お題『「結末から考えていく」というやり方』_『凪』

『凪』


 叔父は魚の肉が好きだ。野菜は食わない。獣の肉は食わない。果物も食わない。ただ、魚の肉のみを好んで食べる。夏休みごとに海辺の叔父の家に預けられて18年。凪も叔父の食事に慣れ、段々と魚肉を好むようになってきた。

「叔父さん、今日のお夕飯はお惣菜でもいい?」

 そう声をかけると、叔父はゆっくりと振り向く。潮風の似合う文人のような細面が、ゆるく笑みをかたち作る。

「凪、今日は凪の誕生日だろう。僕が作るよ」

「……叔父さん、ご飯作れたんだね」

 そう言うと、叔父はじゃれるように凪の頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。これが叔父なりの親愛の示し方なのだと、凪は理解していた。

「今日は特別な肉だからね。シオさんのところで肉を受け取っておいで」

 そう言われて、叔父はいくばくかのお金を凪に渡した。それと共に、ずいぶんずっしりとした荷物も手渡される。それは古くさい柄の風呂敷に包まれている。鼻を近づけると樟脳と埃の混じった香りがした。

「なに? これ」

「誕生日プレゼントだよ」

「本当!」

 喜色であふれんばかりの凪の笑みを、叔父は人差し指で静かにふさいだ。

「でも約束。これは夕食を食べ終えるまで開けてはいけません」

 「約束できる?」と問う叔父に、凪は「できる!」と返す。

 凪はいつも思うのだ。その場ではできると。いつもその後きまって、好奇心が悪魔のようにささやいてくるのだ。

 ちょっとくらいいいじゃない、と。


 潮の香りのする風が、心地よく凪の髪をなぶっていく。

 凪は叔父の暮らすこの海辺の村が好きだった。うらぶれていると言ってもいいのに、どこか懐かしい。昼には穏やかな日差しが水面に金粉を散らし、夜はその水面が星明かりをうつす鏡になる。多様に姿を変える海に面したこの村を、凪は愛していた。

 浜辺を歩き、ぽつんぽつんとスニーカーの足跡をつける。

 目指す場所はもうすぐだった。

「シオさん!」

 凪がつま先の向く方向にいた人影に声をかけると、それはびくりとばね仕掛けのようにたわんだ。

「ああ……凪ちゃんかあ。夏休みかね。でかくなったね」

 そう返す老人、シオは昨年と変わらずしわくちゃの手を痙攣させながら話す。最初はびっくりしたが、もう凪も慣れたものだった。

「叔父さんがね、私の誕生日に特別なお肉を用意したから、シオさんとこに取りにいけって」

 シオが、昨年と、いや今までと変わったのはその時だった。手の震えが止まる。いつもは垂れた瞼に隠されて見えない目が、うっすらと開いていた。そうして、なにごとかをぶつぶつと呟き出す。

 凪は耳を澄ました。シオは「……けん。また……」と呟いている。意味のとれない音が漏れているように、凪には聞こえた。

「シオさん、体調あんまりよくない? 私お肉もらったら帰るからさ」

「いけん!」

 突如出された老人の叫び声に、凪は「きゃっ」と虫が出た時でさえ出したことのない悲鳴をあげた。

「凪ちゃん。いけん。いけん。今日は家に帰ったらいけん。帰ってしもうたら人でのうなってしまう」

 そう言う老人の目は、どこか凪ではない遠くを見ていた。

(シオさん、歳だもんね……)

 シオは長年海辺の小屋で暮らしている。誰も話し相手を求めず、一人で。それが老人の孤独と痴呆を加速させたに違いないと、その時の凪は考えた。それよりも、凪は右手に抱えた包みが気になってしょうがなかった。叔父からの誕生日プレゼント。開けないから。ちょっと持ち歩いて自慢するだけだからと、家から持ち出して来たのだ。

