第5話 2013年10月8日、火曜日

「ご主人様、ご主人様、起きてください」

 翌朝、ぼくはアリスに起こされて目を覚ました。

 ぼくはどうやら、部屋の隅に座り込んだまま眠ってしまったらしかった。

「こんなところで寝てしまったら風邪をひいてしまいますよ?」

 ぼくからベッドを奪っておいて、ぼくの自称メイドはそんなことを言うのだった。

「誰のせいだと思ってるんだよ」

 悪態をつくぼくの長い前髪をかきあげて、アリスはぼくの額と自分の額をくっつけた。

「熱は……ないみたいですね」

 彼女の甘い吐息がぼくの鼻腔をくすぐった。

 目の前にアリスの顔があって、グロスを塗ったようなてかてかした唇がある。こんな近くで女の子の顔を見るのは姉ちゃん以外初めてだった。

 体も心も成長が遅れているぼくにも、アリスが魅力的な女の子だということはわかった。

「脈拍、心拍数、共に正常。よかった問題ありません」

 アリスが安心したように微笑んだ。

 思えばこのとき、ぼくはアリスに恋をしたのかもしれない。携帯電話に。

「あれ、心拍数が急に……」

 きっとぼくの顔が真っ赤になっていたからだ。

 ぼくは慌ててアリスをぼくの体から引き離した。

「どうしたんですか? ご主人様? アリス、何かいけないことしましたか?」

 小首をかしげるアリスがかわいく見えてしかたがなかった。

「別に」

 ぼくはそっけなく答える。

「今、何時?」

「午前8時15分56秒です」

 さすが携帯電話なだけある。しっかり秒数まで教えてくれた。

「本日は特にご予定は入っていませんね」

「いつもだよ」

 ぼくは言った。予定なんてものはもう三年も入ったことがない。

 昨夜寝る前に、ぼくは変わりたいと思った。

 普通になりたいと。

 それは、たぶん学校に行くことだと思う。

 県で最底辺の高校だから、学校にちゃんと行ってる連中にもタバコを吸ったり喧嘩をしたり、普通じゃない奴がたくさんいるだろうけれど、ぼくはまず普通になるために学校に行かなければいけないと思う。

 どうすればいいかはちゃんとわかっているんだ。

 けれど、ぼくの意志ってやつは自分でもびっくりするくらい脆くて、じゃあ今日学校に行こうという風には考えられない。

 アリスから8時15分だと聞かされて、正直ほっとした。

 あと15分で学校ではホームルームが始まる。今から準備してもどうせ間に合わない。そんなことを一番に考えてしまった。

 ぼくの意志は、未来からやってきたネコ型ロボットのアニメの主人公の小学生以下の代物だ。

 あいつはいじめられていても学校にはちゃんと行ってるし、テストの成績はいつもボロボロだけど年に一度くらいはやる気を出して勉強をしたりする。映画では意外な特技を発揮して大活躍したりもする。

 だからぼくは今日も学校には行かない。


 ゆうべぼくは母さんをブロックと非表示にした。

 足音が聞こえ、朝ごはんがぼくの部屋のドアに置かれる音だけがした。

 いつもなら母さんの足音が聞こえなくなるまでぼくは部屋のドアを開けることはなかったけれど、今日のぼくはドアを開けてみることにした。ゆうべのことが本当かどうか確かめたかったからだ。

 母さんは見えなかなった。声も聞こえない。ただ影だけがそこにあった。

 それでいい。ぼくには母さんは必要ない。

 母さんが部屋に運んできてくれた朝食を食べ終わると、早速することがなくなった。

 ぼくはベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を眺めていた。

 することがないと、ぼくはいつもこの見慣れた天井を眺める。

 姉ちゃんも弟も8時には家を出ていて、9時からパートの母さんもさっき家を出ていった。

 一番に帰ってくる弟が帰るまで、毎日ぼくはこの部屋にひとりだった。

 一日中天井を眺めていた日もある。

 不登校のひきこもりには、本当にすることが何もないのだ。

 アリスもぼくと同じようにしばらく天井を眺めていて、

「ご主人様」

 小一時間が過ぎた頃、ぼくを読んだ。

「これ、楽しいですか?」

 アリスのそんな問いにぼくは思わず吹き出してしまった。

「どうして笑うんです?」

 だって、そんなの聞かなくてもわかりきってることだから。

「楽しいわけないよ。暇だから、何もすることがないからこうしてるだけだよ」

「人間は何もすることがないと天井を眺めるんですか」

「人それぞれだと思うけど、ぼくはそうかな」

 アリスは大きくため息をついた。

 そして、

「ご主人様」

 もう一度ぼくを呼び、

「アリスがいることを忘れていませんか?」

 と言った。

「忘れてないよ、現にこうして話してるだろ」

「そういう意味じゃないです。アリスが携帯電話だということです」

 そう言われてもぼくにはぴんとこなかった。

 アリスはまたため息をついて言った。

「ゆうべフラウ・ボウさんを召喚したように、ご主人様にお友だちを作ることができます」


 ぼくはその後アリスとこんな会話を交わした。


「学校に行きたい。そのために友だちが欲しい。できれば同い年で男女ひとりずつ。どうしたらいいかな?」

「RINNE掲示板というものがあります。自分のIDを公開して、チャットや通話ができる相手を募集する掲示板です」

「それはまた随分と危険な掲示板だな」

「RINNEの友だち削除で本当に友だちを削除できるのは、今のところご主人様だけですから」

「そうじゃなくてさ、RINNEのIDって携帯電話のメールアドレスみたいなもんだろ? そんなものを公開なんかしてたら、どんな怖い奴から通話がくるかわからないだろ」

「RINNEはサービス開始からまだ2年ほどしかたっていませんから。出会い系サイトも今でこそ免許証などで年齢認証が必要だったり、メールアドレスを公開はしていませんが、十年ほど前までは当たり前のように公開していて、女子中高生の援助交際の温床になっていたそうですよ。RINNEについては、まだ法規制が追いついていない状況のようですね」

