お題『気になったり思いついたりしたことはメモする癖をつける』_ 『死相』


『死相』


「僕はモネを尊敬しているんだよ」

 男はそう言って、充の体のかたちを確かめるかのように目でなぞった。男の名前は知らない。知っているのは、彼が画家であること。モデルを求めていること。そして、そのモデルが私であること。薄い布一枚を羽織った充の体に、広い窓から夕日が注がれる。日が昇るころに彼のモデルになり、日が沈むころにはただの充に戻る。それがその画家との契約だった。

「モネって、睡蓮の?」

 唇をなるべく動かさないように、画家に問いかける。画家は「そうだよ」と首肯した。

「モネは印象派の画家なんだ。印象派は知ってる?」

「知らない」

「なんて言ったらいいかな。今まで公的なものだった絵画を私的なものにした人たちって言えばいいのかな」

 「僕、美術史は専門じゃないからわからないけど」と画家は続ける。

「同じモチーフを、違う時間、違う角度、ちがうカットで描く画家だったんだ。僕は彼を尊敬している。だから君たちを丸一日かけてこうやって描くんだ」

 どうりで、と視線を滑らす。充の視線の先には、女の絵があった。裸体の女。肌は絹のような白さで、髪は黒檀にならぶほどの色を持っている。その女だけではなかった。画家のアトリエには、女の絵が無数にあった。

 共通点は、女が画家の言ったとおり違う時間、違う角度、違うカットで描かれていること。

 そして、絵の中の女たちがみな、段々と窶れていっていることだった。

「私もああいう風に描いてくれる?」

「もちろんさ。君は美しいから」

 画家がそう言うならそうなのだろう。画家にとっては。

 充は画家にとっての美醜観などどうでもよかった。ただ、絵の中の女たちと同じようにしてくれればよかった。

 画家は「モデルを殺す男」と呼ばれていた。

 そして充は、その画家に描かれてもうひと月になる。

 

「どこに行っていたんだ」

 自宅の階段、暗がりの奥から投げかけられた声に、充は視線を上げた。

 険しい顔の父と、どこか得体のしれない生き物を見るような顔をした母がいた。

「言ったでしょう。モデルのバイトよ。別にいかがわしいことはしてない」

 その言葉で、父の顔が暗がりでも分かるほど赤く染まる。馬鹿な父。馬鹿な母。愚かな家族。

 彼らは私を恐れていた。

 祖父の遺言で相続人が私に指定されたからだ。遺言が発表された途端、今まで一緒に座ったことのない食卓のテーブルにつくように強制された。やたら味の濃い食事。放置していたとしか思えないまずい珈琲。そしてつくり笑顔の父と母。あれほど最悪の食卓は初めてだった。父と母と食事を囲むようになって一週間、体調に支障をきたしたのを理由に、私は食事を画家の元でとるようになった。

「もう寝るわ。お休み」

 それだけ言って、寝室に歩き去る。

 口の中に画家の元でとった食事の味が残っていた。

「まずいわ」

 画家の珈琲も、ずいぶんほうっておかれたかのような濃い味がした。


「君は食事が嫌いなのかい?」

 画家との食事が一ヶ月続いた時、彼は突然そう聞いてきた。彼が充の内面に触れようとしたのは初めてのことだった。

「嫌いではないわ。あなたのところの珈琲はまずくてきらいだけど」

「そう? 慣れると美味しいよ」

 舌の馬鹿な男だ。彼はミルクや、砂糖や、その他雑多なものを混ぜた珈琲を好む。彼はきまって充にも同じ物を飲ませようとしたが、充はこっそりとそれを入れ替えていた。不味い珈琲と、自分に阿る人間が、充はなによりも嫌いだった。

「珈琲を飲んだら、いつもの服に着替えてくれるかい」

 彼は、食後にそういつも口にした。それがモデル開始の合図だった。


 モデルになるのは好きだ。

 体に水の膜が張ったようになり、意識がどこか遠くにいってしまう。充は充の体を、部屋の隅っこにいって眺めている。モデルをしている間は、肉体に精神が引っぱられない。その独特の浮遊感が、とても好きだった。

