第2話 2013年10月7日、月曜日 ②
ぼくへ部屋を出て、
「姉ちゃん、今ちょっといいかな?」
姉ちゃんの部屋のドアをノックした。もうあの男は帰ったらしい。
「どうしたの? めずらしいね、あんたがわたしの部屋に来るなんて」
ドアを開けてくれた姉ちゃんは、ぼくのそばにいるアリスが見えていないようだった。
姉ちゃんはフリフリのピンクのかわいいパジャマを着ていた。
我が姉ながら姉ちゃんはかわいい。
色白で、華奢で、顔は小さくて目は大きい。まつげが長くて、長い黒髪はとても艶があってきれいで、まるで人形のようだった。
三日しかいかなかった高校でも、そのたった三日の間に、3年生にすごくかわいい先輩がいるって姉ちゃんのことがクラスで噂になっていた。ぼくは自分の姉ちゃんだとは言えず、黙って、でも少し得意げにみんなが噂しているのを聞いていた。
「うん、ちょっとね」
と、ぼくは言った。
食事は母さんがいつも部屋に持ってきてくれるから、ぼくはトイレと風呂以外の用事で部屋から出ることは滅多になかったから、姉ちゃんが驚くのも無理はない。
「あの男……姉ちゃんの彼氏にさ、携帯電話をもらったんだけど」
そう言うと、姉ちゃんはびっくりした顔をした。
「え、あの人から聞いてない?」
「聞いてないわよ。いつもらったの? ちゃんとお礼言った?」
「え、あー、うん、言ったかな、たぶん言った」
本当は言ってない。
「ちょっと上がって」
姉ちゃんはぼくの手を引っ張って、部屋に招き入れた。
ぬいぐるみがたくさんある、女の子らしい部屋だった。
姉ちゃんが好きな「バストトップとアンダー」っていうヴィジュアル系バンドのポスターが壁には貼ってあった。姉ちゃんはそのバンドの天才的ギタリスト・シンゴマンの大ファンだ。アリスは興味深そうにそのポスターを眺めていた。
姉ちゃんはベッドに腰掛け、ぼくはカーペットの上の座布団に座った。
「ご主人様、どうしてこの人たち、こんな奇抜な格好をされてるんですか?」
アリスがポスターを眺めながら言った。
「そういう路線のバンドなの。いいから黙って座ってろよ」
お前の格好も相当変だぞ、とはぼくは言わなかった。
「はーい」
アリスは、ぼくの隣にちょこんと座る。
「あんた誰と話してるの? ちょっとこわいんだけど」
姉ちゃんがぼくに言う。本当に姉ちゃんにはアリスが見えていないし、アリスの声も聞こえていないのだ。
アリスのことは話さない方がいいな、とぼくは思った。
「あ、いや、なんでもない。うん、なんでもないよ」
ぼくはなんとかやりすごした。また精神科に連れていかれるのはごめんだ。
「で、学さんから携帯電話をもらったってどういうこと?」
姉ちゃんは腕を組み、少し怒っているようだった。
何度も忘れそうになるけれど、学さんっていうのが姉ちゃんの彼氏のあの男の名前だ。加藤学。
「どういうことって言われても、ぼくにもよくわかんないんだ。三日前にも姉ちゃんの彼氏、うちに来たろ。そのときにあの人ぼくの部屋を訪ねてきて、携帯電話を置いていったんだ。あの人名義のものだけど、ぼくが好きに使っていいって。その代わり、自分とRINNEをしてほしいって言ってたっけ」
「RINNE?」
「姉ちゃんも多分やってるだろ。スマホの無料通話アプリ? ってやつ」
「うん、一応ね。最近はみんなメールよりRINNEで連絡とりあうから。もしかしたら学さん、あんたの話し相手になってくれようとしたのかな」
姉ちゃんはそう言って、「あとでお礼のメールしておかなくちゃ」と言った。
「で、あんたちゃんとRINNEで学さんと話してる?」
ぼくは首を横に振った。
「呆れた」
姉ちゃんはため息をついたけれど、そんなことを言われてもぼくにはどうしようもない。
携帯電話をもらったものの、三日間電源は切りっぱなしだったし、よくよく考えてみれば、ぼくはそのRINNEというやつのことがまだよくわかっていないのだ。
「で、ぼくが姉ちゃんの部屋を訪ねてきた理由なんだけどさ」
「うん」
「RINNEの使い方を教えてもらおうと思って」
姉ちゃんはまたため息をついた。
「別にいいけど。学さんに変なこと言わないようにね」
姉ちゃんはそう言って、ぼくにRINNEの使い方を教えてくれた。
本当は姉ちゃんに聞かなくても、アリスに聞けばなんでも教えてくれただろうけれど。
RINNEというのは、スマートフォン向けのインターネット電話やチャットなどのリアルタイムのコミュニケーションを行うためのインスタントメッセンジャーであるらしい。
複数人で会話をするグループチャットというものもあるらしいけれど、基本的にコミュケーションを行う相手はひとりずつで「友だち」に限られる。
友だちを作るには相手の携帯電話番号かRINNE IDが必要らしい。
携帯電話のアドレス帳に登録されている相手は自動的に友だちになるようになっていて、ぼくは姉ちゃんから聞いた携帯番号をアリスに耳打ちしてアドレス帳に登録させた。すると、RINNEの友だちに姉ちゃんが表示された。
相手の携帯番号を知らなくても、RINNEユーザーはそれぞれIDを持っているので、IDを教えてもらい検索し友だちに追加することで友だちになれる。
ぼくは姉ちゃんからあの男のIDを教えてもらった。またアリスに耳打ちして言われた通り検索してみると簡単に友だちに追加できた。
