第16話 出席番号男子9番・野中恵成 ②

 先生はまるでぼくたちの争いに興味がないといった様子で言った。鼻くそをほじっていた。

 ぼくは野中に殴りかかった。

 しかし、喧嘩なんて小学生以来したことがなかったぼくのパンチは野中に軽々とかわされてしまう。

「いじめの仕方だけじゃなく喧嘩の仕方も知らないのか?」

 野中が左から繰り出したジャブがぼくの顔面にヒットした。

 鼻血が噴き出した。野中にしてみたら、牽制のつもりの軽いパンチだったろうけれど、鼻の骨が折れたかと思うほどの痛みだった。

 続けて本命の右ストレートが頬に直撃し、ぼくは目眩がして、膝が笑い、立っていられなくなった。脳震盪を起こしたのかもしれない。

「たった二発で終わりかよ。あっけねーな」

 そう言った野中の足のステップは、ボクサーのように見えた。もしかしたらボクシングを習っているのかもしれない。崩れ落ちるぼくを逃がすまいと顎にアッパーカットが入った。

「しょーりゅーけーん」

 野中がふざけた声で言った。

「ユーウィン、パーフェクト!」

 床に崩れ落ちながら、片手を上げ勝ち誇る野中をぼくは見た。

 そして次の瞬間、その腕と顔の上半分が切断されるのをぼくは見た。内藤美嘉だった。

 チェーンソーによる切断は、切り裂かれたというより、削り取られたといった方が正しいかもしれない。野中の削り取られた鼻から上の顔が大塚紫穂という女子の机の上にべちゃりと乗った。大塚が悲鳴を上げる。野中の目は何が起こったのかわからないというように、上下左右をきょろきょろと見回していたが、すぐに白目を向いて動かなくなった。遺された鼻から下の体は力なく崩れ落ちた。

 平井は野中の死体をさぐり、制服の内ポケットから透明なビニール袋を取り出した。

「俺がどうして、あんなクソ野郎に従ってたか知りたいか?」

 平井はゲームが始まってから初めて口を開いた。いや、同じクラスに半年いて、彼の声を聞くのはこれがはじめてのような気がする。それくらい彼は寡黙な男だった。

 まだめまいのする頭で、ぼくは首を縦に振ると、平井はぼくにその透明なビニール袋を見せた。

 注射器のようなものと、血のような赤い液体の入った小袋がいくつか見えた。

「夏休みにバスケ部の男子が薬でラリってマネージャーを集団でレイプしたのは知ってるだろ?」

 それがその薬だとでも言うのだろうか。でもどうして野中がそれを持っているんだ? 野中は確かテニス部で、平井も中北もそうだった。彼らがテニス部員だったのは中学時代からで、伊藤香織の恋人のいじめはその部活動の中で行われたはずだった。

「このクラスにもその集団レイプに参加した奴がいる。なぁ山口、そうだろ?」

 平井に名前を呼ばれた山口朋紘は、ああそうだよ、とだけ言った。彼は悪びれる様子はなかった。バスケ部の誰がドラッグに手を染め、集団レイプに参加したか、学校側は生徒にも保護者にも、もちろんマスコミにも生徒の名前を公表はしなかった。ただこのクラスにもそれに参加した生徒がいるという噂は聞いていた。けれどバスケ部員はこのクラスには山口の他にも、青山元や大河内真矢といった生徒がいて、誰が参加者だったのかまでは知らなかった。

「彼は小学生時代は同級生だった野中くんよりもカリスマ性を発揮し、クラスでのいじめを煽動していたそうですよ」

 先生が言った。それは知らなかった。初耳だった。山口がそんな奴だったなんて。

「あの野中くんをいじめるほどだったそうですよ。もっとも中学生になると目立たない生徒に落ちぶれたようですが。野中くんを生み出したのはひょっとしたら彼なのかもしれませんねぇ」

 先生はそう続けた。

「どうして中学になって野中が山口にとって代わる存在になったのか、お前から説明してやれよ」

 平井が言い、そして山口は言った。

「野中がそのドラッグの売人だったからだ」

 信じられなかった。その言葉を理解するのに、ぼくには数秒の時間がかかった。こんな田舎町でドラッグが関わる事件が起きるだけでも珍しいというのに、その売人が高校生だったどころか、中学生の頃から売人をしていただなんて。

「八十三町にはふたつトライブがあるだろ」

 平井が言った。トライブっていうのは暴走族とカラーギャングを足して2で割ったような組織だ。

 八十三町には平井の言うとおり、市町村合併し八十三町になる前の旧八十三村を縄張りとするエイティスリーと旧十四山村を縄張りとするフォーティン、ふたつのトライブが存在し、縄張り争いの小競り合いを繰り返していた。

