お題『作品の最後の数行を大事にする』_『七股協奏曲』
『七股協奏曲』
ダイアモンドに白い皮膚をかぶせれば、このようになるだろうと思うほど、内から光るもののある娘だった。娘は珈琲館「青牛舎」のドアを、重そうにあける。吹き込んだ夏の風が、彼女の黒髪を首に張り付かせた。そのまま娘はきょろきょろとあたりを見回す。あまりそんな風には見えないが、喫煙席でも探しているのだろうかと思い、鹿島は娘に話しかけた。
「お一人様でしょうか。喫煙は……」
「禁煙で。先に連れが」
とろりとした口調で娘が返す。声の様子の割にきっぱりとした態度だった。そのまま、「青牛舎」店内を見回しながら娘は奥へ奥へと進んでいく。銅でできた牛の像にも、葡萄を硝子で模した洋灯にも目もくれず。娘は一番奥の席に座る男のもとへ歩いていった。鹿島からは、娘のまあるい後ろ頭が、笑いとともに嬉しそうに揺れるのだけが見えた。
「リュウ」
娘がネクタルのようなとろりとした声で、そう男に呼びかけるのが聞こえた。
「店員さん」
フラットな声に呼ばれ、鹿島は声の元に向かった。それがネクタルの声の娘を案内した奥の席であることに気づき、思わずどきりとする。わずかな後ろめたさが鹿島にはあった。それは相手の居る女に見惚れてしまったがゆえかもしれないし、ただ単純に娘に自分のひとさじの下心に気づかれるのを拒むゆえだったかもしれない。
注文用のメモを片手に席に行けば、店内の明かりの下、娘と男の様子がよくよく見て取れた。
「リュウ」と呼ばれていた男は娘をじっと見つめていた。穴が空きそうなほど。その表情が、彼女にぞっこんであることを示している。
一方、女の方はどこかこなれた感じがした。その瞳に男と同じ温度の熱はなく、ただ穏やかだ。
「ブレンド一つ。モモは?」
「私もそれで」
鹿島は「はい。ブレンド一つですね」と言って席を離れる。後ろからくふくふという幸せそうな笑い声が漏れてきていた。鹿島は自分の中に今までに無く、彼女が欲しいという感情がわいてくるのを感じた。
それも、「モモ」と呼ばれた女が本題を切り出すまでであった。
「別れて欲しいの」
「え?」
鹿島も思わず口には出さないものの「え?」と心の中で呟いた。顔を動かさず、視線だけで奥の席を見やる。
「だからね。私と別れて欲しいの」
「なん……なんで……」
鹿島は思わず「リュウ」に感情移入し、内心で「そうだよ! なんでだよ!」と叫んでしまっていた。それほど、女の一言は唐突だった。いや、女の怒りはポイントカード式というから、「リュウ」が気がつかなかっただけで「モモ」の怒りのスタンプはポンポンと押され続けていたのかもしれないが。
「私、もういろんな人と付き合うのは止めて、きちんと生きようと思って」
「いろんな人と付き合ってたのか……?」
遠目からでもわかる。「リュウ」の目は捌かれて放置された魚類のようであった。
「うん」
「何人……?」
鹿島は固唾をのんで見守った。そんな鹿島を店長が小突くが、それどころじゃあないと鹿島はその手をはたき落とした。
「モモ」はほっそりとした指をす、と二本立てる。
「二股……」
「リュウ」の絶望する声が静かに響く。ふと店内を見回せば、みな料理に手を付けるふりをしながら、このカップルの行き先に夢中になっている。そんな視線の中、「モモ」はさらにほっそりした左手を、ジャンケンのパーの形に広げた。チョキと、パー、合わせてそう。
「七、股……」
「リュウ」の目が死んだ魚を通り越し、ただの絶望だけがのぞく黒い穴と化している。
「もうね。七人とお付き合いしてるとね。スケジュール管理も大変なの。私来年就職でしょう? 忙しくなるから、そろそろきちんとしないとと思って」
正論のように聞こえるが根底の理屈が明らかに狂気であった。二人の隣の老夫婦などあまりのジェネレーションギャップにホットティーの注がれたカップを傾けすぎ、ソーサーに零しまくっている。
「それでね」
「まだ……続きがあるのか……?」
同じ男として、鹿島は「リュウ」と「モモ」の間に入り、「もうやめてやれ!」と叫びたかった。客商売としてのプライドがなければおそらくそうしていた。「モモ」はかわいらしく、こて、と頭を傾ける。
「みんな、理由説明しても納得してくれなかったの。だからね」
にこ!という笑顔がいやに不吉に見えた。
「全員ここに呼んで、納得いくまで話して、きちんとお別れしようと思ったの!」
す、と二人の席の隣の老夫婦が席を外す。見れば話が聞こえていたであろう範囲の客はそれぞれ伝票を持ってレジに並んでいる。新人バイトがやれ巻き込まれてたまるかとレジ担当として走った。店長も奥の控え室に下がっていってしまった。残されたのは、逃げ遅れた鹿島のみ。
「モモ!」
同じ名前を呼ぶ複数の声が聞こえ、どやどやと6人の男たちが店に入ってくる。見た目だけでも多種多様で、バンドマン、美容師、バーテンダー、バイカー、バイヤー、ブルーカラー、3Bならぬ6Bが揃っていた。本当にやめて欲しい。鹿島は切実にそう思った。
にこにこと男たちに囲まれる娘からは、最初の繊細な印象は消え失せている。いまはもう、食虫植物にしか見えない。
「店員さん。ブレンド6つお願いします」
ネクタルの声が、とろりと鹿島を呼んだ。
その声が無数の男たちを惑わし、そして食らってきたのだろうなと。
鹿島はそれだけ考えて、ただの注文をとる機械になった。
了
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