ついでに母さんの電話番号も教えてもらった。
「ありがと、姉ちゃん」
ぼくはそう言って立ち上がり、肝心なことを忘れていたことに気づいた。
アリスが先ほど試しに誰かに電話をかけてみましょうと言っていたのを思い出したのだ。
そういえば、そのために姉ちゃんの電話番号を聞きにきたんだっけ。
「部屋に帰ったら一度姉ちゃんに電話してもいいかな」
なんだか照れくさかったけれど、本来の目的を果たすためにぼくは姉ちゃんに言う。
「は? なんで? 話があるならここでしていけばいいじゃない」
「いや、なんていうか、生まれてはじめて携帯電話を持ったもんだから、少しでいいから電話してみたいなぁって」
「あんた友達いないもんねぇ。しょうがないな、携帯代、学さんが払うんだから五分だけだよ」
姉ちゃんはそれから、携帯電話ショップに行けば名義変更もできるから、早くバイトでも探して自分名義に契約しなさい、と言った。
姉ちゃんはけっしてぼくに学校に行けとは言わない。
「あ、それからあんたからも学さんにRINNEでお礼ちゃんと言っておきなさいよ」
その代わり、そんな釘を指されてしまったけれど。
部屋に戻ったぼくは早速アリスに姉ちゃんに電話をかけるように言った。
「素敵なお姉さまですね」
アリスが言った。
「すごく美人だし、おっぱい見ましたか? パジャマの上からでもわかる、もう、ぷるんぷるん! あれは絶対ノーブラですよ!」
「見るか馬鹿。姉ちゃんだぞ。早く電話かけてくれよ」
「ちなみにアリスもブラつけてません。パンツも履いてないです」
「聞いてねーよ」
確かに姉ちゃんは美人でおまけに頭がいい。
ぼくは出来損ないのくせに弟のことを小馬鹿にしてるけど、姉ちゃんはぼくみたいな出来損ないを馬鹿にしない。
出来が良すぎる兄貴や姉ちゃんがいると、弟や妹は立場がなくて結構つらいって聞くけれど、ぼくはそんな風に思ったことがない。
弟として姉ちゃんのことを誇りに思っていた。尊敬していたし、姉ちゃんみたいになりたいとも思っていた。思っているだけで実行に移せないのがぼくなのだけれど。
何よりぼくは姉ちゃんのことが大好きだった。初恋もまだのぼくには恋というものがよくわからないのだけれど、姉ちゃんのことは好きだった。世界で唯一ぼくが好きなのが姉ちゃんだ。
ぼくは案外恵まれているのかもしれない。
プルルルルルという呼び出し音が鳴って、すぐに姉ちゃんが電話に出た。
驚いた。
ぼくの目の前に姉ちゃんが現れたからだ。
ぼくの前に現れた姉ちゃんはさっきまで部屋で見てたパジャマ姿で、爪切りで足の爪を切っていた。
等身大サイズで、ベッドに腰掛けているのだろうけれど、ベッドはなくまるで空気椅子でもしているようだった。
ぼくはアリスを見る。アリスはいつものようにニコニコと笑っていた。
「どういうことだ? これ」
ぼくが問うと、
「テレビ電話のようなものです」
と、アリスは言った。
「テレビ電話って、携帯の画面に相手の顔が映るやつだろ? これじゃまるで……」
「目の前に本当にお姉さまがいるみたい、ですか?」
部屋にいるはずの姉ちゃんが、ぼくの部屋にいる。
ぼくはごくりと生唾を飲み込んで、姉ちゃんに手を伸ばした。
けれどアリスと違って、目の前の姉ちゃんには触ることができなかった。
「触れませんよ、そのお姉さまはホログラムですから」
アリスが言った。
「お前もホログラムじゃなかったっけ?」
「アリスは特別製なんです。それにアリスに触われるのはご主人様だけです。この携帯電話は、特殊な技術で空気中の成分──かつて光を伝達するものだと言われていたエーテルと呼ばれるもの──を使って、ご主人様の目の前に電話相手の現在の状況をリアルタイムでホログラム投影することができるんです。詳しく説明すると朝までかかってしまいますが……」
「いや、いい」
「もしもーし、お姉ちゃんですよー」
姉ちゃんがぼくの名前を呼んで、ぼくは我に返る。
目の前で起きていることが到底信じられなくて、電話をかけていたことをすっかり忘れていた。
「あ、ごめん。聞こえてる」
「どう? はじめての携帯電話は」
姉ちゃんに尋ねられ、
「なんていうか、すごいね」
ぼくは言った。そうとしか言い様がなかった。
「お母さんが若い頃はまだ携帯電話とかあんまり普及してなかったんだって。一応あるにはあったんだけど、なんかショルダーバックみたいなのに受話器がついてるようなすごく大きいやつだったらしくて、値段も相当だったらしいよ。科学の進歩っていうのはすごいよねー」
たぶん、姉ちゃんが言う「すごい」と、ぼくが言った「すごい」は意味が違う。
目の前に姉ちゃんがいる。その姉ちゃんはぼくに今見られていることを知らない。
「姉ちゃんさ、その今、もしかして爪切ってる?」
アリスが言うことを疑うわけじゃないけれど、ぼくは念のため確認してみることにした。
「あ、音うるさい?」
「ううん、そうじゃなくて。もしかして爪切ってるかなぁなんて」
「変な子」
ぼくは段々、覗きや盗撮をしているような後ろめたい気持ちになっていた。
「ありがとう、切るね」
「あ、うん、おやすみー」
電話が切れた。
ぼくはため息しか出なかった。
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