「君は丈夫な女性だ」

 絵筆を握りながら、画家はそう呟く。

「僕が描いた女性はみんな窶れて、しまいには亡くなってしまう。君は本当に丈夫な女性だ。長く、できるだけ長く君を描いていたい」

 充は、画家のその言葉が嘘だとわかっていた。画家の粘つくような視線は、充の体の肉を忌々しそうに見つめている。

 はやく、はやく、骨を見せろ。画家の目はそう告げているようだった。

 充の嫌いなものは、不味い珈琲と、じぶんに阿る人間、あともう一つある。

 充を思い通りにしようとする男たちだ。


「たまには一緒に食事をとらないか」

 父にそう言われたのは、画家に「丈夫だ」と言われた翌日だった。

「珈琲一杯だけなら」

 そう返すと、渋い顔をする。母が父をなだめるように肩を叩く。

 父は表情を取り繕い、私の前には一杯の珈琲が差し出された。

 ふわりと、かぎ慣れた芳香が鼻孔に流れ込む。顔を俯ければ、黒い湖面が充の顔をうつしていた。

 この一杯で決めよう。

 そう考えて、珈琲を口に含む。

 それは画家のアトリエで飲んだのと同じ、苦く、不味い珈琲だった。それが決定打だった。

「ねえ、お父さん。お母さん」

「なんだい」

 両親の顔が喜色に彩られる。おそらく遺産の話について、彼らに得のある話を持ち出すと思っているらしかった。

 馬鹿な両親。馬鹿な画家。私の周りの人間たち。

 充の望みは一つだけ。

 そんな自分の嫌いなものから解放されて、一杯の、美味しい珈琲を口にすることだった。

「私、明日は家に帰らないわ」


 父親の手をひらりとかいくぐり、充は画家のアトリエの階段を上った。画家は嫌いだが、充は彼のアトリエは嫌いではなかった。レンガ造りの外装に、小さな小さなドールハウスのような部屋。そこに満ちるテレピン油の香り。唯一画家が充に、あの目を向けるのを止めさえすれば、そこは充の理想だった。

「……やあ君か」

 画家はずいぶん小さくなっていた。いや、充と出会ってから、小さくなり続けていた。充はその理由を誰より一番よく知っていた。

「あがってもよろしい?」

 小首をかしげる充に、画家は顔をしかめた。

「いや、今日はモデルはいいよ」

「モデルじゃあないわ」

 そう告げる充を、画家は見上げる。そこで気づいただろう。充の右手に抱えられたトランク。そしていつもの地味な見た目とは似ても似つかな強気な化粧。睫毛は十分上げ、眉はくっきりと、そして最後に真っ赤なリップを唇にひいた。誰かのいいなりにならない、強い女のための化粧。

「答え合わせを、今日はしにきたの」


 画家のアトリエは、やはり素晴らしかった。黄色に塗られた壁紙に、ニスが光を弾く床。くるりと一度回ってみる。姿見に、ワンピースを翻す充と、その後ろのアトリエがうつった。

「ねえ。私。このアトリエ欲しいわ」

「気に入って貰えたのは光栄だよ。僕も気に入っている」

「冗談じゃあないの。このアトリエが、欲しいの。聞こえなかった?」

 画家の顔が困惑したようにゆがんでいく。現実を理解するのを拒む顔だった。

「あなたは私の言うとおりにするしかないのよ」

 充は唇をゆがめた。


「だってあなた。私の珈琲に毒を盛ったでしょう」


 気づいたのは、モデルを始めて三日目だった。画家のいれる珈琲が、両親のいれるものと同じ味がしたのだ。両親は以前から食事にかこつけて、充に遅効性の毒を盛っていた。目的は遺産だろう。充がいなくなれば、遺産は両親が受け取ることができる。モデルのバイトを理由に食事を避け、彼らのいれる珈琲を飲まないようにしていたが、因果なものだ。結局バイト先で同じ毒を盛られることになるとは。

 画家が初犯ではないのは、彼の絵をみた時に気づいた。彼の絵の女たちは、みな同じようなやつれ方をしている。それは充が以前から調べていた毒の効能と、ぴったりと同じだった。気づいた日から、充は画家の珈琲と自分の珈琲を入れ替え始めた。画家は幸い砂糖やミルクをたらふくいれるので、自分で自分のいれた毒を飲んでいることなど、気づきもしていないようだった。

「ねえ。お体、大丈夫じゃないんでしょう?」

 答え合わせとして、とうとうと真相を語り、画家に問いかける。彼は充を、畏怖の視線で見上げていた。

 彼の体はやつれ、小さい。今ではもう、充の方が十分強いだろう。

「絵が描きたいものね。捕まりたくないものね。大丈夫よ。私をここにおいてくれたら、全部内緒にしておいてあげる」

 くすくすと笑う充に、画家はおびえと希望のにじんだ表情を見せた。

「ちょうど、あなたの罪をかぶってくださる方がいるわ」

 充の嫌いなものは、不味い珈琲、自分に阿る人間、自分を思い通りにしようとする男。

 充はその日から、嫌いなものに縛られず、自由になった。

 自分自身でいれた珈琲は、馥郁としてたいそう美味しかった。


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