第1話 2013年10月7日、月曜日 ①

 ぼくは携帯電話を部屋の片隅に放置したままいつもどおりのひきこもり生活を続けた。

 携帯電話を欲しいと思ったことがなかったわけじゃなかった。

 うちの両親は、よその家の親と違って、こどもに携帯電話を与えてくれるような親ではなかった。

 死んだ父さんは家族を顧みず研究に没頭しているような人だったから、こどもに携帯電話をなんて考えたこともなかったろう。

 母さんは母さんで、携帯電話が欲しかったら自分で汗水流して働いて得たお金で買いなさい、毎月の料金も支払いなさい、という、今時珍しい教育方針の人だった。

 姉ちゃんが高校生になってバイトを始めたのは携帯電話がほしかったからだった。

 ぼくも携帯電話が欲しければバイトをしなくちゃいけない。

 けれど、学校にもろくに行けないようなぼくみたいな人間が働くことなんて到底できそうになかった。

 だから携帯電話を持つことをぼくは諦めていたし、第一携帯電話で連絡を取り合う相手が家族以外にはひとりもぼくにはいなかった。

 ぼくみたいな人間が携帯電話を持ったら、きっとガチャゲーやFREEなどのソーシャルゲームに夢中になって、月に何万も課金することが目に見えていた。

「ぼくの名義で契約したものだけど、気にせず好きなだけ使っていい」

 姉ちゃんの彼氏はそう言っていた。

 頭の良さそうなあの男のことだ。

 ぼくが携帯電話を持ったらソーシャルゲームにのめり込むだろうことくらいは予想しているはずだ。

 だから、好きなだけ使っていいっていうことは、ぼくがあの男名義の携帯電話でソーシャルゲームにいくら課金しても構わないってことだろう。

 けれど、ぼくはあの男の世話にだけはなりたくなかった。

 だから、携帯電話は部屋の片隅に放置したままだった。

 その代わり、ぼくは弟が学校に行っている間、弟の携帯ゲーム機で遊んでいた。

 ひきこもりっていうのは暇で、毎日することに困る。

 ぼくの部屋にはテレビもパソコンもなく、あるのは読み飽きた漫画くらいだった。

 だから弟から、最近買ってもらったばかりのモケモンの最新作のレベル上げを頼まれたとき、ぼくは久しぶりにやることができて嬉しかった。

 ゲームのレベル上げなんて、普通兄貴が弟にやらせるものだと思うけれど、うちは違う。

 何しろ弟は馬鹿だけれど学校にちゃんと行っていて、ぼくはその学校にさえ行っていないのだ。


 あの男がぼくを訪ねてきたのは、携帯電話を渡され、アリスと名乗る奇妙な女の子が現れた三日後のことだった。

 姉ちゃんや母さんや弟と楽しく談笑する声がリビングから聞こえていた。

 ちょっとトイレへ、と言ってあの男が席を立った。

 足音はトイレには向かず、ぼくの部屋に向かってきた。

「アリスとは仲良くなれたかい?」

 ドア越しにぼくにそう言って、ぼくがいつもどおり無言のままでいると、

「携帯電話からいきなり女の子が出てきたから慌てて電源を切ったってところかな」

 当たらずとも遠からずの言葉を続けた。

 この男はそういうものだと知って、ぼくにあの携帯電話を渡したのだ。

「君に渡したのは次世代の携帯電話だ。次世代と言っても何世代の先のものなんだけど。だから携帯会社の名前も、製造元も、機種名もどこにも書かれてなかったろう? ある研究所が極秘に開発を進めているものなんだ。

 人間は脳を10%ほどしか使ってないとよく言うけれど、携帯電話の機能にしたって100%使いこなせている人間はいない。特にほとんどパソコンに近い性能を持ったスマートフォンの普及で、人間は携帯電話すら10%ほどしか使いこなせなくなった。ほとんどの人間は、90%ほどの機能の使い方がわからないまま携帯電話を使っている。