「ふぅん、ま、いいや。その掲示板ってのから、適当に同い年の男女をひとりずつみつくろってくれる?」

「検索が完了しました。男性はID"m-.-s"S様、女性はID"aya.145"あや様」

「じゃあそのふたりを友だちに追加で」

「友だちの設定はいかがなさいます?」

「仲のいいクラスメイトってところかな。あとはまかせるよ。明日から学校に行くから、明日の朝ふたりに迎えに来てくれるように言っておいて」

「かしこまりました。今ここにおふたりを召喚なさいますか?」

「いや、それは明日の楽しみにとっておくよ」


 ゆうべぼくは普通になりたいと思った。

 普通になるということは、学校に行くことだと。

 なぜ学校に行けないのか、ぼくは三年間ずっと考えていた。

 体育教師のせいでみんなの前で恥をかかされた。確かにきっかけはそれだった。

 じゃあ、その体育教師の携帯電話番号かRINNEのIDを入手して「友だち削除」したらどうなるだろう?

 体育教師の存在はなかったことになり、ぼくは恥をかかずにすむだろう。代わりに別の体育教師が現れるだろうけれど。

 あのとき恥をかかなかったら、ぼくは学校に通い続けていただろうか。

 試してみる価値はあるかもしれない。

 けれど、ぼくは今その体育教師を「友だち削除」する術を知らない。中学時代の連絡網を頼りに手当たり次第に同級生たちの家に電話をかけて、体育教師の携帯電話番号かRINNEのIDを聞く、という手もあるけれど、連絡網なんてどこにやったかわからない。そもそも、体育教師がRINNEをやっていなければ「友だち削除」はできない。

 それに体育教師の存在を消したとしても、たぶんぼくの今のこの状況は変わらないような気がした。

 今度は別の理由で学校に行かなくなるんじゃないだろうか。

 その理由のきっかけになる人間を「友だち削除」する。

 また別の理由ができる。

 また「友だち削除」する。

 それを延々と繰り返す。ただそうなるだけのような気がした。教師やクラスメイトの存在をただ無闇やたらに消すだけで、現状は何も変わらない。きっとそうなる。

 だったらぼくはアリスをそんな使い方をするべきではない。

 普通になるには、学校に行くためには、ぼく自身が変わらなければいけないのだ。

 中学校に入学してから、1年の二学期に不登校になるまでの数ヶ月間、ぼくにはひとりも友達ができなかった。

 学校に行っても誰とも会話も挨拶も交わすことはなく、プリントを後ろの席にまわしたりといった事務的な会話しかしなかった。事務的な会話は通算で3分にも満たないだろう。

 休み時間は教室の隅の席でただぼんやりと過ごしていた。給食もひとりで食べた。部活動には所属しておらず、授業が終わるとまっすぐに家に帰った。

 いじめられていたわけではない。誰もぼくを見ていなかった。ぼくは人を惹きつけるものを何も持っていなかった。ただそれだけのことだ。

 どうしてぼくは誰とも会話も挨拶も交わすことがなかったのだろう。友達ができなかったのだろう。ぼくは考えた。

 小学生のとき、ぼくには確かに友達がいた。

 けれど、ぼくが小学校から中学校に上がる年に、父さんの仕事の都合でぼくの家は、ここN市八十三(やとみ)町に引っ越してきた。それまでは関東にいた。父さんの人事異動は、ぼくの中学校の入学と同じ春のことだったから、ぼくは転校生というわけではなかった。

 けれど、ぼくが引っ越してきて通うことになった町立八十三中学校の生徒たちは、町内にある桜、大藤、栄南という三つの小学校からそのままエスカレーター式に入学してきた者ばかりで、新入生だけれどすでに友達関係が出来上がっていた。ぼくはそのどのグループにも入っていけなかったのだ。

 不登校だったぼくが奇跡的に入学できた、県立八十三高校もほとんどが八十三中学の生徒だった。もちろん他の市町村から入学してきた者たちもいたけれど、やはり皆入学した時点で友達関係ができていた。

 高校に通ったのは授業が始まる前の三日間だけだったけれど、ぼくは中学校に入学したときと同じ感覚を覚えた。

 きっとまた学校に行っても誰とも会話も挨拶も交わすことはなく、休み時間は教室の隅の席でただぼんやりと過ごし、弁当をひとりで食べ、部活動には所属せず、授業が終わるとまっすぐに家に帰る。

 そんな三年間が目に見えた。

 だからぼくは高校にも行かなくなった。

 ぼくはアリスを使って、ぼく自身を変えることしかない。

 友達を作ればいいのだ。

 学校に通うことが楽しくなるような友達を。

 けれど、ぼくは長い引きこもり生活で友達の作り方なんて忘れてしまっていた。

 だからアリスに友だちを作らせた。

 アリスと、Sとあや、まだ見ぬこのふたりがきっとぼくを変えてくれる。

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