてぶら下がったが、それももろく、石ころに変じた。


「ポポ~! 助けて~!」

 彼女はそのまま穴のなかに吸い込まれてしまった。

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