 そこで生み出されたのが、彼女(アリス)だよ。

 スマートフォンのことをアンドロイド携帯とも言うけれど、実際に使用者にしか見えないホログラムタイプのアンドロイドを搭載しようなんて馬鹿なことを考えた人間がいてね、高度な人工知能を与えられた彼女は、使用者に携帯電話の使い方をレクチャーするコンシェルジュの役割が与えられている」

「あの子は自分のことをメイドだって言ってたぜ」

 ぼくは初めて男に言葉を返した。

「へぇ、アリスと話したのか?」

「自分が携帯電話から出てきたことを証明するから、一度携帯電話の電源を切って、自分の姿が消えたのを確認してからもう一度電源を入れ直してくれって言われた」

「そして、それ以来電源を入れてないってわけか」

 ふむ、困ったな、と男はさして困ったそぶりを感じさせない口調で言った。

「どうしてこんなものをぼくに? あんたは一体何者なんだ?」

 ぼくは問う。

「どうして君にその携帯電話を渡したかという理由はいくつかあるのだけれど、ぼくは君のお姉さんのバイト先で働くフリーターとしての顔の他に、さっき言ったある研究所の人間でもあるんだ。そいつは試作品で、実用化されるのは十年後か二十年後か、とにかくだいぶ先の話なんだけど、それまでにできるだけたくさんのデータを取りたいと研究所は考えている。まっとうに社会に生きる人間にこんなものを渡したら大騒ぎになるだろう? だから不登校でひきこもりの君にモニターになってもらおうと思ったんだ」

 男の話を聞いていて、ぼくはいつもながら不快な気持ちになった。

「ぼくが世間から誰にも相手にされていないからそのモニターに選ばれたと言ってるわけ?」

 男は少し黙ると、

「それは否定しない。君はまさにモニターにうってつけの存在だった」

 と言った。

「けれど、それだけが理由じゃない。君のお姉さんはいつも君のことを気にかけてた。友だちも恋人もいなくて、もう丸三年その部屋に引きこもっている君をね。高校をすぐに不登校になった後、お義母様が君を精神科に連れていったときは、何の異常もないと診断されたそうだけれど、もう何年かひきこもりを続ければ君は確実にうつ病か適応障害と言った精神病にかかるだろう。君はぼくにとって、大切な恋人の弟だ。ぼくも君を心配している。だからぼくは君に家族以外の話し相手を作ってあげたかったんだ。それがアリスだ」

「余計なお世話だ」

 ぼくは男の言葉を切り捨てた。

「まぁそう言わず、もう一度携帯電話の電源を入れてくれないか。アリスは君にしか見えないホログラムだけれど、君は彼女に触れることも、どんな欲望も叶えることができるようになっている。それは全部ヴァーチャルな感覚だけどね。脳なんて所詮電気信号で様々なことを知覚しているに過ぎない。リアルかヴァーチャルかは、脳自体には関係がないんだ。君が望むなら、アリスと性交渉をすることも可能だ」

「生憎ぼくは発育が遅れていてね、身長も体重も平均以下だし、声変わりだってまだだし、まだマスターベーションどころか精通もしていない」

「それは残念。まぁとにかくもう一度携帯電話の電源を入れて、アリスを召喚してやってくれ。十年二十年先の携帯電話には今とは比べ物にならないほど様々な機能が搭載されている。君はそれを扱えるんだ。何、最初は使い方がわからなかったとしても、アリスが全部レクチャーしてくれる。全部の機能を使いこなせるようになるまでそう時間はかからないはずだよ」

「嫌だと言ったら?」

「その次世代携帯電話の存在はこの国のトップシークレットだ。君がモニターの資格を返上するというのであれば、その存在を知ってしまった君をぼくは消さなくていけなくなる。さっきも言ったけれど、君はぼくの恋人の大切な弟だ。できればそんな手荒な真似はしたくない」

