第6話 2013年10月9日、水曜日 ①
翌朝、Sとあやがぼくを迎えにやってきた。
ふたりはまるで毎朝ぼくを迎えにきてくれているかのようで、
「Sくんとあやちゃんが迎えに来てくれたわよー」
姉ちゃんもぼくが昨日まで不登校だったことを忘れてしまったかのように、部屋にいるぼくに声をかけた。
あやはともかく、Sという名前とは言えないイニシャルにすら疑問も抱いていないようだった。
「すぐ行くから待っててもらって」
高校に三日しか行ってないぼくは、数ヶ月ぶりに着る、ブレザーの制服に少し手間取ってしまっていた。
部屋を出ると、ダイニングで姉ちゃんと弟が朝食を食べていた。母さんもいただろうけれど、ぼくにはもう見えない。
「あんた毎朝毎朝Sくんとあやちゃんを待たせて、ちょっとは悪いと思わないの? ほら、ネクタイ、曲がってるよ。だらしないんだから」
姉ちゃんはそう言って、ぼくのネクタイを直してくれた。
弟だけが不思議そうな顔でぼくを見ていた。
「あの人たちだれ? お兄ちゃん、学校行くの?」
当たり前だろ、と答えると弟はきょとんとした顔をした。
弟は携帯電話を持っていない。だから当然RINNEをやっていない。ぼくがそうだったようにその存在すら知らないかもしれない。
アリスとRINNEで世界は変えられる。けれど、その変化の影響を受けるのはRINNEユーザーだけのようだ。
だから姉ちゃんはぼくが不登校だったことを忘れてしまったけれど、弟は覚えている。
姉ちゃんと弟は今、違う世界を生きている。
RINNEユーザーとそうでない者の、世界がふたつあるのだ。
ぼくはコップにつがれていた牛乳を飲み干し、トーストを口に咥えて玄関に向かった。
そこで、ぼくははじめて、玄関先で待っていたぼくの友だち、Sとあやに出会った。
Sは背が高く、180センチはありそうだ。制服の上からでもわかるくらいがっちりした体をしていて、体育会系の部活に入っていそうだった。坊主頭じゃないから野球部ではないだろう。サッカーか、バスケか、バレーかもしれない。
あやはSより頭ひとつ分以上背が低かった。150センチあるかないかといったくらいなのに、そのわりに制服の下の胸がすごく大きかった。ぼくは思わず凝視してしまった。ぼくの視線に気づいたあやは、赤いセルフレームの眼鏡を指でくいとあげながら、咳払いした。
「おはよう。いつも待たせてごめんな」
ぼくは言った。
いつも、という言葉をあえて使った。
アリスの力を信じていないわけじゃないけれど、本当に世界を変えてしまったのかぼくには確認する必要があった。
「おはよう」
あやが言った。
「気にすんなって。ぶきっちょなお前がネクタイにとまどるのを見越して、いつも早めに迎えに来てるんだからさ」
Sが続ける。
どうやら、アリスの力は本物らしい。
Sもあやも昨日まではぼくの友だちではなかった。ぼくが通う高校の生徒ですらなかったはずだ。アリスは同い年の男女ひとりずつをRINNE掲示板でみつくろってくれただけだから。
けれどふたりとも八十三高校の制服を着ていて、ぼくの友だちの顔をしている。
アリスの力は、このふたりの人生を書き換えてしまったのだ。
「何ニヤニヤしてんだよ、お前、ちょっと気持ち悪いよ」
ぼくが靴紐を結んでいると、Sが言った。
ぼくはいつの間にかこみあげてくる笑いに顔を歪めていたらしい。
「最高だよ、アリス」
ぼくはSやあやには聞こえないような小さな声で言った。
ぼくのすぐそばに立っていたアリスは、
「ご主人様に喜んでいただけて嬉しいです」
いつものようにニコニコと笑っていた。
「さ、みんな行こっか」
姉ちゃんがぼくたちに声をかけた。
どうやらぼくは、Sとあや、それから姉ちゃんと毎朝いっしょに通学しているという設定になっているようだ。
「はい、お姉さん!」
嬉しそうにSが返す。Sは姉ちゃんのことが好きという設定のようだ。
ふたりには見えないように、あやがぼくの手を握った。
