第2話
つい三日前でした。いつものようにドゥランへ入って、一日を掛けて工場や販売店に挨拶回り。取り留めの無い話ばかりですよ、売上が上がった下がった、或いは身体の調子や政治の不満……しかし、歳を取るとそういう話題しかなく、また盛り上がるから始末が悪いです。
夕方頃、最後の訪問先を出て私は愕然としました。物忘れが悪化したのか、つい、宿を取るのを忘れていたのです。アナタはまだ分からないでしょうが、この歳になると、すっかり宿を予約していたと思い込んでいるんです。笑って下さい。あの時は流石に私も笑いました。
一つだけ言い訳をさせて頂くと、その頃の私はちょいと悩みを抱えていまして。なぁに、大した事じゃありませんが、我々大ガラーデン商会で使う商標の図案が、どうにも思い付かなかったのです。そういう勉強はしていませんし、部下達も「お任せします」などと押し付けてくるし……。
脱線しましたね。さて……いつまでも悩んでいる訳にもいきませんから、近くの土産店で聞き込みをしました、「安くて良い宿はあるだろうか」と。するとそこの店主は高くて良いか、安くて悪いか、そのどちらかだけだと言うのです。
結局、後者を取りました。「今度こそはドゥランの香水を買って来い」と妻にキツく言われていた私は、安宿で妻の言い付けに震える方を選んだのです。店主に馬車を呼んで貰い、悪路に眉をひそめていると――やがてクミランという村に着きました。
職業柄、各国様々な宿を泊まり歩いて来ましたが……いやはや、クミランはお世辞にも栄えているとは言えません。建物の塗料は剥げているし、「ようこそクミラン村へ」と書かれた看板は虫食いが酷い。「旅客院認定区域」の紋様が泣いていました。公的資金が流れている間、何もせずにノンビリしていたんでしょうなぁ。
話を戻しましょう。例に漏れず貧相な宿に着き、手続きをしている私を、そこの主人が分厚い眼鏡の奥からジロジロと見てくるものですから、理由を問うと、
「ここは旦那のような方が泊まられる場所ではありませんよ」
などと言います。分かっていますよとは口が裂けても……ですから、「風情が気に入りまして」と心苦しい嘘を吐いたら、嬉しかったのでしょう、酒場の割引券を頂きました。
さっさと眠ろう、眠ってやり過ごそう……そう思っていましたが、頂いた割引券がどうにも私を睨んでくる気がしましてね? 仕方無しに宿を出ました。ドゥランの酒場ではトランプを販売していますから。市場調査も兼ねて……ね。
クミランの規則に従い、酒場は実に小さなものでした。しかし酒の種類は豊富でして、意外にも楽しい酔いの時を過ごせましたよ。常連客の視線は気になりましたが、時間が経つと彼らも気を許したのか――猫のようですね――「何処から来た」「トランプは出来るのか」と訊ねてきました。
私も彼らも酔客です、あやふやな問答を繰り返しました。これはこれで楽しいものですが……この後、私の酔いはハッと醒めてしまいました。
禿頭のご老人の冒険譚に耳を傾けていると、一人の女性が――彼女は獣人でした――扉を開けて入って来ました。チラリと出入り口の方を見やり、私は、全身を棍棒で殴られるような衝撃を受けたのです。
年甲斐も無く、私は指まで指して叫びましたよ。
「君だ! 君しかいない!」とね。
私は彼女の横顔を見た瞬間「これだ」と思いました。そうです、商標の図案ですよ――。
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