 男の言葉が本気だということはドア越しにもわかった。その気になれば本当にぼくを殺すつもりなんだろう。

「ひとつ聞いてもいいか?」

「なんだい?」

「姉ちゃんのこと、本当に好きなのか?」

「もちろん。家族思いで何事にもまじめで、頭がいい。そして何よりぼくの超どストライクの顔をしてるからね」

「姉ちゃんのこと大切にしてくれるって約束してくれるか?」

「今でも十二分に大切にしているつもりなんだけど」

「今以上にだ」

「わかった。約束しよう。だから君もアリスと仲良くしてやってくれ」

 そう言うと、男はぼくの部屋から去った。

 男の足跡が聞こえなくなると、ぼくは部屋の片隅に置いたままになっていた赤い箱から、赤い携帯電話を取り出した。

 ぼくはその電源ボタンを入れた。


「ひどいじゃないですか! 三日も電源を消したままにするなんて!」

 携帯電話から現れた草詰アリスは開口一番にそう言った。

 あの男はぼくにしか見えないホログラムのアンドロイドだと言っていたけれど、見た目は完全に人にしか見えない。

 ぼくは怒る彼女の体をペタペタと触ってみた。

「ちょっと何するんですか! どこ触って……あぁん」

 なんか今喘ぎ声みたいな声が聞こえたけれど、ぼくは胸とかお尻とかは断じて触ったりしていない。

 触ってみてわかったのだけれど、温かい。

 肌は人の肌とまるで変わらない手触りだし、確かに人のぬくもりがあった。

 今度は彼女のほっぺをつねってみることにした。

「痛いです! やめてください!」

 どうやら痛覚もあるらしい。

 手を放すとぼくにつねられた場所が少し赤くなっていた。

「お前、本当にアンドロイドなの?」

 ぼくが訊ねると、

「わたしの体は、水35?、炭素20㎏、アンモニア4?、石灰1.5㎏、リン800g、塩分250g、硝石100g、イオウ80g、フッ素7.5g、鉄5g、ケイ素3g、その他少量の15の元素から出来ています。人間ひとり分の材料です。遺伝子情報も人間と99.89%同じです」

 という答えが返ってきた。

「じゃあ、そこまで限りなく人間に近いお前が、携帯電話の電源を入れると現れて、電源を消すと消えるのはなんで?」

「わたしの遺伝子情報も、その材料ひとつひとつの原子にいたるまで、わたしのすべてがデータとして携帯電話の中にあるからです」

 彼女の言っている意味はよくわからなかったが、それ以上聞いたところでぼくにはたぶん理解できそうもないからやめた。

 ぼくは言う。

「あの男……加藤から、お前っていうかこの携帯電話を使いこなせるようになれって言われたんだけど……」

「ええ、もちろん伺っておりますよ! ご主人様は携帯電話をお持ちになられたことは?」

 ぼくは首を横に振った。

「母さんや姉ちゃんが使ってるのを見たことがあるくらいかな」

 我が家にはこどもに護身用のキッズケータイを持たせる習慣すらなかった。

「とりあえず、基本的な使い方を教えてくれよ」

 ぼくはそう言って、小一時間ほどアリスから操作説明を受けた。

 何世代も先の携帯電話と言っても、その使い方は現代の携帯電話とそう変わらないようだった。

 ただ操作方法が根本的に違っていた。

 ガラケーならテンキー、スマホならタッチパネルで操作する代わりに、この携帯電話はアリスに命令をすればいいらしい。

 例えば、ぼくが姉ちゃんに電話をかけたい場合、ガラケーやスマホの場合、アドレス帳や発着信履歴を開いて、姉ちゃんの電話番号を探し、電話をかける。それに対してこの携帯電話はアリスに「姉ちゃんに電話」と言えば電話がかかるらしい。

「試しに誰かに電話をかけてみてはいかがですか?」

 アリスにそう言われたけれど、ぼくの携帯電話のアドレス帳にはまだ誰の電話番号も入っていなかった。


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