第9話 『助けて』を聞き逃す

 朝起きて、顔を洗い、朝食をとる。テレビで流れるニュースは、芸能人の不倫のニュースが流れている。僕にとってどうでもいいことなので、コメンテーターが真剣に意見を繰り広げている姿が滑稽に見えた。

 もっと、考えさせられるニュースを流してくれ、そう願った。

 昨日、常盤さんからのメールを見て動揺した。

 しかし同時に、自分を落ち着かせようと、言い訳探しに頭が働いた。

 これからは、彼女のミステリー制作を手伝わなくていい。僕から何か誘わなければならない苦労もなくなる。もちろん告白だってする必要がない。

 彼女もミステリー嫌いの父親から反対されたのなら仕方がないし、彼女も書けないときっぱり言っている。

 だから、誰も悪くないし、どうすることもできない。

 これからも8割の力を出していけばいいのだ。それで僕は満足できるし、そうしてきたはずと改めて誓った。

 そして、このメッセージを以って常盤さんとの盟約は解消された。

 

 昨日はそう考えると、寝ることができた。しかし、朝起きてからまた思い出している。

 とりあえず、常盤さんに心配させたくないと、学校には行かないとまずいと思い、重い足を引きずって家を出た。


 教室に着いて、席に座ると教室はいつもと同じように、平和な騒がしさがあった。

 常盤さんが教室に入ってきたときは、胸の辺りがどうにかなりそうであったが、落ち着こうと僕は鞄から本を取り出して読み始めた。

 しかし、彼女が僕の方へ来るのが分かった。

「月岡さん、昨日は急ぎであったのでメッセージで伝えてしまいごめんなさい。話がしたいのでお昼休みどこかに行きませんか?」

 彼女は昨日の件について弁明をしたい様であったが、僕にはもうその必要ない。

「ごめん、昼休みは予定があるから無理かな。昨日の件はちゃんと伝わったから、これ以上はもう大丈夫だよ」

 一生懸命、笑顔であろうとしながら、彼女に話した。

「放課後はどうでしょうか。私ちゃんと謝りたいです」

 クラスにいる人たち全員が僕たちの方を見ていると感じた。ひそひそと話している人達、興味なさそうな顔をしながらもじっくりと観察している奴もいて腹が立った。

「その気持ちも伝わっているから。もう僕に波風を立てないで。分かった?」

 忠告するように言ってしまい、胸の辺りが一層きつくなる。

 朝礼のチャイムが鳴ったその時だった。

 常盤さんの口が小さく動いた。

「助けて——」

 そう呟いているようであったが、チャイムの音で聞き取れなかった。


「おい、何故来ない」

 正面には大塚の姿があった。

「なんでお前こそ、ここにいるんだ」反射的に言ったが、時計を見ると昼食の時間であった。

「とりあえず、ここから出るぞ」

 ここにいるのも辛いので僕は大塚についていくことにした。


 校舎を歩き、実習棟の端にある、美術室に着いた。中に入ると同じクラスで、大塚の彼女でもある沖野もいた。

「まあ、座れ」

「なんで、美術室なんだよ」僕は不服そうに工作椅子に座った。

「真理が昼休みここで作業するというから、俺たちも使わせてもらうんだ。今のお前にはもってこいの場所だろ」

 確かにここは、人がいないし静かである。

「そうだな……」

 肩の力が抜け、お腹が空いた。何か食べようと思ったが、そういえば今日は何も用意していないことを今更気がついて、購買に行こうと立ち上がった。

「お前の教室に行く前に購買に行っておまえの分も買ってきた。金も今のお前からは受け取りたくない」

 そう言うと、たまごサンドとアンパンを僕に渡してきた。どちらも僕が購買で注文するものである。

 大塚は気持ち悪いくらい気が利いて、僕を慰めようとしているのがよく分かった。

「ありがとう。似鳥はどうした」

 たまごサンドを食べながら、まわりを見渡した。

「ええっと、『俺はやることがあるから、今日はいい』と言ってどこかに行った」

「なんだそりゃ」

 あいつの行動が気になったが、考えても推測できる奴ではない。

 僕自身も、体育館であの話をした後で、どうにも気まずいのは確かである。

 僕はパンを食べながら、沖野の方を見ると僕たちに構わずキャンバスに集中している。

 沖野は油絵で田園風景に佇む西洋風のお城を描いていた。どこの国のお城なのだろうかと考えてしまった。


 常盤さんとの件について、根掘り葉掘り聞かれると思っていたが、大塚は夏休みの予定の事とか、最近見た映画とか当たり前のことを話していて、少しずつだけど話すのが楽しくなった。