 好奇心には歯止めがない。ちょっとくらい持ち出してもいい。ちょっとくらい封を開けるくらいいい。ちょっとくらい中を覗いてみても。

 好奇心は加速する。老人の妄言など、右の耳から左の耳へと通り過ぎていっていた。

「シオさん! その話またこんど聞くね!」

 凪はそう言って、シオの隠した肉を取り上げた。靴箱の上にお金を置いて、饐えた匂いのするあばら屋から飛び出す。

 凪の頭には、もう老人の言葉などかけらも残っていなかった。


「あ……」

 誕生日プレゼントで、声を失ったのは、凪にとって初めての事だった。

 それほどそれは美しかったのだ。

 誕生日プレゼントを開けるために飛び込んだ岩陰で、それはちらちらと光を跳ね返し、プリズムの輝きを放っていた。

 行李いっぱいの貝殻。それが叔父の誕生日プレゼントだった。

 貝殻の裏は虹色のまだらに染まり、それがなんとも言えず凪の心をくすぐった。

「……?」

 ひとつ、違和感があった。

 違和感を確かめるために、凪は手元にその貝殻を持ち上げる。

 手のひら大の貝殻の内側には、なにやら文字のようなものが書かれていた。

「これ……手紙? 素敵……」

 貝殻の虹に記された、18歳の凪に向けての手紙。それは凪の乙女心をたまらなくさせた。

 むさぼるように、貝殻を読み解く。

 そうする内に、気づいてきた。

 これは凪に向けての手紙ではない。

 記録だ。

 凪は時系列のばらばらな貝殻を、つなぎ合わせてなんとか読み解く。

 なにか、なにか不穏な違和感に突き動かされている感触だけがあった。

 貝殻は、こんな話を伝えていた。


 ある男が鱗を浜辺で見つけた。

 それがあまりにも美しく、話に聞くだけの金剛にも勝ると思われた。

 何度も、何度も、男は浜辺に落ちている鱗を求めて砂浜を探した、

 そうして何の因果か、ある日出会ったのだ。

 じゃりじゃりと、鱗を岩で削ぐ人魚に。

 男が「何をしているのか」と問えば、人魚は「死にたいのだ」と返した。

 人の家ではこうして魚を殺して食うから、こうしたら死ねるだろうと、そう思ったというのだ。

 男は大笑いして、それでは死ねないと言った。

 そして人魚があまりに美しかったので、男はその日から人魚の自殺を邪魔し始めたのだという。

 人魚の名前は、凪。


 気づけば、息を詰めていた。人魚の名前が奇しくも自分と同じだったからだ。

 いや、奇しくもと言っていいのだろうか。これは偶然なのだろうか。

 18歳の誕生日プレゼントに、同じ名前の人魚の記録、または物語。

 凪は貝殻にもう一度手を突っ込んだ。鋭い縁で血が出たが気にならなかった。

 ただ、この話をもっと知りたかった。

 貝殻は、その続きをこう語っていた。

 

 凪は美しく、男は優しく、当たり前のようにお互い恋をした。

 けれども寿命が違うから、男は袖にされてしまう。

 ひとつ、条件がある。それが叶えば一緒になろうと。

 そう言われた男は問うた。それは何かと。

 人魚は答えた。私の肉を食えと。

 男は悩んだ。悩んで、悩み尽くした。

 彼女の肉を食おうと決めた日、彼女は獲られた。

 村で腕一番の漁師だった。

 漁師は彼女の肉を村のみんなに振る舞った。

 それからその村は人魚漁で盛んになった。

 そのままなら、きっともっと栄えたことだろう。

 男は人魚を忘れられず、漁師たちを一人を残して全員殺した。


「……は」

 凪は無意識に詰めていた息を吐いた。

 貝殻はあさりつくし、凪の足下にばらばらと散っている。

 あれほど美しく思えたそれが、いまはぬらぬらと気味悪く感じられた。

「……あれ?」

 凪の目は、再び行李に引き寄せられた。

 重なりあった貝殻の下、一際大きなものが光っていた。

 一瞬なにか分からず、理解した瞬間鳥肌が全身を覆った。

 それは、大きな扇のごとき鱗だった。

 凪は震える手でそれを手に取った。

 そこには、墨で一言だけ、文字が綴られていた。


 おいしかった。


「凪、どこだい」

 遠くから、潮騒にのってそう呼ぶ声が聞こえる。聞き慣れた叔父の声。

 そういえば、叔父はいつからあの顔だっただろうか。

 「若いね」と言われる、皺一つ無い青年だったろうか。

 そしてこの肉は、何の肉なのだろうか。


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