ぼくは驚いて、あやの顔を見る。あやは恥ずかしそうにうつむいて、顔を真っ赤にしていた。彼女はぼくのことが好きらしい。恋人という設定なのかもしれない。女の子に好かれるなんて、生まれてはじめてのことだった。
「ご主人様のためにと思ってしたんですけど、ちょっと設定、凝りすぎちゃいましたか?」
アリスがぼくに言った。
ぼくはアリスにもう一度言った。
「最高だよ」
アリスが嬉しそうに笑った。
ぼくたちはそれぞれ自転車に乗って、学校に通学した。
三人には見えていないだろうけれど、アリスもいっしょだ。アリスはぼくの自転車の荷台に座っている。
Sはどうやら姉ちゃんにぞっこんのようで、Sと姉ちゃんが並んで前を走り、ずっとSが姉ちゃんにいろいろと話を振って、姉ちゃんを笑わせていた。ぼくはまだSのことを何も知らないけれど、悪い奴には見えなかった。姉ちゃんの彼氏のあの男よりも、はるかにSの方が姉ちゃんにお似合いに見えた。
ぼくとあやはふたりの後ろに並んで自転車をこいでいた。
けれど、ぼくはSのように気の利いた話であやを笑わせることなどできず、というよりあやと何を話していいのかさえわからなくて、ふたりとも無言で自転車をこいでいた。
アリスのおかげでぼくは普通の高校生になった。
けれど、この世界におけるぼくの設定が変わったとはいえ、ぼく自身にあるのは三年間不登校の引きこもりを続けた記憶だけだ。
設定だけで、普通の高校生だった記憶がない。あやのことも何も知らない。だから何を話していいのか何も思いつかなかった。
アリスによれば、それはしかたのないことだそうだ。
アリスには世界を再構築する力がある。けれどアリスは自らそうする意志も権限も持ってはいない。
アリスという名の携帯電話の使用者であるぼくに、その意志と権限は委ねられている。
世界を再構築する意志と権限を持ち、それを実現する者が、再構築によって再構築されたことを忘れてしまっては、この世界の誰も世界が再構築されたことを知らないことになってしまう。
だから、再構築をなしとげた者は、再構築された世界で再構築する前の自分のまま生きなければいけないのだという。
「なんか、ぼく、あいつみたいにおもしろい話とかできなくてごめんな」
と、ぼくはあやに言った。
あやは首を大きく横に振った。自転車に乗りながらだったから、ちょっと蛇行運転する形になって、危なっかしかった。
あやは全然つまらなそうな顔はしていなかった。むしろ楽しそうにしていた。彼女から話題をふってこないところを見ると、彼女もぼくと同じで奥手な女の子のようだった。楽しそうにしている彼女を見て、ぼくは本当にこんな何のおもしろみのないぼくのことを好きでいてくれているのかもしれない、と思った。
ぼくの家から学校までは自転車で15分ほどの距離だった。
駐輪場でどこに自転車を停めるんだったか考えあぐねていると、Sが教えてくれた。
「お前ってほんと忘れっぽいよな。毎日のことなのに」
Sはそう言って笑った。
自転車を停めたぼくは、
「忘れっぽいついでに靴箱と教室も忘れたみたいだ。教えてくれ」
と、言って笑った。忘れっぽいついでって何のついでだよ、とSがぼくを肘で小突いた。
そうしていると、本当にぼくたちは友だちみたいだった。いや、本当に、友だちなのだ。もう世界はそういう風に再構築されたのだ。
「三人ともちゃんと勉強するんだよー。居眠りとか教科書に落書きとかしちゃだめだからねー」
「はぁい、お姉さん」
靴箱で姉ちゃんと別れて、ぼくはSとあやに案内されて教室に向かった。
1年2組。
Sが勢いよくドアを開けて、
「おはよー」
とクラスのみんなに声をかけた。
「オーッス、S。今日も元気だな」
昨日までクラスメイトではなかったはずのSに、ぼくの記憶の片隅に見覚えのある顔の少年が声をかけた。3日間しか行かなかった高校生活で、ぼくがクラスメイトの顔を覚えていることが少し意外だった。もともと記憶力はいい方だったけれど。けれど、覚えているのは顔だけで、見たら思い出したという程度のことだ。もちろん名前までは覚えていない。
