お題『ちょっとしたアイデアを作品の主題に引き上げる』_『向日葵のワンピース』


『向日葵のワンピース』


 この少女は誰なのだろうか。

 おぼろげな幼い頃の記憶の中、鮮やかな空の青と向日葵の黄が記憶に焼き付いている。熱気をはらんだ風に翻る裾と、それとともに歪む向日葵たち。半袖の安っぽいワンピースをひらめかせた少女の顔は、影が落ちて見えない。

 悠木はそれが誰だか分からない。

 確かに記憶に残る少女。祖母の屋敷で、水しぶきの散る川縁で、確かに彼女と遊んだ記憶がある。鮮烈な夏の思い出としてそれは残っている。

 しかし、少女の名と、彼女が誰かだけが、悠木にはどうしても思い出せない。思えば、彼女がどこの家の子かも知らない。覚えているのは、ひまわりの柄のワンピースだけ。長じてから両親や近所の大人たちに何度彼女の事を聞いても、誰一人覚えていない。

 そうして思い出せないまま、26歳を迎えた。

 悠木の中で、その少女の存在は夏の陽炎だった。

 おぼろげで、確かでないもの。

 それが触れられるほどくっきりとした輪郭をとるとは思っていなかった。

 祖母が亡くなるその時までは。 


 祖母は老衰だった。おそらく祖母は自分でも亡くなるとは思っていなかったのだろう。祖母を喪った家から、遺書の類は見つからなかった。祖母の死後、母親は「近所に住んでいるから」という理由だけで、悠木に祖母の家に行くように命じた。祖母の家を母が着くまできっちり守るようにと。

「こんな家の何を守るんだよ……」

 悠木がそう言いたくなるほど、祖母の家は草臥れていた。祖母が生前手を入れていたのだろう。襤褸屋というわけではなかったが、よく言えば古風、悪く言えば時代遅れの造りをしていた。今時珍しいほどちゃちなつくりの鍵で、祖母の家の扉を開ける。中に入ってから見れば、なんと鍵は回転させて扉を閉めるネジ閉まり錠だった。そこでようやく悠木は、母の「家を守るように」という言葉の意味を理解した。この家はあまりにもすべてが古く、誰も住んでいない今、金目のものが盗まれない方がおかしいのだ。

 祖母の家は、舞い上がった埃と古い畳の匂いがした。玄関から右手に向かえば、祖母の好んだ居間が悠木を迎える。そこに敷かれた草臥れた炬燵も、雪見障子も、悠木の昔の記憶のままだった。

(懐かしいな)

 雪見障子ごしに外を見れば、ちらちらと白いものが降るのが見えた。牡丹雪が雪見障子の透明な硝子を彩っている。この様子だと夜のうちに帰るのは止めておいた方が良さそうだった。悠木の車は、無精をしてノーマルタイヤのままなのだ。夜間の雪道を走るのは無謀だった。

 祖母の家は、祖母の形だけをぽっかりとなくし、ただそこにあった。記憶と何も変わっていなかった。ところどころに祖母の名残を感じ、それが祖母の不在を際立たせる。情は薄い方だと思っていたのに、悠木の目頭はわずかに熱くなった。

(母さんにばあちゃんち着いたことだけ連絡しておくか……)

 そう思い、悠木は携帯を出す。

 何度か発信するが、繋がらない。不思議に思って確認すれば、携帯は圏外であることを示していた。電波が悪いのかと、悠木は居間から出て玄関に戻る。


 そこに、背中があった。


 半袖のワンピース。向日葵の柄。安っぽさを感じるぺらぺらの裾。そこから、細い細い脚が伸びていた。

 一瞬、理解が及ばず絶句する。少女が背中を向けて、そこに立っていた。

「君……」

 話しかけようとして躊躇った。少女は便所の木戸に額をくっつけて立っていた。

 それがどうしてか、ずいぶん気味が悪く思えた。近所の子供が紛れ込んだにしても、どうにも違和感を拭えない。

 少女と、悠木、二人の間に沈黙だけが積もっていった。 


 りりりりり。


 手元からの音に、悠木はびくりと体を跳ねさせた。着信だった。画面を見れば、母からだと分かる。

 もう一度顔をあげると木戸の前に居たはずの少女はそこにはもう居なかった。


 これはおかしい、と気づいたのはその日の晩だった。

 少女を自分の疲労による幻覚だとごまかし、その日は祖母の居間で床についた。煎餅布団ごしの畳は冷たく、積もった雪の上に直に寝ているようだった。冷えた脚を擦ってなんとか寝入ろうとして居る時、ふと、気配を感じた。

 背中の向こう側、なにかが居る気配がした。息づかい、足を踏む音、畳の軋み。それらが悠木に何かの存在を伝えてきていた。悠木の正面には、祖母が使っていた三面鏡があった。埃が被らないように、それには裾の長い和布がかけられている。

 それをそっと、引いた。

 暗い室内をうつしだす鏡には、ひとつそこにはあるはずのないものがうつっていた。

 向日葵の柄。半袖のワンピース。細い二本の脚。

 闇の中に沈む室内で、その二本の脚だけが白く浮き上がって見えた。

 昼間見た、少女がそこで背を向けていた。

 気づいた瞬間、悠木はぎゅっと目をつむった。長く見つめ続けていたら、その子供が振り向く気がした。そして振り向いてしまえば、取り返しのつかないことになるという予感がした。