「そもそも、照の8割理論は、どんな基準で今何割出しているかを判定しているんだ」

 突然そんなことを言ってきた。沖野の絵を眺めながら言っていたので、まるで彼女に話している様であったが、そうではない。

 大塚は僕の信条についてそれをいつも『8割理論』と名付けている。

「独断と偏見だよ。俺が満足すれば良いだけ」

 大塚はちらりと視線をこちらに向ける。

「じゃあ俺から見れば照は十分凄いよ。だから照なら一瞬でも本気を出せば多分解決できると思うぞ」

 彼にはどこまで今回の件を知っているのか、僕には分からないが、たぶん全部は分かっていないだろう。分かっているとしても、昨日似鳥と話したことくらいが限界である。

 それでも、大塚は僕に説得をしているようだった。

 その気持ちはありがたいが、勝手に踏み込んでほしくないという気持ちもあった。

「それは無理だよ」

「何故——?去年お前が脚本を書かされた時、最初は儚い復讐ミステリーだったのが周りからの無理難題の要望のせいで、凄惨な猟奇的ミステリーに出来たじゃないか。あの時のようにまた対応すればいい」

 そういえば最初は、そんな物語が書きたかったなと、こんな状況で思い出した。

 周りから求められて、自分を曲げて、絞りだして生み出した作品だ。たしかにあの時の僕はよく頑張った。

 でも今の状況とは違う。

「今回はそれの比じゃないし、誰にも求められていない」

 そう言うと、大塚は不満そうな顔をした。

「常盤さんが求めているじゃないか、それ以上に何がいる」

「求めていると彼女は言ってない。これは彼女の特殊で特別な家族の事情なんだよ」

 彼女は朝、僕に何か伝えようとしていた。それは僕に伝えなければいけない一言だったと思うけど、聞きたくなかった。だから、僕の中では常盤さんは何も言っていないことにしていた。

「みゃこっちは普通の女の子でしょ」

『みゃこっち』って誰だと一瞬思ったが、常盤さんの下の名前を思い出した。

 そう言ってきたのはさっきまでキャンバスに体を向けていた沖野だった。今はしびれを切らしたのかこちらを向いている。

 沖野は怒っているようではないが、僕を理解せず軽蔑するような顔をしていた。

「真理ちゃん。どうぞ叱ってやってください」

 大塚は沖野をまくし立てた。

「みゃこっちは、甘いものが好きで、雑誌の話をして、好きな男の子の話をする。ごく普通の可愛い女子高生だよ」

 常盤さんが可愛い女子というのは僕にも分かっている。僕にとって彼女は特別だ。

 今更沖野に言われなくても——。

「分かっているよ。俺が行動しないのを彼女の事情のせいにしていることも、怖くて踏み出さないことを信念で盾にしていることも——」

 沖野は僕と話している間パレッドの上に乗っている青と白の絵の具を、筆で力を込めて混ぜている。

 僕はそれをずっと見つめていた。今の心はあの絵の具のようにぐちゃぐちゃである。でもあれみたいな綺麗な色はしていない。

「分かっているならその考えを覆せよ。好きな子のために正々堂々と、いやどんな手段でもいいから戦って、勝ち取ればいいでしょ」

 沖野は淡々とそう言うと、キャンバスの方に向いて作業を再開した。彼女が絵の具を混ぜている間に僕は説得されていた。

 大塚はにやにやしながら沖野の事をずっと見ている。今にも沖野に抱きつこうと目論んでいる爽やかな変態の目をしていた。

 僕はどう戦おうか考えながら、パンを口に放り込んで立ち上がった。

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