「おはよう、秋月くん」
「よ、蓮治、おはようさん」
今度はぼくの番だった。
クラスメイトたちが次々にぼくに声をかけた。
秋月蓮治(あきつきれんじ)。
それがぼくの名前だ。
「お、蓮治とSじゃん、おはよう」
教室の隅で4、5人で携帯ゲーム機で遊んでいた男子たちのひとりがぼくたちに気づき、手をあげる。
「よー、お前ら、またモンスターイーターか? 飽きねぇな」
「そんな早く飽きるかよ。出たばっかだっつーの」
Sの口から出たモンスターイーターというのは、つい先日発売されたばかりの人気のゲームの名前だった。ちょっと前まではモンスターを狩るゲームが流行っていたけれど、今はモンスターを喰らうゲームが人気だった。
「お前らもやろうぜー。このゲームは人数多ければ多いほどおもしろいんだ」
「うーん、考えとく。俺、今、これ一筋だし」
とSは言って、どこかから取り出したサッカーボールでリフティングをした。部活動はバスケかサッカーかバレーかと思っていたけれど、案の定サッカー部らしい。
「目指せ工藤新一!」
Sはまじめな顔でそう言って、シュートを決めるポーズをした。
「お前目指すもん間違ってるぞ」
男子たちが大声で笑う。
「だって、あいつ、たぶんプロのサッカー選手よりうまいぜ?」
「いやいやいや、漫画だし」
「そもそもサッカー漫画じゃねぇから」
Sと男子のそんなやりとりを聞きながら、ぼくははははと笑った。
「あやちゃんもおはよう」
今度は女子があやに声をかけた。
「お、おはよ」
あやは小さな声でそう言うと、いそいそと自分の席に向かって行った。
「あいつ、いつもあんな感じなんだよなぁ」
と、Sがあやの後ろ姿を見て言った。
「自分でいうのもなんだけど、俺とお前ってこのクラスの中心みたいなところあるじゃん?」
「え? そうなの!?」
ぼくは驚いて、思わず大きな声を出してしまった。
「何言ってんだよ。また忘れっぽいついでか?」
Sがぼくの背中をばんばん叩いた。
「そんな俺とお前といつもいっしょにいるのに、あいつ全然クラスになじめてないんだよな。なんでだろ」
なんでだろって言われてもぼくが知っているわけがなかった。
ぼくは後ろにいたアリスに小声で訊ねてみた。
「えっとですね、ご主人様が高校デビューされるにあたって、アリスはいくつか学園ドラマというものを視聴してみたんです。その中で一番おもしろかったのが野ブスをプロデュータっていうドラマでして」
「あ、いい、うん、なんか、わかった」
何年か前に姉ちゃんがハマって見てたから、そのドラマのことはよく覚えている。つまり、そのドラマの通りの、クラスの人気者の男子ふたりに、日陰者の女子(実は美少女)という異色のトリオという設定にぼくたちはなっているのだ。
ぼくは教室のドアから、教室を、クラスメイトたちを眺めた。
アリスが設定してくれたとおりに、世界は再構築されていて、なんとも言い難い不思議な気持ちだった。
なぜかぼくはそこから一歩も前に踏み出せずにいた。
昨日まで、ぼくの居場所はどこにもなかった。家の部屋だけがぼくの最後の砦だった。
それなのに、たった一晩でぼくの目の前にはぼくの居場所ができていた。
友だちができただけじゃない。クラスの人気者にぼくがなれるなんて夢にも思わなかった。
胸の内からあふれてくるものを、ぼくは止められなかった。とめどなく涙があふれてきた。
「あれ? お前なんで泣いてんの? そんなに俺のギャグがおもしろかった?」
Sがぼくに言った。
馬鹿野郎、全然おもしろくねぇよ。ぼくはそう思ったけれど、口には出さなかった。
「こんなに嬉しいことがあるんだな」
ぼくは代わりにそう言って、一歩足を踏み出した。
踏み出して、そしてぼくはまた戸惑う。
「なぁ、S」
ぼくは訊ねる。
「ぼくの席ってどこだったっけ?」
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