 どちらのトライブもリーダーはまだ二十歳そこそこと若く、構成員も18~25歳くらいの連中だ。大抵は高校を卒業したあと、進学もせず、就職も決まらなかったような連中が、リーダー直々の試験を受けてトライブに入る。試験は喧嘩の技量や頭の良さを見るために行われ、どちらかの能力が秀でていないとトライブには入れないと聞く。たまに例外があって、高校生や中学生のうちからトライブに入ることを許可される者がいると聞いたことがあったけれど、まさか……。

「野中は十四歳、中学二年のときに喧嘩の技量と頭の良さの両方を買われてフォーティーンのメンバーになったんだ」

 山口が言った。それで、ぼくの中で、野中とドラッグの売人という一見相容れないふたつの要素がつながった。

 トライブは地元のヤクザともつながっていて、主な資金源をヤクザから依頼されるドラッグの売買から得ていると聞いている。野中がフォーティーンの構成員だったなら、ドラッグの売人を任されていてもおかしくはなかった。

「俺は誘惑に負けて、野中からそのドラッグを買い、いつの間にかドラッグを手に入れるためなら野中の言うことを何でも聞くようになっていた」

 俺がこいつにさからえなかったのは、こいつが売人だったからだ、山口はそう言い、ぼくの考えがあたっていたことがわかった。

「お前もそのドラッグのために、野中の下についてたのか?」

 ぼくの問いに平井は、そうだ、と答えた。

「このドラッグはアリスっていうかわいい名前でね、ドラッグのくせに苗字もあるんだ、草詰って言ったかな。不思議だろ。草詰アリス。まるで女の子の名前みたいだ」

 ぼくはその名をどこかで聞いたことがあるような気がした。まただ。また例の既視感、デジャブって奴だ。前世の記憶だか、夢の記憶だか知らないが、既視感に襲われるたびにぼくの頭はひどく痛む。

 平井はブレザーを脱ぎ、シャツの袖をまくり上げると、注射の痕だらけで紫色の斑点が無数にある腕に注射器を刺した。

「アリスはとてもおもしろい幻覚が観せてくれるんだよ。秋月、お前は知っているか? この世界はひとつじゃない。同じ人間が住む世界が無数にあるんだよ。俺はこの世界では、野中の手下に過ぎなかったし、たぶんこのゲームで俺は死ぬだろう。けれど、あちら側では俺はトライブの新勢力HIRAIを率いるリーダーなんだ。その世界の俺がきっと本当の俺なんだ」

 平井はまるで意味のわかないことを言うと椅子に座った。ドラッグが効いてきたのか、焦点のあわないうつろな目で、天井をぼんやりと眺め始めた。

「あぁなったら、何時間かは帰ってこれない」

 山口が言った。

「あいつが言っていたのは本当だ。この世界はひとつじゃない。俺もこの世界じゃ、野中に覇権を奪われた落ち武者みたいなもんだけど、アリスを打てば、別の世界、俺がその世界、その物語の主人公の世界に行けるんだ。アリスが見せてくれる世界は俺たちひとりひとりの理想郷だ」

 山口は、その自分が主人公の世界に酔っている平井に近づくと、彼の手から注射器と赤い液体の入った小袋を盗った。

「お前、それ、針を換えるとかしないと危ないんじゃないのか?」

「お前変わってるよな。そんなことを気にするなんて。普通は止めるんじゃないのか」

 山口もそのアリスとかいうドラッグに手を出すことに、ぼくは反論するつもりはなかった。けれど、最低限衛生のことは考えるべきだと思い、そう言っただけだ。

 平井や山口の言った通り、ドラッグが見せる世界が本当の自分の世界だと思えるなら、それはきっと彼らにとって幸せなことなのだ。

 山口もドラッグの世界に酔いしれていった。

 こんなくそったれなゲームが開催されるような世界はぼくも御免だった。

 けれど、ぼくはこの世界で生き抜かなきゃいけない。大切な友達を守るために。姉ちゃんを助けるために。

 次の指令メールが届いたが、その内容は内藤が野中を処刑したため、一時間休憩時間にするという内容で、ぼくたちはほっと胸をなでおろした。

「みーんな、いじめってのがわかってないなぁ」

 笹木舎聡(ささきささとし)が言った。

「いじめっていうのはさ、もっとスマートにやるもんでしょ」

 このゲームに乗っかかる奴がまだいた。

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