 この少女は誰なのだろうか。

 耐えきれず閉じた瞼の裏に、向日葵の柄が焼き付いていた。


「や。ちゃんと居た」

 間の抜けた声を上げて、母は祖母の家を訪れた。事前に来ることは聞いていたのに、どっと安堵が押し寄せた。それでも不安で、玄関の脇にある便所を見る。その木戸の前に、少女は立っていなかった。

「なに? 便所行きたいの?」

「違うよ。いいから入れよ」

 悠木はそう言って母を引き入れた。母親はまるで自分の家かのように、悠々と居間に入ると炬燵の電源を入れる。そうして早速脚をそこにつっこみ落ち着いてしまった。

「悠木。みかん欲しい」

「ねえよ」

 無邪気な母に、昨晩からの緊張がほどける気がした。そのせいだろうか。母とともに炬燵に脚をつっこみ、二人の体が温まる頃。ぽつりと悠木は呟いてしまった。

「なあ。ここらへんって変な子、居ない?」

「変な子って?」

「……ワンピースの。向日葵の柄した、小学生くらいの女の子」

 母の唇はふと閉ざされた。しんしんと雪の積もる音だけが耳に五月蠅かった。母はきちんとスタッドレスでここに来たのだろうか。そんなどうでもいいことが、一瞬頭をよぎった。

「なにか思い出したの」

 母はそれだけ、悠木に問いかけた。

 それは、母が何かを知っている事を示していた。


「あんたはね。ませた子だったの。男友達と馬鹿やるより、女の子を家に呼んでクラシックなんて聴いてたの。え? 二階にオーディオ部屋があるでしょ。そこよそこ。お義父さんの趣味だったの。クラシック。遺伝かしらね。あんたもクラシックが昔から好きで、好きな子にそれを聞かせたがったの。名前? 思い出せないわね。それはいいのよ。それは」

 母はそこまで一息に言うと、口を茶で湿らせた。

「その子が、夏の日にオーディオ部屋で死んだの」

 とっさに何も口に出せなかった。やっとのことで出た声は、言葉にならない呻きの上、震えていた。

「失血死だって。その子が自分で首を切ったらしいの。あんたはそれを見た……みたい」

「みたいってなんだよ」

「あんたがそれを覚えてないから。本当にあんたがそれを見たか知らないのよ」

 「ただ、あんたとあの子はオーディオ部屋に居て、あの子はそこで死んでた」と母は続けた。

 理解が及ばず、思わず叫ぶ。背筋が冬以外の理由で冷えていた。

「なんでそんな……そんな家そのままに……」

「家のローンも残ってたし、その頃は家を手放したくてもできなかったのよ。その子の親は名乗りでなかったし」

 母もそれが言い訳じみていることに気づいているのだろう。沈黙の後、「言い訳だけど、黙っていてごめん。あんたが聞いても何度も知らないふりしたね」と付け加えた。

「結局私とお父さんとあんたは家から出て、お義母さんだけが残ったの」

 母の話は、それでおしまいらしかった。

 少女は死んでいた。なら、自分の見ている少女は、なんなのだろうか。

 頭が割れるように痛んだ。甘い痛みの中、「私が死ぬところ、見ててね」という少女の声を、聞いた気がした。


 記憶にないはずのオーディオ部屋は、悲しくなるほどの懐かしさを悠木に与えた。絨毯の香りも、ソファの皮の軋む音も、すべてが淡い寂寥となった。机の上にはレコードプレーヤーが置いてある。棚から適当なレコードを取り出し、その黒い波紋に針を落とした。聞き覚えのある曲が室内に響く。ショパンの『別れの曲』だった。頭痛が一際強くなる。割れるような痛みの中、少女の脚をそこに見た気がした。


「私が死ぬところ見ててね」

 少女の名前は知らなかった。幼い頃の悠木には、少女がクラシックの話を聞いてくれるだけで十分だった。

 だから、彼女がなんで死ぬことにしたのか、それを知ったのは彼女が手首を切ってからだった。

「やっぱり手首だと死ねんね」

 あはあはと笑う彼女に、確か悠木は「なぜ」と問いかけたのだ。

「なんで死ぬかって? お父さん死んでしまったんよ。私の家はお父さん以外稼げんから、私はもう食べていけん」

 それでも悠木は彼女に問いかけたのだ。「なぜ」と。

「……ああなんでここで死ぬかって。だってここ、綺麗だから。綺麗な音楽と、ユウキが居て、ここでの時間が私は一番幸せだから」

 彼女はそう言って自分の首をナイフで刺した。

「私が死ぬところ、見ててね」

 彼女がそう言ったので、悠木は見ていた。彼女の死を。

 数奇なことに、それを悠木は忘れてしまっていたが。


 ショパンの『別れの曲』はまだ続いていた。気づけば夜の帳が落ち、悠木の頭の痛みも消えていた。

「君が死ぬところを、ちゃんと見ていたよ」

 悠木の座ったソファ、その脇から二本の脚が伸びていた。

 見えない体には、あの向日葵のワンピースを着ているのだろう。

 この少女は、悠木の後悔だった。

 悠木の後悔が、彼女の姿を見せていた。

 目の前で死なせた後悔。彼女を忘れた後悔。

 そしてそれは、まだ残っている。

 後悔の姿をした彼女は、きっと悠木の部屋の隅に、ずっと立ち続けていくのだろうなと。

 悠木はそれだけ考えて目を閉じた。一瞬だけ全てを体から追い出す。

 そして、ショパンの『別れの曲』だけを体に満たした。



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